2012年8月20日月曜日

基礎学力と集中力

こんにちは

はっちゃん、九九をほぼ全部諳んじてしまったので、今日から100ます計算に挑戦です。
まずは、0~9までシーケンシャルに並べたものから。

最初に、100ます計算のやり方を説明。
すでに九九を覚えながらこの用紙を使っていたので、すぐ理解できました。
それから、100ますの計算時間の目安を説明しました。

 ・5分以内でできたら2年生レベル。
 ・4分以内なら3年生レベル。
 ・3分以内なら6年生と同じくらい。
 ・2分以内なら大人と同じだよ。

最初は遅くてもいいんだよ。
だんだん速くしていけばいい。

はっちゃんはとても集中してました。
結果はギリギリながら4分以内!
「スゴイ!もう3年生レベルになっちゃった!」とお母さんも激賞。
朝晩1枚ずつやれば、夏休み中に3分を切れるようになれそうです。
そうしたらランダム九九の100ますに挑戦です。

すきなことをトコトンやってほしい。
我が子たちにはそう願っています。
けれども、世の中徒手空拳では戦っていけません。
最低限の「武器」を子どもに持たせて、世の中に送り出したい。
それは、小学4年生までに習う読み書き計算と、何かに集中して取り組める力です。

基礎学力と集中力は、一生使え、役立つものです。
これさえあれば、何にだって挑戦していけるんです。
この二つを子どもに身に着けさせてやることは、親からの最高のプレゼントだ、と100ます計算の生みの親である岸本裕史さんはおっしゃっていました。
楽しく続けていきたいですね!

好きなことだけやればよい

こんにちは

先週末、加古川ウェルネスパーク図書館に呼ばれて、サイエンスカフェをやってきました。
事前受付はしないで、当日受付。
お盆休みにみなさん集まってくれるかどうか、ドキドキでした。
親子20組合計40人の予定でしたが、ちょいとオーバーしてもいいように、座席は48席用意。
お客さんの入りが悪いようだったら、館内放送もしてもらう予定でした。
ところが、開場前に行列ができ、開演10分前にはほぼ満席。
結局、用意した座席数を超える50人もの親子さんが集まってくれましたよ。
館内放送の必要もありませんでした。
嬉しー。

ぼくのサイエンスカフェでのメッセージはただひとつ。
「好きなことをとことんやろう!」です。
好きなことなら、どんどんやりたくなります。
別に努力する必要なんかない。
知らず知らずのうちに大量に勉強してしまうのです。
最も効率的な勉強ができるのです。

そして、好きなことをやっていれば心も満足します。
心が満足している人は、他人の足を引っぱったり、邪魔したり、いじめたりすることはない。
その必要がないんです。
性格もよくなり、人格も磨かれていきます。

さらに、好きで身に着けてきた技、芸は必ずや誰かの役に立ちます。
誰かを楽しませることができるんです。
自分でも楽しみ、他人も楽しませることができる。
嫌いなことをやっていたら、そんな状態には絶対になりませんよ。

好きなことをやり、誰かも喜んでくれる。
当然、味方も増えていきます。
こんなハッピーな人生はないですよね。
たとえ困難に出会っても、好きなことなら乗り越えていけるし、味方になってくれる人、助けてくれる人が必ずいます。
だから恐れることがない。
どんどんとチャレンジしていけるんです。

いわゆる「セキュアベース」ですね。
戦争では兵士たちが安心できる安全な<基地>があると、戦いは果敢に進められます。
危なくなったらそこへ戻ればいいから。
人生も同じです。
自分の「セキュアベース」をしっかりと持つこと。
そのためには、好きなことをとことんやって、誰にも負けない得意技を持ち、味方を増やしておくことです。

ぼくは「50歳を過ぎたら好きなことだけやる」と決めて40代を精進してきました。
これはまずまず実現しつつあります。
サイエンスカフェなども、ちゃんと出張扱いで会社から行かせてもらえる。
ありがたいことです。
でもね、もっと早くから好きなことに邁進してもよかったんじゃないかとも思うのです。

人生嫌いなこと、嫌なこともやらなくちゃいけない。
それは確かです。
でも、そう思い込みすぎるのも危険。
嫌い、嫌だと感じるのは、きっと「それはやっちゃいけないよ」と身体や心が言っているからなんですよ。
きっと、嫌いなこと、嫌なことの中にはたくさんの「やってはいけないこと」「やらなくてもいいこと」が含まれているんです。

だから嫌いなこと、嫌なことを優先しない方がいい。
あくまで好きなこと、やりたいことを優先する。
その中で、好きなことをやるために必要なこと、やりたいことを達成するためにやらざるを得ないことが出てきたら、それに対応すればいい。
そうすれば、必要最小限で嫌なことをやっつけられる。
無駄なことはしなくてもよくなるんです。

そして、好きなことをやる過程で乗り越えた、嫌いなこと、嫌なことは、自分の身になります。
それだけ自分の腕、技も高めることができるのです。
これはかなり美味しいことです。
だからぼくはカフェの中で、「好きなことをとことんやると、不思議なことに嫌いなことが減っていきます」と子どもたちに伝えるんです。

