2013年1月31日木曜日

プロは学び続ける

技術士の先輩からこんな話を聞いた。

その人がプロかどうか、初回に会っただけでは分からないこともある。
プロだからって何でも知っている、分かっているわけではない。
クライアントから難しい質問をされる。
そのときにいい加減なことを言ってはいけない。
いい加減なことを言えば、必ず化けの皮ははがれるから、次はなくなる。
知らないことは知らない、分からないことは分からないと言えばよい。
その代わり、次にそのクライアントに会うときまでに勉強しておく。
次に会うときに、正しいことを説明できることが大事だ。

技術士などエンジニアには継続的に研鑽を積むことが求められている。
一回、遙か昔に資格試験に受かっただけでは、一流のエンジニアとは言えない。
腕が鈍らないように維持し、さらに磨きをかけることが必要なのだ。

それを公的に示すCPD制度がある。
見学に行ったり、講習を受けたり、自ら講師になって講演したりすると、その時間と内容に従ってポイントが貯まる。
見学参加、講習受講なら1時間1ポイントだ。
学会発表や講師を務めたときは1時間3ポイントだったかな。

で、年間50ポイントが最低ラインとなっている。
毎年これ以上は自己研鑽を継続する。
それでようやく資格の価値が下がらないのだ。

日常の仕事をやりくりし、毎年50時間以上の自己研鑽の時間を作り出す。
これがプロフェッショナルの条件なのだ。
のんべんだらりんと仕事をしているのでは、自己研鑽の時間は生み出せない。
残業、残業で仕事に追いまくられている人は、実はプロではないのである。
やるべきことを効率的にやっつけ、勉強する時間をつくる。
本を読み、人と会い、論文、原稿を書く。
そしてそれをまた自らの仕事に活かしていく。

そしてプロはこういう継続的な研鑽を自主的に行う。
誰かから強制されて研鑽するのではないのだ。
プロなら自分の仕事に関する本、雑誌を読み、学会発表も年1回は行う。
そのくらいしないと腕が落ちるのだ。

2013年1月30日水曜日

世界初、世界一を目指す理由

わが施設のコージェネレーション発電設備。
エネルギーの高度利用と節電に貢献、BCPとしても有効ということで、今年度のコージェネ大賞に受賞決定!
うれしいなー。
http://www.ace.or.jp/web/info_event/index.php?Kiji_Detail&kijiId=58

コージェネレーション設備とは、電力と熱、二つのエネルギーをつくり出す設備です。略してコジェネ。
燃料を燃やしてタービンを回し、発電する。
普通の火力発電所ではその排気ガスをそのまま大気に捨てています。
でも排気ガスはまだ600℃もの温度がある。
それを捨てちゃうのはもったいないよね。
で、ボイラーで熱回収して蒸気も作っているんです。
普通の火力発電所の熱効率は40%程度。
その上送電ロスもあるから、需要場所に届く時には熱効率35%にまで低下してしまう。
それに比べるとコジェネは70%以上、すごく高効率、節エネルギーなんです。

わがコジェネは、その電力と熱をスパコン「京」に送っています。
高い熱効率でエネルギーを使っているだけじゃなく、電力ピークの抑制や節電にも有効、そして無停電電源装置としても機能している。
そういったところが評価されました。
いい設備を設計してくれた設計者、いい設備に造り上げてくれた施工者、確かな運転をしてくれているわがスタッフに感謝ですね。
ユニークなコンセプトを思いついた俺もすごい!あはははは。

スパコン開発は、誰かさんから「一番じゃなくてもいい」「他国から買ってくればいいじゃないか」と言われた。
だが、一から作っていないものには限界があることを知らねばならない。

なぜ一番じゃなきゃダメなのか。
一番のものを作るためには、借り物ではできない。
一から作らなくちゃ,一番のものは作れないのだ。

たとえば、他国から買ってくるとしよう。
世界初、世界最高のものを作るには、膨大な費用と資源を使っての開発が必要だ。
だから開発した国は多くの実験データを持っている。
これまでの世の中にないものを作るわけだから、失敗もあるだろう。
試行錯誤もたくさん必要だ。
それがデータとなって残るのだ。

しかし、日本にはそのデータがない。
すると、設計通りに動かす分には問題はないが、何か新しいことをしようとすると、歴史のなさが重大な支障になる。

あるメーカーの技術者によれば、他国から買った技術をもとに改良を加えようとすると、逆に改悪になる場合が多いのだそうだ。
それは設計意図がわからないから。
基礎的データを持っていないから。
そういうことがわからないと,改良もできないのだ。
生半可な知識で改変すると改悪になるのだ。

