こんにちは
文字は学問をするための道具にて、
譬えば家を建つるに槌鋸の入り用なるが如し。
槌鋸は普請に欠くべからざる道具なれども、
その道具の名を知るのみにて家を建つることを知らざる者は、
これを大工と言うべからず。
正しくこの訳にて、文字を読むことのみを知って物事の道理を弁えざる者は、
これを学者と言うべからず。
いわゆる論語よみの論語しらずとは即ちこれなり。(福沢諭吉「学問のすすめ」19-30ページ)
昔、ぼくが教師だった頃、小学校で習う物事のうち、将来、中高生になって役立つものは何だろうと思って、調べたことがあります。
国語の読み取り?いやいや、学校で習わなくたって成長するに応じて、主人公の気持ちも作者の意図も読み取れるようになるものです。
鉄棒、逆上がり?跳び箱?別にできなくたってたいして困らないなあ。
理科、社会?これなんか、ほとんど同じことを中学、高校でも習います。
結局残るは「読み書き計算」だけになっちゃった。
これは、中高生になっても、大学生になっても、社会人になっても役に立つ。
もちろん、小学校で身に付かなかったとしても、中学、高校で身に着けることもできる。
でも、中高で身に着けようと思うと、相当な努力が必要になってしまう。
「読み書き計算」は、小学生の年代に身に着けた方が、楽に身に付くものだと思いました。
中学、高校だと手遅れ。
手遅れ、ということは、「読み書き計算」が身に付いていないと、中高生あるいはその後の人生においてかなり不利益となるということです。
だから、小学校の勉強は「読み書き計算」をコアにしないといけないと思いました。
ここはしっかりと、ビシバシ鍛えないといけない。
でも、人間って鍛えるだけだと育たない。
いくら鍛えても、イヤになっちゃったら身に付かないんです。
ああそうか、読み書き計算以外の時間は子どもを楽しませるためにあるんだ。
楽しい時間もあるから、きびしい時間にも耐えられる。
できるできないをきびしく査定されることは、子どもだろうと、大人だろうと非常なるストレスになります。
だから100%できるできないを査定される世界に漬け込んではいけないのです。
そのやり方は、人を脱落させたいときだけ使う方法です。
育てたいなら、メリハリをつけた方がいい。
だから、小学校では「読み書き計算」は100%を目指してビシバシ鍛え、その他のことはできるに越したことはないけど、できなくてもそんなに気にしない。
できる子にはもちろん応援し、自由に伸び伸び学ばせる。
少なくとも邪魔はしない。
でも、できない子は無理に鍛えなくてよろしい。
人には向き不向きがあって当たり前。
不向きなことを無理矢理やらせると、心が曲がります。
あるいは、まだそれをやるに精神的、肉体的レディネスができていないだけかもしれません。
気長に気楽に待てばいい。
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