深く掘るためには広く掘れ、ですね。
好きなことをつきつめていくと、その周りの知識、知恵も身につけざるを得ない。
それが人間の幅を広げてくれ、さらに好きなことをやり続ける原資になるわけです。
逆に言えば、嫌いなことばっかりやっていると、好きなことはまるで増えないし、いつしか元々自分がやりたかったこと、夢もしぼんでいってしまうのです。

好きなことならどんな人でも自分の実力以上のことができます。
実力以上のことをやるから、実力は伸びるのです。
不得意なことを無理してやっても、せいぜい人並みになれるかどうかです。
人並みってことは、誰でもできる、他の人に代替え可能ってことですから、自分の存在理由は薄くなってしまい、自信にもつながりません。

そして嫌いなことばかりをやっている人は、味方より敵を増やします。
なぜなら、こういう人は常に「なんでおればっかりこんな嫌なことを!」と思っているからです。
そう思っていれば常に不機嫌になるのは当然でしょう。
不機嫌な人に寄りつく人はいませんよ。

さらに不機嫌な人は、それを他の人にまで伝染させてしまうのです。
「おればっかり嫌なことをしているのはズルイ!なぜおまえもやらないのだ!」って。
そうして自分の嫌なことを誰かに押しつけようとするんです。
無理矢理やらせようとするんです。強制的にやらせるんです。
それでも必要があってそれを強制するのならまだマシですが、必要もないことをただただ他人にも嫌なことをやらせようと押しつけてくる。
これで誰が味方になってくれますか?

好きなことをやっている人は、誰かにそれを強制することはありません。
夢中になっているので、他の人のことなんかあまり気にしないわけです。
楽しそうにやっていれば、必ず人が集まってきます。
誰かが「やりたい」と言ってきたら、どうぞどうぞとオススメする。
やり方も教えてあげる。
強制するなんてコトはないわけです。
楽しいことを教えてくれて、それをやらせてくれ、教えてくれる。
味方になってくれるのは当然ですよねー。

成毛眞『勉強上手』幻冬舎\952-にこうありました。

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好きなことにのめり込んでいれば、他人はどうでもよくなる。
揺るがない自分の軸ができるのだ。
精神を健全に保ち、バランスよく生きる究極の健康法と言えるかもしれない。
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2012年8月17日金曜日

サイエンスカフェ加古川、明日!

加古川でのサイエンスカフェ、明日です!
お近くの方はぜひどうぞ!
お盆休み最後の土曜日、たくさんの人が来てくれるといいね。
わくわく!
さて、これから準備だー!!
http://t.co/nTRBX2UL

2012年8月16日木曜日

大学院がアブナイ。。。

こんにちは

知り合いの研究者(理系)からメールが届く。
1年ほど前に准教授として二流大学(ぼくが卒業した大学程度)に赴任した。
「学生にふりまわされて、自分の研究ができない」
おやおや。

日本の大学が,大学院重点化という政策に乗っかって久しくなる。
それ以来、日本の研究パフォーマンスは良くなったのだろうか。
否、あんまり。。。なのである。
なぜだ。

理系の大学での研究は、大学院生の(ただ)働きによって支えられている。
一流大学が研究成果をバンバン出せていたのは、もちろん教授も優秀なのであろうが、若くて優秀で体力もある大学院生がたくさんいたからだ。
理系の大学院生は、その意味で奴隷労働者だったのである。

だから、二流大学の教授があまり研究成果を出せなかったのは、教授自身がダメなのではなく、二流大学には大学院が設置されておらず、奴隷を使うことができなかったからなのだ。
二流大学の教授はこう願った。
「ああ、うちにも大学院生がいてくれたらいいのに」

もちろん、一流大学の教授だって願ったはずだ。
もっと奴隷が欲しい!

願いは叶った!国の施策として、大学院重点化が決まった。
二流大にも大学院が設置され、一流大の大学院の定員は2倍以上になった。
東京大学など、学部生より大学院生の方が多くなっちゃったのである。

教授たちも大学院生(という名の奴隷)獲得に励んだ。
どんどん大学院へ学生(実は奴隷にしたい人材)を入学させた。
先週学会で大阪大学に行ってたんだけど、阪大理学部卒の9割もの学生が大学院へ入学するようになってしまっているって。
それでも定員割れなので、他大学からも集めなくちゃならない。
もうそうなったら学生の取り合いなのである。

ところが困った。
奴隷であるはずの大学院生が、あまり、いやちっとも働かないのである。
それどころか、面倒ばかりかけるのだ。
いやいや、面倒をちゃんと見てくれと甘えまくってくるのだ。
それでいて、学位をくれ、と言うのだ。
いけしゃあしゃあと。

二流大学はもっと困った。
定員が増えた一流大学が、ちょいと優秀な学生を根こそぎ引っこ抜いていくからだ。
学生だって、二流大学でもらう学位より一流大学での学位の方が嬉しい。
かっこいいもんね。

