こんにちは
昨日、今日と会社で課長代理研修(必修)を受講しています。
リーダーシップ研修なんだって。
部下に嫌なことを言うための面談をロールプレイするなど、ぼくの不得手な実習もありました。
んー、上司って部下に嫌なことを言うのが仕事なのかなー。
そんなんなら上司って楽しくないよなー、なんて思っちゃいました。
もう一つの実習で、グループディスカッションで建設的にモノゴトを決めるというのがありましたが、こっちは楽しかった。
こういうことならぼくも有能さを発揮できるのにね。
子どもを育てるときの鉄則は、褒めて育てることです。
もちろん躾は大切で、悪いことをしたら、社会的に見て好ましくないことをしたら、その場で叱ることは必要。
でもそうじゃない、未熟なための失敗、経験が足りないための間違いを子どもがしたときは、絶対に叱っちゃいけないんです。
特に知的な間違いは、子どもはただ単に知らないだけなんですから、バカと言ってはいけない。
知らないなら教えてやればいいだけなんです。
バカ、バカと言っていると、本当にバカに育ってしまいます。
自分はバカなんだと自己規定するようになるからです。「自己否定感」を持つようになってしまう。
そうすると、ぼくはバカなんだから仕方ない、バカなんだからやってもダメ、と思いこみ、成長のチャンスを逃すようになります。
ちょっと努力すれば成功することができるようなことでも、最初からあきらめてしまうようになる。
そうこうしているうちに本物のバカになってしまう、というメカニズムです。
特に「つ」の付く年齢、九つ、小学校3年生くらいまでは、褒めて育てなくちゃね。
自分は有能であり、かつみんなから認められている、という自己肯定感を育てる。
そうすると、ある意味楽観的になれます。
困難な状況に出くわせても、ぼくならなんとかできるだろう、きっとやり遂げられるに違いない、みんなも協力してくれるはずだ、って。
成功する見通し、見込みがあれば、必要な努力は惜しまないようになります。
そういうよい循環に入れれば、どんどんと賢くなっていけるわけです。
「つ」の付く年齢を過ぎる頃、小学校4年生くらいから、学校で習う勉強も抽象的で難しくなってくるし、友だちづきあいも複雑になってくる。
そういう時期に自己肯定感があれば、自らが自らを鍛え、健全に育っていけるんだと思います。
岸田秀『古希の雑考』文芸春秋\1800-から引用します。
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(略)どのような職業も、それを非難し軽蔑すればするほど、その職業に就く人間の質を低下させることになるからである。
現実に何の根拠もない、まったくの仮定の話であるが、例えば、タクシーの運転手は、客が道を知らないとわざと遠回りしたり、タクシーでしか帰れない客の弱みにつけ込んだりして金をたくさんふんだくろうとする薄汚い連中で、サービスの気持ちに欠け、気ままで自堕落などうしようもない奴らだ、タクシーの運転手になろうなんていう奴はろくでなしに決まっているというような囂々たる非難が世間に満ちているとしてみよう。
こういう非難に直面して、タクシーの運転手たちは、非難されたことを反省し、非難されないようにもっとまじめで親切でサービスのよい運転手になろうと努めるであろうか。
そういう気にはなれないであろう。
そのような評判が立つと、まじめで親切な運転手は嫌気がさして運転手を辞めるであろう。
そして、その穴埋めに、そのような非難なんか気にもしない本当にろくでなしの人間しか集まらず、まさに世間の非難通りの運転手がだんだんと増え、ついには、タクシーの運転手全員が悪評通りの人たちになるであろう。
現在、もちろんそうなってはおらず、日本のタクシー運転手は、一部の外国の同業者とは比べものにならないほどまじめで親切で、少なくともわたしは料金の不正請求なんてことはされたことがないが(アメリカや東南アジアでされたことはあるが)、それは日本ではタクシー運転手はみんなが非難して馬鹿にする職業ではないからであろう。
非難というものは、非難されたことがたとえ的外れの非現実であっても、その非現実を現実化する力があるのである。(「総理」と「草履」は使い捨て43-44p)
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この原理は子どもだけじゃなくて、社会人にも当てはまりますね。
自分の部下、一緒に仕事をする人を、むやみやたらとバカと言ったり、バカにした態度を取ってはいけない。
それは損なことです。
考えてみればわかることですが、バカだ能なしだと言われて頑張れる人なんてめったにいません。
