とんたんが小学校に入学したら、国語と算数の教科書を10月頃までに終わらせてしまうつもりだ。
子どもに自信を持たせるコツは、「ぼくは頭がいい」と錯覚させることである。
1年生の勉強を半年でやり終えちゃう具体的事実。
確実に錯覚させられるぞ。
学校で教えられるのを待っていてはいけない。
ちょびっとでもいいから先取りする。もちろん無理のない範囲で。
それを「勉強の貯金」と呼ぶ。
お金も多少のたくわえがあったほうが気持ちに余裕が出る。
それと同じで、勉強の貯金があると、あせったりプレッシャーを感じたりすることがなくなるのだ。
精神的にゆとりを持っていたほうが、効率も上がるのだ。
冬休み中、長男はっちゃんに3ケタ×3ケタの掛け算を教えた。
これも最近は小学校で教えないことになっている。
3ケタ×3ケタができれば、それ以上のケタの掛け算も同じやり方でできるようになる。
だから2ケタ×2ケタだけじゃだめなんだ。
高校物理、化学では3ケタの乗算ができないと問題が解けない。
計算ができないために物理や化学が不得手になるのはとても損だ。
小学校のうちに教えないのは犯罪的である。
中学でもまともに教えないんだから。
ゆとりとは、ちょっと余分にやることで生まれるのだ。
難しいことはやらない、やらせないということじゃないんだ。
難しいことまでちょっとやっておく。
だからやさしいことは楽々でき、心にも時間にもゆとりが生まれる。
これは勉強でも仕事でも同じだ。
はっちゃんは去年10月に漢字検定9級(小2までの漢字)に合格し、今は3年生に習う漢字を毎日2文字ずつ練習している。
3年生の学習漢字は200文字。
毎日2文字ずつやれば3~4か月で終えられる。
一通り終えたら、漢字検定8級のテキストと過去問で繰り返し習熟する予定。
習熟する時間を確保するために、どんどん先へ進むのだ。
習熟せずに真の学力は身につかない。
何事も習熟するためには時間が必要なのだ。
学校の授業のように、薄っぺらな教科書をのんびり進めていたら、習熟する時間が足りなくなる。
それは返って子供の余裕を奪う。
漢字の習得は語彙力に直結している。
語彙力こそ国語力の源。
なぜなら読める漢字が多いほど、読める本の幅が広がる。
知識を自分で獲得していけるのである。
読書は自学力の源泉なのだ。
社会人になっても読書を続けられる能力。
必要なことを本を読んで自分の中に取り込める力。
大人でも意外とできない人が多いのだ。
仕事に役立つ読書ができる社会人は,上位10%くらいしかいないんだそう。
そして読書をするにも時間は必要だ。
ちょいと先まで勉強しておくから、学校で出される宿題も短時間でこなせる。
本を読む時間を生み出せるわけだ。
ところではっちゃんに3ケタ×3ケタの掛け算を教えたが、計算の「手続き」のみを教えた。
シーケンス、プロトコルである。
計算の「意味」は教えてはいない。
なぜなら8歳の脳ではまだ計算の意味まで理解できないからだ。
8歳の脳は手続きを記憶するには適しているが、内容を理解するには適していない。
小学生頃、中学生もかな、は手続き記憶(意味記憶、単純記憶)に適しているのだから、丸暗記でもいいからとにかく覚えさせたほうがよいのだ。
学校の先生は何かと「理解」を重視するのだが、それは子供の脳の発達に適していない。
無駄な努力である。いい迷惑なのだ。
わかるまで教えようとするから、時間がかかり、教科書はなかなか進まず、子どもも先生も嫌になる。
こうして勉強嫌いが増えてしまうのだ。
小学生は(中学生も)できればいいのである。
手続きを教え、丸暗記させ、できるようにさせよう。
そのほうが効率的なのだ。
できるようになれば、それを繰り返していくうちにわかるようにもなっていくのだ。
できない限り、わかるようにはならない、絶対に。
それに、できればテストでいい点数を取れる。
いい点数が取れれば、自分はできるんだ、と錯覚し続けられる。
さらに勉強しよう、という意欲が生まれ、ポジティブなフィードバックが起こる。
できるようにしないで、子どもの学力が上がることは絶対にない。
最近の脳科学で、年齢が上がるほど記憶容量が大きくなることがわかってきた。
なぜなら、記憶とはニューロン同士のネットワークなので、このネットワークが広がるほど、新しいことを覚えられるようになるのである。
であるから、脳のネットワークが広いほど、年齢が上がった時の記憶容量も大きくなる。
子どものうちからたくさん記憶し、覚える訓練をしておいたほうが、後々もたくさんのことを覚えられるということなのである。
そして思考。
これも脳科学で、脳はメモリーベイスドアーキテクチャであることがわかっている。
脳は、記憶を基にした思考機関なのである。
確実な記憶が多いほど、精緻で深い思考ができるのだ。
だから丸暗記をばかにしてはいけない。
理解するためには記憶していないといけないのだ。
記憶は理解に先立つのである。
まず「できるように」することこそ、教育の原点であり、本質なのである。
理解はその先にあるのだ。
計算も漢字も小学校でしか教えてくれない。
中学になるとまるで不親切で、まったく教えてくれなくなる。
あたりまえといえばあたりまえだが、中学校のカリキュラムは小学校の読み書き計算力を前提としている。
その前提がなければ、中学の勉強はお手上げなのだ。
お手上げの生徒が半数以上いる中学のクラスで、まともな授業ができるわけがないのである。
中学校は高校とともに「中等教育機関」なのである。
戦前の中学校は厳しい入学試験もあり、進学率も10%程度のエリート校であった。
戦後中学校は義務教育になったが、そのカリキュラムは戦前の中等教育のものをほぼ踏襲しており、非常に高度な内容のままなのである。
小学校でののほほんと過ごしてしまった生徒は、ほぼ中学の勉強についていくことはできない。
読み書き計算の基礎的学力と、毎日2時間程度の家庭学習の習慣がない生徒は、中学での学習内容を習得していくことはできないのだ。
その意味で、小学校教育の責任は重い。
だがそれでも、ほとんどすべての生徒が高校へ進学できる。
そのまた半数は大学へも進学できる。
学力の伴わない高学歴者ばかり増えてしまう。
小学校で習う程度の計算力、漢字力さえしっかり身につければ、一生を通じて役に立ち、人生にゆとりをもたらす。
それが本当のゆとり教育であるはずなのだ。
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