学生だってうすうす感ずいているのだ。
二流大で学位を得たところで、未来はない。

実はこれは錯覚なんだけどね。
一流大だろうと二流大だろうと、きちんと研究能力を自分で鍛えたかどうかが重要で、どの大学で学位を得たかは関係ないのだ。
でも、研究したくて大学院に行くわけじゃない学生は、そんなことは思わないのだよ。

だいたい、売り手市場と買い手市場では、優位に立つ方が逆転する。
今や大学院に入学してくる学生は、完全なる売り手市場。
学生の方が立場が上。
教授が学生に過酷な労働を命ずることなんかできやしない。

こうして大学院生は増えた。
でも研究のためにその身を捧げてくれるような学生は増えなかった。
逆に、教授は大学院生の面倒に手間がかかるようになってしまった。
研究時間は返って減ってしまったのである。



阪大キャンパスをうろうろしたり、文科省科学技術政策研究所の以下のレポートを見たりして、今の大学院教育ってちゃんと機能していないよなあ、って思った次第。
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/mat213j/pdf/mat213j_1.pdf


余談ですが、我が子たちが大学院に進学したいと言ったら、こう言うことにします。
「日本のはダメだよ。外国に行きなさい。それなら許す」

自己教育力を上げよ!

こんにちは

はっちゃん小2の夏休みの宿題のひとつは「九九を全部唱えることができるようになる」です。
実を言うと、学校ではまだ九九は習っていないのです。
習っていないことを宿題に出す。
これってどういうこと??

公立小学校でこんな宿題を出したら、直ちにモンスターペアレンツが怒鳴り込んできそうですよ。
あはははは。

でもねー、ぼくが教師だったときも思っていたんですが、習っていないからできなくてもいい、という態度が嫌いなんです。
もちろんその通りですよ。習っていないんだからできなくてもいいのは確か。
でも、習っていないことだを拒否してしまうのもどうかと思うのです。
まだ習っていないことだからこそ、興味を持って欲しい。

社会人になってもそうなんです。
やったことのない仕事に対して拒否感の強い人がけっこういるんです。
ハナから、私にはできません、そんなこと、って言う。
でもそれってもったいない。
せっかくのチャンスを逃がしてしまうことになりますよ。
新しい仕事を覚えるチャンスなのに。
自分の技能が上がるチャンスなのに。

社会人の仕事能力はどうやって査定されるかご存じか。
もちろん、今現在の仕事力も大事です。
今現在の仕事力もないなら、今日の仕事も処理できなくなってしまいますからね。
そういう人は当然お払い箱です。

でもそれだけじゃないんだなあ。
「明日の仕事力」もちゃんと査定されているのです。
それはどこで見るか。
新たな仕事を割り振られたとき、面白そう、やってみたい、と思うかどうかなんですよ。
嫌々引き受けるような態度は、自らの能力評価を引き下げます。

もちろん、初めて取り組む仕事なんですから多少不備があっても仕方ない。
それは上司もお見通し。織り込み済みのはず。
不備があってもリカバーできるだけの余裕を持っているものなんです。持っていなかったら上司が無能なだけ。
ともかく、やったことのない仕事に対して、興味を持って取り組めるかどうかで、そしてその仕事をなんとかかんとかこなすことができるかどうかで、その人の仕事能力は測られるのです。

「能力」とはポテンシャルのことです。潜在能力ですね。
現に顕れた業務力のことを指しているのではなく、未だ顕れていない力を推定するものなんですから。

話を戻して、息子の夏休みの宿題。まだ学校で教えていない九九の練習をさせること。
このあたりに学校の見識を感じますね、ぼくは。
学校で習っていようが習っていまいが、必要なことは自分でやれ、という意志なんだと思うのです。
もちろん小2ですから、自分で、というより「家庭で」でしょう。
家庭の教育力を試しているんだとぼくは受け取りました。

これまた余談ですが、最近の日本人は悪者探しが好きです。
悪者を見つけて、そいつに責任を転嫁すれば、それでコトが終わったと誤解している人が多い。
それって間違いですよ。

たとえば、横断歩道で青信号で渡っているとき、信号無視してきた車に轢かれ怪我をした。
確かに車の運転手が悪い。この運転手の責任であることは間違いないです。
でもそこでお終いでしょうか。
いえいえ、こっちは怪我をしちゃったんです。
悪者が誰かはっきりしたからって、怪我が治るわけではありません。

確かに信号無視をしてきた運転手が悪いのですが、歩行者としてもそういうやつもたまにはいるかもしれないことを想定しておくことが必要。
だから、信号が変わって青になっても「右見て、左見て、もう一度右を見て」と子どもに教えるわけです。
車が横断歩道の前で停車しているかどうか、減速しないで突っ込んでくる車がいないかどうかを、必ず自分の目で確かめる必要があるのです。

学校の勉強だって同じなんですよ。
子どもの学力が低い。それは先生のせいだ。
その通りかもしれません。
でもそれが分かったからって、我が子の学力が上がるわけではありません。
先生がダメならダメでも、必要な勉強は自分でやらなくちゃいけないのです。だって、学力不足で将来損をするのは自分ですから。

