こんにちは
議論は「勝ち負け」のためにするものではない。
確かに議論していて勝つこともあるし負けることもある。
だからといって、勝ち負けが目的ではない。
議論の目的は自分の考えをまとめること。
自分の考えの強みと弱みを明確にすることなんだ。
その目的が叶えられるのなら、たとえ負けたってそれは「勝ち」でもある。
自分一人で考えていたら、強味と弱味が明確にならない。
誰かと議論することによって、自らの考えを表出する。
すると相手は弱いところを突いてくるわけだ。
そこは論拠が不明確な部分かもしれない。
十分言語化されていない部分かもしれない。
それが明確になる。
議論によって相手が明確にしてくれるのだ。
「カチンときたら成長のチャンス」という。
誰かと議論していてカチンと頭にくることもあるだろう。
実はそこが自分の弱点なのだ。
自分でも深層心理では弱点だと分かっている。
だが表層心理ではそれを認めたくない。
そこを相手につつかれると、カチンと来るのである。
だからカチンと来ることは喜ばしいこと。
そこをなんとかする。
弱みを補強する、修正する。
それが自らを成長させるのだ。
弱みをズバリ指摘してくれた相手に感謝しなければならない。
カチンと来て頭に血が上り、そこで怒ってしまってはいけない。
いや、怒ってもいいが、そこで議論を放棄してはいけない。
誰しも自分の弱点を認めるのは嫌なものだ。
怒りたくなるのは自然なこと。
でも怒ってしまって議論を放棄してしまったら、そこで「負け」なのだ。
なぜなら、議論とは自らを成長させるためにするものだから。
怒って議論から離脱してしまったら、そこに成長は望めない。
努めて冷静になって、議論の場に踏ん張らねばならない。
踏ん張るだけの気力と勇気がない人が、怒って議論を放棄してしまうのだ。
強いアタマを持たねばならない。
突かれた痛いところを何とかするまで、あれこれ考え、言葉にしていくのだ。
であるから、議論とはあえて相手の痛い部分、突かれて嫌な部分をズバリと指摘するのが作法なのだ。
カワイソウだからって相手が嫌がるところを言い当てるのを避けてしまうのは、議論ではないし、相手のためにもならない。
その意味で、議論とはSM合戦なのである。
養老孟司さんは言う。「成長とは変化」。
自らを変えていくことこそ、成長するということだ。
そして人間は成長することを常に望んでいる。
誰もが成長するために生きていると言っていい。
そのためには自分を変えていかないといけないのだ。
変わらない自分に成長はない。
和田中校長だった藤原和博さんは、「生徒への最大の褒め言葉は<お前、成長したな!>である」と言った。
成長は喜びなのである。
教師の仕事は、生徒を成長させること。
生徒に成長を実感させること。
そしてそれを認めてやること。
だから教師は優しいだけではいけない。
時に厳しく対処する必要もある。
生徒の成長を願ってだ。
だが厳しくすることは実は自分の弱みをも顕にすることになる。
生徒に厳しくするためには、教師だって自らを律していないとならないからだ。
「お前には言われたくないよ」と生徒に言われてしまっては、立つ瀬がない。
だから逆説出来であるが、誰かの成長を望むためには、自らも成長して行かないとならないのだ。
うまくいかないのだ。
それを生徒も分かっている。
だからのんべんだらりと毎年糞面白くない同じ授業を繰り返している教師を嫌う。
成長していない人間から何かを教わる気になれないのだ。
議論も同じである。
相手の弱みを突くためには、自分も同じ弱みを克服しなくてはならない。
「お前に言われたくないよ」だからである。
議論にはそういう機能があるのだ。
だから議論は面白い。
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