そう言う方はもっと頑張って欲しくて言うんでしょうが、逆効果。
萎縮してしまって本来持っている実力さえ発揮できなくなります。
自己否定感を強めるだけで、どうせおいらはバカだよ、バカなんだからしょうがないだろう、だから何言ったってやらないよ、という開き直りされる結果になるだけだったりします。
もちろんサボっていたり、やるべきことをやらなかったりしたときは、叱責するのは当然です。
でも、自分は相手に無理な注文をしていないかどうか、常にチェックしておくことは大切です。
相手の能力、時間、事情を無視して、無理を言っていないかどうか。
無理を言っているから、サボったり、やるべきことができなかったりしているのではないか、というチェックです。
無理をさせれば必ずパフォーマンスは落ちるんです。
サボるにはサボるだけの必然があるんだと思います。
なぜ無理を相手に押しつけちゃうのかというと、相手にベストを求めてしまうからです。
あるいは、自分の理想を相手に押しつけてしまうからです。
相手がベストを尽くしてくれない、理想通りにしてくれないから、イライラし罵倒してしまうわけです。
そもそも、ベストになんかできるわけがなく、理想通りできるわけがないわけです。
上手く行かないのは必然なんです。
上手く行かなくて権力関係が上の奴から一方的に罵倒されれば、気分悪くなりますよ、そりゃー。
ますます相手もこちらの言うことなんか聞かなくなるのは当然です。
負のスパイラルに入ってしまう。
無理のない範囲で実力を発揮してもらうのが、最もパフォーマンスがいいことです。
だからぼくは相手にベストは求めない、理想を押しつけないようにしています。
もちろん理想は掲げますよ。
理想=目的ですから、理想を共有していないと何のために今やる仕事が必要なのか分からなくなってしまう。
必然性を見いだせない、方向性を見いだせない仕事には、人は熱中できないものです。
理想は掲げつつ、妥協する。
自分も含めて、人にはそれぞれいろんな事情があるわけですからね、それも認めていく。
で、いろんな事情がある中で、どうやっていったらパフォーマンスが上がるのか考えます。
つまり、ベストエフォートでやっていくのです。
諸事情勘案して、相手のできる範囲と自分のやれる範囲を上手く仕分けして、お互いベストエフォートで仕事が進められるように段取る。
そうすれば、個々の作業は順調に進捗することができます。
順調にいけば「よかったねー、上手く行ってるねー、ありがとう、どうも」とお互いに言えます。
お互いに認め合い、クレジットレベルを上げることができ、自己肯定感が増していきます。
そうなれば気分よくなります。
気分がよくなれば、当然引き続きがんばろう、もっといい仕事をしなくちゃという気になりますよ。
だからぼくは、ベストを求めるのはやめよう、ベストエフォートで行こう、と主張したい。
ベストエフォートこそベストな生き方なんだと思っているのです。
困難な状況に出くわせても、ぼくならなんとかできるだろう、きっとやり遂げられるに違いない、みんなも協力してくれるはずだ、って。
成功する見通し、見込みがあれば、必要な努力は惜しまないようになります。
そういうよい循環に入れれば、どんどんと賢くなっていけるわけです。
「つ」の付く年齢を過ぎる頃、小学校4年生くらいから、学校で習う勉強も抽象的で難しくなってくるし、友だちづきあいも複雑になってくる。
そういう時期に自己肯定感があれば、自らが自らを鍛え、健全に育っていけるんだと思います。
岸田秀『古希の雑考』文芸春秋\1800-から引用します。
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(略)どのような職業も、それを非難し軽蔑すればするほど、その職業に就く人間の質を低下させることになるからである。
現実に何の根拠もない、まったくの仮定の話であるが、例えば、タクシーの運転手は、客が道を知らないとわざと遠回りしたり、タクシーでしか帰れない客の弱みにつけ込んだりして金をたくさんふんだくろうとする薄汚い連中で、サービスの気持ちに欠け、気ままで自堕落などうしようもない奴らだ、タクシーの運転手になろうなんていう奴はろくでなしに決まっているというような囂々たる非難が世間に満ちているとしてみよう。
こういう非難に直面して、タクシーの運転手たちは、非難されたことを反省し、非難されないようにもっとまじめで親切でサービスのよい運転手になろうと努めるであろうか。
そういう気にはなれないであろう。
そのような評判が立つと、まじめで親切な運転手は嫌気がさして運転手を辞めるであろう。