かけざん九九をマスターすることは、学校で教えていようがいまいが、教え方が上手だろうが下手だろうが、担任の先生を子どもが好きだろうが嫌いだろうが、避けては通れない勉強なんです。
だから自分でしっかりやれ、家庭でしっかりやらせろ。
学校はそういうメッセージを伝えているんだとぼくは思ったんです。

さてさて、夏休みも前半が終わりました。
はっちゃんもほぼ九九全部をそらんじてしまいました。
これから、0~9までシーケンシャルの百マスに取り組ませようと思います。
九九の表をアタマにしっかり定着させるためです。
夏休み終了までに、100ます九九で5分を切るようにしたいですね。

で、10月頃までに2分を切る。
ランダム九九100ますで2分を切れれば、実用上まったく問題なしです。

そして子どもに自信を持たせるコツは「先取り学習」です。
つまり予習。
復習も大事ですが、復習だけでは子どもの性格は悪くなります。
予習をするから自信が持て、自信があるから性格もよくなるんです。
九九をマスターしたら、2年生のうちに3年生で習う桁数の多いかけ算、簡単な割り算まで教えてしまおうと思っています。

2012年8月13日月曜日

先生はエライ

こんにちは

伊藤真さんの講演を聴いて、こんなことを考えてみました。
憲法を学ぶと「先生は偉い」という命題が証明できます。
え?いったいどういうこと?

憲法を法律の親玉だと思っている人はいませんか?
実は憲法は、法律とはまったく違うものなのです。
法律は、その決まりによって国民の行動を制限しますよね。
交通違反を捕まえたり、税金を徴収したり。
つまりそれって、権力行使に他なりません。

では、法律を作るのは誰?
もちろん国会議員です。
つまり法律を作るって言うことは、国民に対して権力を行使する、ということなんです。
だから、国会議員は権力者です。

国会議員によって作られた法律を実行するのは誰?
たとえば道路交通法に従って、違反者を逮捕するのは警察官。
警察官は違反者を逮捕するだけの権力を与えられているわけです。
警察官は公務員です。
だから、公務員は権力者です。
そう言えば、国会議員も特別職公務員ですね。

警察官によって逮捕された人を裁くのは誰?
それは裁判官。
法を犯した人を裁判によって刑罰を決める。
罰金を命じたり、懲役を命じたり、死刑にしちゃったり。
つまり裁判官にはそれだけの権力が与えられているのです。
裁判官はその意味で権力者。
裁判官だって公務員でした。

まとめて言うと、司法、立法、行政の三権は「権力」であり、その権力はすべて公務員にそれぞれの職責に応じて与えられているんです。
ではその権力の源泉は何でしょうか?

公務員の権力は、主権者である国民が与えているのです。
それは憲法に書かれている通り。
つまり、国民はよりよい社会を作るために、あえて公務員に権力を付託しているのです。
自らの自由を制限するかもしれないのに、それでもあえてそうしている。
それが近代国家の原理なんですね。

だからといって,公務員に無制限に権力を与えているわけではありません。
それでは公務員がやりたい放題やり始めちゃったら,社会は成り立ちません。
それを縛るのが「憲法」。
憲法は公務員、すなわち権力者を制限するものなのです。
だから、法律とは働きがまったく逆なんです。

最近はそうでもないのかもしれませんが、総理大臣とか裁判長とか,偉い人だって思いますよね。
それは総理大臣も裁判長も公務員であり、国民が権力を与えているんですから、偉くて当たり前なんですよ。
だから、総理大臣も国民が与えた権力を上手に行使して、社会を良くしていかなくちゃいけない。
だって憲法にこう書いてありますから。

 第13条 
 すべての国民は、個人として尊重される。
 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
 公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政によって、最大の尊重を必要とする。

総理大臣たる者、いくら偉そうにしたっていんだけど、ぼくらの生命、自由及び幸福追求の権利は守らないといけないんです。
逆に言えば、ぼくらの生命、自由及び幸福追求の権利を守るためなら、どんどんと権力をふるって欲しいのですよ。

さてさて、ようやく本題。
公立校の先生も公務員ですよね。
これまでの議論どおり、学校の先生も「権力者」なんです。
だから、「先生は偉い」んですよ、構造的に。
「たかが先公(死語?)のくせに、エラソウにすんじゃねえよ!」なんてすごんでもダメですよ。
憲法で偉いことに決めちゃったんですから。
あえて言いますが、先生は偉いんです、偉いことにしとかなくちゃいけないんです。
先生ご本人だって、エラソウにしなくちゃいけないんです、無理にでも。
だってそれは、国民がそれだけの権力を付託しているんですから。

その代わり、先生にはぼくらの「生命、自由及び幸福追求の権利」を守ってもらわなくちゃ。
たとえば「いじめ」なんてのがクラスで発生したとする。
そのとき、もちろんいじめる奴が悪いですよ。
でもそれより、先生がちゃんと権力行使しないのが悪い。
だって、いじめられている生徒の「生命、自由及び幸福追求の権利」が犯されようとしているんです。
こんなときこそ、凜として強権を発動してもらいたい。
それが憲法が定めた公務員の義務なんですから。

昔のお父さん、お母さんは、よくこんなことを言って子どもを躾けたようです。
「おい、そんなことをするとおまわりさんに逮捕されるぞ」
だから子どもにとって、おまわりさんはコワイ存在でいてくれた方がいいんです。
同じく、こんなことも言っていたようです。
「そんなだらしないことをするなら、先生に言いつけるぞ!」
昔は子どもにとって、先生もコワイ存在だったんですね。
いや、コワイ存在ってことにしといたんです。
その方が教育上有利だから。

まあ最近はそんなわけにはいかないのかもしれませんが、でも先生って言うのは一定の権力を国民から負託された存在であることは忘れないでもらいたい。
フレンドリーな先生もいいんですが、いざというときはおっかない、そういう存在であってほしいなーって思うんですよ。

2012年8月12日日曜日

週休二日の功罪

こんにちは

週休二日制が法制化されて20年近く経ちます。
どうでしょうか。
週休二日になってから、ゆとりが増えたでしょうか。
職場も学校も、返って余裕がなくなってしまったような気がしてなりません。

日本のGDP成長率は、1990年代、いわゆるバブル崩壊後にほぼゼロ(歳によってマイナス)に転じました。
そしてこれまでずっと「不況」が続いているわけです。
昨夜、小島寛之『算数の発想』という本を読みましたが、90年代にGDPが低下したことのほとんどは、完全週休二日の実施や祝日の増加で説明できちゃう、と書いてありました。

GDP国内総生産って、その年に生み出された生産物やサービスの総額です。
生産物やサービスを生み出しているのは、労働者による労働力に他なりません。
総労働力=労働者数×労働者の能力×労働時間、と分解できます。
週休二日制の導入や祝日増加で、90年代に労働時間は約10%も減ったんだそうです。
そうなれば、総労働力も10%減るのも当たり前だし、GDPも減少するのも当然なんです。

減った労働時間を補うにはどうすればよいか。
労働者数を増やすか、労働者個々人の能力を上げるしかありません。
労働者数を増やすために移民政策を進めろ、という声が聞かれるようになったのも、確か90年代以降でしょう。それと符合します。
労働者個々人の能力、生産性を上げるために、労働強化が図られたのもこの頃。
サービス残業なんて言葉も、90年以降に言われるようになったと記憶しています。

だいたい不思議でしょ。不況なのにたくさん残業しなけりゃならないって。
残業というのは需要に供給が追いつかない時、すなわち景気のいい時にする必要のあるものでしょう、本来。
不況=仕事がない状況のはず。
それなのにサービス残業を強いられる。
つまり仕事は減っていないんです。
減ったのは、総労働力だったんです。

成果主義、実力主義も90年代に始まったこと。
労働者個々人の能力、効率を上げないと、総労働力が上がらないからです。
人間は、能力を上げろ!と号令されて、すぐ能力を上げられるような存在ではありません。
無能の烙印を押されるのはイヤですから、無理をするしかなくなります。
サービス残業も会社からの指示で無理矢理やらせられることより、無能の烙印を押されるのが嫌なために、労働者自身が自主的にやってしまう例が多いのです。

短期的なら無理も利きます。
でも無理も長引けば破綻します。
身体を壊し、心を壊す。
うつ病が増えたのも、自殺者が年間3万人になったのも、90年代からです。

子どもの学習にとっても,土曜日登校は重要ですよね。
週休二日になってから、月曜日の祝日が増えてから、学習指導、生活指導の困難が増えたように思います。
土日二日間、土日月三日間の生活の乱れを立て直すのはとても大変です。
勉強だって,定着率は総授業時間に比例するのは当然なのです。
短い授業時数で学習内容を理解し、定着できるかどうかは、生徒個々人の能力によってしまう。
当然、生徒間の学力差が開き、授業成立の基盤が脆弱になってしまうわけです。
週休二日などで授業時数が減った分を補うのは、もはや学校の授業の中だけでは無理なんです。

結論:再び土曜日も働くことにしましょう。
土曜日も登校日にしましょう。
その方が返って「ゆとり」が生まれるように思いますが、どうでしょうか。

100ます計算の極意

こんにちは

学力研全国大会で、深沢さんの「読み書き計算入門」という講座に参加。
100ます計算を授業に取り入れたいけど、まともにやるとけっこう時間がかかるんです。
子どもが計算している時間5分~10分、答え合わせに5分、用紙を配布したり回収したりで5分。
都合20分くらいかかっちゃうんです。
すると算数の授業時間、半分くらいつぶれてしまう。
そうすると教科書を進める時間がまるで足りなくなる。
100ます計算やればいいことはわかってるけど、現実的にできない。
だからやらない。
そういう先生が多いと思います。