そして、その穴埋めに、そのような非難なんか気にもしない本当にろくでなしの人間しか集まらず、まさに世間の非難通りの運転手がだんだんと増え、ついには、タクシーの運転手全員が悪評通りの人たちになるであろう。
現在、もちろんそうなってはおらず、日本のタクシー運転手は、一部の外国の同業者とは比べものにならないほどまじめで親切で、少なくともわたしは料金の不正請求なんてことはされたことがないが(アメリカや東南アジアでされたことはあるが)、それは日本ではタクシー運転手はみんなが非難して馬鹿にする職業ではないからであろう。
非難というものは、非難されたことがたとえ的外れの非現実であっても、その非現実を現実化する力があるのである。(「総理」と「草履」は使い捨て43-44p)
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この原理は子どもだけじゃなくて、社会人にも当てはまりますね。
自分の部下、一緒に仕事をする人を、むやみやたらとバカと言ったり、バカにした態度を取ってはいけない。
それは損なことです。
考えてみればわかることですが、バカだ能なしだと言われて頑張れる人なんてめったにいません。
そう言う方はもっと頑張って欲しくて言うんでしょうが、逆効果。
萎縮してしまって本来持っている実力さえ発揮できなくなります。
自己否定感を強めるだけで、どうせおいらはバカだよ、バカなんだからしょうがないだろう、だから何言ったってやらないよ、という開き直りされる結果になるだけだったりします。
もちろんサボっていたり、やるべきことをやらなかったりしたときは、叱責するのは当然です。
でも、自分は相手に無理な注文をしていないかどうか、常にチェックしておくことは大切です。
相手の能力、時間、事情を無視して、無理を言っていないかどうか。
無理を言っているから、サボったり、やるべきことができなかったりしているのではないか、というチェックです。
無理をさせれば必ずパフォーマンスは落ちるんです。
サボるにはサボるだけの必然があるんだと思います。
なぜ無理を相手に押しつけちゃうのかというと、相手にベストを求めてしまうからです。
あるいは、自分の理想を相手に押しつけてしまうからです。
相手がベストを尽くしてくれない、理想通りにしてくれないから、イライラし罵倒してしまうわけです。
そもそも、ベストになんかできるわけがなく、理想通りできるわけがないわけです。
上手く行かないのは必然なんです。
上手く行かなくて権力関係が上の奴から一方的に罵倒されれば、気分悪くなりますよ、そりゃー。
ますます相手もこちらの言うことなんか聞かなくなるのは当然です。
負のスパイラルに入ってしまう。
無理のない範囲で実力を発揮してもらうのが、最もパフォーマンスがいいことです。
だからぼくは相手にベストは求めない、理想を押しつけないようにしています。
もちろん理想は掲げますよ。
理想=目的ですから、理想を共有していないと何のために今やる仕事が必要なのか分からなくなってしまう。
必然性を見いだせない、方向性を見いだせない仕事には、人は熱中できないものです。
理想は掲げつつ、妥協する。
自分も含めて、人にはそれぞれいろんな事情があるわけですからね、それも認めていく。
で、いろんな事情がある中で、どうやっていったらパフォーマンスが上がるのか考えます。
つまり、ベストエフォートでやっていくのです。
諸事情勘案して、相手のできる範囲と自分のやれる範囲を上手く仕分けして、お互いベストエフォートで仕事が進められるように段取る。
そうすれば、個々の作業は順調に進捗することができます。
順調にいけば「よかったねー、上手く行ってるねー、ありがとう、どうも」とお互いに言えます。
お互いに認め合い、クレジットレベルを上げることができ、自己肯定感が増していきます。
そうなれば気分よくなります。
気分がよくなれば、当然引き続きがんばろう、もっといい仕事をしなくちゃという気になりますよ。
だからぼくは、ベストを求めるのはやめよう、ベストエフォートで行こう、と主張したい。
ベストエフォートこそベストな生き方なんだと思っているのです。
1 件のコメント:
こんにちは。姫路の米谷(こめたに)です。
子どもへのご案内、ありがとうございます。
ベストエフォートな生き方こそベストな生き方、なるほど! そのとおりですね。
また負のスパイラルのお話しも、そういえば自分もいま状況が正のスパイラルに入っているのか、負に入っているのかを意識することが良くあります。
拝読していて、子育て論もふくめとても共感することが多いです。
またたびたびおじゃましますので、よろしくお願いします(^_^.)
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