深沢先生は、こう教えてくれました。

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100ます計算は、<習熟のための道具>です。
だから、計算自体ができるようになっていない段階ではやってはいけません。
足し算なら足し算、九九なら九九、どの子も時間さえあればほぼ完全にできる。
そういう状態になってから始めて下さい。

習熟すべきは、基礎学力です。
基礎学力はどの子にも身に着けさせなくてはいけないし、学力格差があってはいけないのです。
どの子も計算自体ができるようになってから100ます計算をやるから、習熟するし、学力格差も縮んでいくのです。

計算自体がまだできないのに100ます計算をやってしまうと、子どもたちの学力格差はもっと広がってしまいます。
できる子はスイスイと何千題とこなし、できない子はいくらやっても力が伸びないからです。
できるようになっていないのに100ますをやらせると、間違いも多く、時間も短縮しないため、子どものやる気を返って奪ってしまいます。
100ます計算が流行したとき、うまくいかないとか、子どもが嫌がるとか、批判も多かったのですが、それはやり方を間違えていた人も多かったからです。
どの子もできるようになるまでは、じっくりと教えないとダメなんです。

計算自体ができるようになれば、100ます計算を宿題にしても大丈夫。
学校で100題、家でも100題取り組めば、子どもたちはあっという間に習熟します。
つまり、間違えずに速く計算できるようになるのです。
授業時間にやらせても、最も遅い子でも5分もあれば終えることができるようにすぐなるものです。
それも数週間で全員が3分以内になる。

計算自体はどの子もできるようになっているのだから、答え合わせをする必要もないのです。
100ます計算をやり終えられる時間だけ気にすればいい。
よく子ども同士、隣の子と答案を交換して採点するなどしていますよね。
こんなことをやったら非常に時間を取られてしまいます。
答え合わせは割愛すればいいんです。
こうすれば、算数の授業の最初の5分間だけでも、十分取り組めるようになります。

もっとも、ずるをしていい加減な答えを書く子もいるかもしれません。
先生は、そういう子の答案だけチェックすればいいのです。
あるいは、時々100ますの1行だけ答え合わせをするとか、短時間で答え合わせをする方法はたくさんあります。
ともかく、100問全部の答え合わせをする必要はないのです。
こうやれば、教科書をやる時間を圧迫することもありません。
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ナルホド!でしょ。

2012年8月8日水曜日

人権とは何か

こんにちは

学力研全国大会の記念講演は、弁護士の伊藤真さん。
弁護士としての仕事より、司法試験の受験指導で活躍している方。
そして、日本国憲法のすばらしさ(理想が高すぎるが故に価値がある)の伝道者
でもある。
すんごく面白いお話でした。
学力研さん、伊藤さんを呼んでくださり、ありがとう!

日本国憲法では、国民が幸せになることは保障していないんですよ。
「幸福を追求する権利」を保障しているだけ。
そう憲法13条にははっきりと書いてあります。
幸福は人それぞれ異なるもの、異なるべきものだから、国はそれを保障すること
などできないのです。
その代わり、国民が自らの信条に従い、それぞれの幸福を追求する権利は保障し
ているんですね。

伊藤さんの本は、勉強本はほとんど読んでいると思います。
でも、憲法に関する本はまだ読んでいなかったので、講演後に会場にて購入。
ミーハーですが、サインしていただきました。
『憲法が教えてくれたこと』幻冬舎\1200-
この本が、やたら面白かった。

伊藤さんの主張は、「民主主義より立憲主義」ということ。
講演の中でも、「今日本では<民主>という名を付けている政党はたくさんある
が、<立憲>を謳っている政党は一つもない。その意味で戦前の方がまだまし
だったかもしれない」とおっしゃっていました。

民主主義の原理は「多数決」です。
だから多数決で何でも決められると思っている人が多い。
でもそれは違う。
多数決で決めてはいけないことがあるんです。

それは人権に関わること。
人権は多数決でも侵害してはいけないものなんです。
それは憲法で保障されているから。

では、人権とは何か。
具体的に言うのはなかなか難しいです。
伊藤さんはこういう例で説明してくれました。

先生「今日の掃除当番は誰にしたらいいですか」
生徒「伊藤君がいいです」「(全員)賛成!」
先生「では伊藤君、お願いします」

その翌日
先生「今日の掃除当番は誰にしますか」
生徒「今日も伊藤君にお願いしたいです。だって伊藤君は掃除が上手だからです」「(全員)賛成!」
先生「では伊藤君、今日もお願いします」

とはならないでしょう。
それが「人権」というものなんです。

みんながやりたいことなら、そしてそれをやれる人数が限られていることなら、多数決で選んでもいいでしょう。
でもみんながやりたくない、でも誰かがやらなくちゃいけないことは、どうしたらいいでしょうか。

上の例のように、1回なら多数決で決めてもいいかもしれません。
でも、2回目も3回目も同じ人を多数決で選ぶ。
それはしてはいけないことなんです。
「人権」を侵害することだからです。

2012年8月7日火曜日

読み書き計算は学力のオペレーションシステム

久保先生のおっしゃったこと。
関口意訳が入ってますが、紹介しますね。
オペレーションシステム、プラットフォームだ。
Windowsなしにアプリケーションは動かないように、読み書
き計算なしに授業は成立しない。 らない。
読み書き計算の力には<格差>があってはいけないのだ。
での課題を習得させてしまうことだ。
る。
 急がば回れである。

子どもの意欲を引き出す10カ条


こんにちは

先週末、学力研(岸本裕史さんが始められた研究会)に行ってきました。
http://gakuryoku.info/
学力研の主要メンバーである、久保齋さんという先生に衝撃を受けました。
なんか面白い先生なんですよ。
この先生なら,子どもは一発で従っちゃいそうです。
そういうオーラがバリバリ出ている。
ぼくも一目惚れです!
さっそく著作を何冊かアマゾンに注文しました。

さて、久保さんは、子どもの快適な情動を引き出せば、学級は快適になり、子どもは意欲的になると言っています。
それを10カ条にまとめています。
久保さんは小学校の先生だから、6歳から12歳くらいの子どものことを言っています。
それより幼い子どもや、中高生には当てはまらないかもしれないけど,非常に参考になります。
ちょいとみなさんにもお裾分けです。
 (・・・からはぼくの意見です)。

第1条 子どもは競いたがる
    ・・・だから競い合う場面を用意しろ

第2条 子どもはまねをするのが好きだ
    ・・・よいことは真似させろ、オリジナリティより真似

第3条 子どもはボスがいると落ち着く
    ・・・教師がボスになれ
       子どもの誰かにボスの座を奪われるから学級は崩壊する

第4条 子どもはできることを何度も何度もやりたがる
    ・・・小学生は難しいことをやらせるより、
       易しいことを繰り返す方が育つ

第5条 子どもはワイワイやるのが好きだ
    ・・・時々、思いっきり開放してやれ

第6条 子どもは自分のできることを友達に教えたがる
    ・・・どの子にも得意なこと、自信になることを身につけさせよ
       そしてそれを子ども同士教え合わす場面をつくれ

第7条 子どもはちょっと難しいことが好きだ
    ・・・読み書き計算の基礎学力が身につけば、
       子どもは難しいことにも挑戦したくなる

第8条 子どもは仲間の成長を喜ぶ
    ・・・誰かが伸びるところを目のあたりにすると、他の子も伸びる
       だから学級は多人数じゃなきゃダメだ

第9条 子どもは認めるとやる気を出す
    ・・・注意ばかり、叱ってばかりでは子どもは育たない

第10条 子どもは限定された中での自由を好む
    ・・・まず枠をきちんと教師が決めてやれ
       その枠内だったらつべこべ言うな




ね、いいでしょー。
その他、久保語録をいくつか。

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教師は教えるだけでは教師ではない。
教えたことを習熟させ、文化まで高めてようやく教師の役割を果たせたのだと考えるようになった。

学級崩壊とな何か。
担任の指導が入らなくなり、子どもたちがサル返りしている状態を言う。

決めた限りは必ずやり遂げる、これは組織原則である。
このリーダーの覇気が組織に息吹を吹き込むのだ。

2012年8月5日日曜日

安全装置を働かせよ!

こんにちは

いじめ対策の大原則。
それは、いじめている子といじめられている子を隔離すること。
物理的距離を離すことだ。
まずそれをやればよい。
小学生なら、クラスの中で座席を離すだけで、少なくとも授業中のいじめは防げる。

ところが教師がとる第一チョイスは、注意することだ。
もういじめてはいけません、いいですか、謝りなさい。
でも座席はそのまま。
いったんはいじめを止めるだろうが、すぐ再開してしまう。
だって、すぐそばに獲物がいるんだもん。
そしてまた教師は注意する。
これが繰り返される。
いい加減,気づけよ!

つまり、いじめを初期で治めるには「逃げられる体制」を作ることだ。
いじめられたらその場から逃げる。逃がす。
座席を離す、クラスを変える、転校する、学校を休む。
こういう物理的距離を置く「選択肢」を用意しておくべきなのだ。

いじめられる側、被害者が「逃げる」なんておかしいじゃないか、というかもしれない。
だが緊急時なのだ。
逃げなくちゃダメだ。
そこに留まって死んでしまうより,逃げろ。

どうも最近の風潮として、トラブルが発生した場合、それを解決、解消するより、悪者探しを優先するようだ。
 悪いのはおれじゃない、あいつだ。
悪者が誰かわかったって、それがすなわち解決ではない。
悪者が誰か特定できず、悪者なんかいないトラブルだって、この世には多いのにね。

いじめの問題だってそうだ。
いじめている奴が悪い。
でもそれがわかったところで、いじめられている子どもは救われないのだ。
ましていじめは、いじめられている子の生死に関わることだ。
第一チョイスは「逃げる」ことでよいのだ。

本来は,いじめを行うような子どもを、教師は、学校は排除しなくてはいけない。
加害者側を隔離するのが本来であると、ぼくも思う。
ひとつには、刑法などに触れるようなひどい行いの場合は、それを「いじめ」と定義するのではなく、それはもはや「犯罪」なのだとしっかりと認識し、警察に引き渡さなければならないのだ。
犯罪といじめを混同してはいけない。
 法に触れるものは、たとえ少年であっても司法の手に委ねるべきなのだ。 教師はこのことを強く認識し、子どもたちにもあらゆる機会に伝えていかなくてはいけない。

意外と知られていないが、少年は犯罪を犯しても罪になることはない、と誤解されている。
犯罪を犯せば、大人だろうと子どもだろうと罪に問われるのだ。
けれども、子どもは責任能力がまだ十分ではないから、責任は減免される。
すなわち、「罰」は年齢に応じる。あるいはその子の将来を勘案されるのだ。

もうひとつ、学校には「出席停止」という行政処分権がある。
学校という公共の福祉を行う場に,それを乱す生徒がいる場合は、公共の福祉を優先するために出席停止を命ずることができるのだ。
これは教育委員会の権限であるが、実際は校長が判断するものであろう。

公法というものはすべからく公共の福祉を優先するものとなっている。
公共の福祉を乱すものは、その権利を制限される。
生徒には,教育を受ける権利があるのだが、他の生徒の教育を受ける権利を著しく侵害する生徒は、その教育を受ける権利を制限され、出席停止を命じられるのだ。

さて、いじめを行う生徒を隔離するために、二つの道があることを述べた。
1.刑法などに触れる行いは犯罪として扱う。
2.出席停止という行政処分を行う。
この二つを見比べてみれば明らかであるが、出席停止という処分は犯罪以前になされる行為なのである。
つまり出席停止は、未だ犯罪と呼べるほどではないいじめの段階で行使すべきものなのである。
これが犯罪まで至るような過度ないじめを防ぐのだ。
これを校長や教員のみなさんは十分認識しているだろうか。

出席停止処分も一種の安全装置である。
工学的に言うと、安全装置はきちんと機能すると同時に、適切なタイミングで作動することが重要なのだ。
たとえば、圧力容器など内部に高圧な気体や液体を保持するものには、安全弁が付いている。
安全弁とは、ある圧力を超えると動作し、内部の気体液体を外部に放出するものだ。
容器内の圧力が過度になった場合、容器が爆発するより先に安全弁が動作し、内圧を下げる。
そうやって、大きな事故を防ぐ。
その意味で安全装置は、大きな事故を小さな事故に変換する装置、と言ってもいい。

だが、安全装置が動作したとしてもタイミングを逃すと、たとえ作動したとしても安全装置として機能しないのだ。
容器が爆発する圧力よりも高い圧力で安全弁が作動しても意味がないのはわかるだろう。

安全装置は,いろんなレベルで多段にもうける方がよい。
いじめが起きたら、まずは座席を離す。
それでもダメなら、クラスを換える、登校しない、転校する。
そして、いじめを止めないこは出席停止。
出席停止という安全装置を適切なタイミングで作動させれば、刑法に至るような暴走的な事態は避けられるのではないか。
そう思うのである。

原爆の黒い雨

「炭水化物」は<炭水・化物>のように読んではいけない。
意味を取り違えます。
<炭・水化物>と区切る。
つまり、炭水化物は<水と化合した炭>というものなんです。

たとえばブドウ糖C6H12O6ですが、炭素C6個と、水H2Oが6個化合しています。
ブドウ糖や果糖がいくつもつながったものを一般的に炭水化物といいますが、でんぷんもセルロースも同じく、何十個,何百個かの炭素と何十個、何百個かの水が化合した分子式になっています。

ですから、炭水化物を蒸し焼きにすると、真っ黒な炭と水蒸気に分離します。
蒸し焼きとは、密閉した容器内など酸素が少ない状態で熱することです。
酸素のある場所で熱すると、炭も酸素と化合して二酸化炭素になってしまいますから、炭は残りません。

植物だって動物だって、ぼくら人間の体だって、ほとんどが炭水化物でできています。
蒸し焼きにすれば真っ黒な炭と水蒸気に分離します。

さて、ここからが本題。
原子爆弾は急激に強烈な熱を発します。
ありとあらゆるものを蒸し焼きにしてしまうのです。
植物も動物も人間も,一瞬に炭と水蒸気に変えてしまいます。

原爆によって熱せられ温度の上がった空気は、上昇気流になって猛烈な勢いで上空へと昇っていきます。
それがキノコ雲です。

その上昇気流に乗って、炭と水蒸気も上空に巻き上げられます。
こうして上空に昇った大気は、上空の冷たい空気で冷やされます。
すると水蒸気は冷やされて凝結し、雨になります。
そのとき、雨粒は炭を混ぜ込んで地上へと降り注ぐのです。
これが「黒い雨」です。

この黒さは炭。蒸し焼きにされた植物、動物、人間が変化した炭素なんです。
原爆投下後に黒い雨が降るのは、こういうメカニズムなんです。

明日は67年前に広島に原爆が投下された日。
子どもにこんな話でもしてやろうかと思います。