買って、それを枠内で使うだけ。
それでは誰にでもできることしかできない。
イノベーションなんてできっこないのだ。

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技術とは、お金では買えない時間と、これまたお金では絶対に買えない経験とが積み重なって初めて結実するものなんです。
by多田将『すごい実験』イースト・プレス¥1600-、p53
###

そして、世界初、世界一のものを造るには、それを支える膨大な周辺技術が必要だ。
ぼくらの造ったコジェネ設備は、世界初、世界一では当然無い。
でも、スパコンを効率的かつ安定に動かすために、コジェネはどうあるべきか、真剣に考えた。
これまでに存在したいろんな技術を組み合わせ、やはりこれまでにはなかったコジェネ設備を造ってきたのだ。
そういう自負がぼくにはあるんだ。

2013年1月25日金曜日

まず覚え、しかる後に考えよ

昨日も仕事の合間に若い技術者君たちに電験三種の勉強を教える。
夕方設備監視室に顔を出したら、若いスタッフから問題の解き方を質問されたのだ。
ぼくもシニアエンジニアのはしくれ、電験三種程度の問題なら、質問されてすぐ解説ができる。
もちろん、我が設備に絡めて説明する。
そうして、自分が動かしている設備を「見られる」ようにするのだ。
知識のない者は「あれども見えず」だからね。

電験三種に限らないが、登竜門的な資格試験は覚えることがやたら多い。
なぜなら、考えるためには覚えていないとダメだからだ。
基本的なことを記憶していないのに、考えることなんかできない。
だって、脳はメモリーベイスドアーキテクチャ(記憶を基にした構造)だからね。
この程度のことを覚えられないくせに、シニアエンジニアになりたいなんておこがましいぜ。
そう資格試験は言っているのだよ。

もちろん丸暗記だけの人も困る。
公式丸暗記では解けない問題が出題される。
公式など基本的な知識を覚えさせた上で、それを応用したり組み合わせたりしないと解けない問題なんだ。
そうやって、丸暗記だけのヤツを排除するんだね。

丸暗記にも限度がある。
いろいろたくさんある多くのものをすべて個別に丸暗記することはできない。
技術者として臨機応変な対応ができなくなってしまう。
だから、基礎的なことは覚えた上で、それを応用、組み合わせできるようにする。
そう自らを鍛えられる者だけが、シニアエンジニアへの門をくぐることができるのだ。
どんな技術者が欲しいのか、資格試験には思想が埋め込まれている。

考えるとは、基礎的知識を基にしてそれらを転用したり組み合わせたりすることなんだ。
転用したり組み合わせたりするときに必要な技能が「計算力」。
計算が素早く正確にできないといけない。
といっても中学校で習う計算程度だけどね。
計算は「論理」と言ってもいいね。
考えるためには、知識と論理の二つが必要なんだ。

学校で習うことはすべて、知識と論理、その二つだったんだよ。

2013年1月24日木曜日

プロは二流の中から生まれる

言われたことを言われたとおりにしかできないヤツは、所詮二流だ。
だが、言われたことを言われたとおりにもできないヤツは、二流どころか三流にさえなれない。

個性的と自己流を混同するな。
自己流でうまくいくことなんか絶対にない。
乾麺だって書いてあるとおりのゆで時間でゆでるのが一番旨いのだ。
まずはレシピ通り、マニュアル通りにやってみよ。

個性的な人は、基準通り、マニュアル通りにもできるが、あえて異なることにチャレンジする。
だから、うまくいかない場合はすぐに基準通り、マニュアル通りに戻ることができる。
実害が少なくてすむ。
基準、マニュアルを知っているから、失敗したのはどこが悪かったのかも分かる。
何事も基準がないと判定、評価はできないのだ。
もちろんうまくいけばバンザイだ。
成功した理由も分かるので、次もうまくやれる。

実力のない人も、一見個性的なことをやる。
だがそれは、基準通り、マニュアル通りに実行する能力がないからだ。
気まぐれ、場当たりにすぎない。
時にそれがうまくいくこともあるが、偶然だ。長続きしない。
ほとんどの場合はうまくいかなく、それへの対処もできず、実害を与える。
さらに基準がないので、どこをどう間違ったのかも分からない。
失敗の経験を次に活かすこともできないのだ。
だから次も<超個性的>なことをやらかす。
困った存在。

ぼくはマニュアル主義者である。
スタッフたちにいつも口を酸っぱくして言う。
基準通りにやりなさい、マニュアル通りにやりなさい。
下手な工夫はしてはいけません。

一気に一流の人になろうなんて思っちゃいけない。
まずは二流を目指すんだ。
二流の上に一流は築かれる。

2013年1月23日水曜日

よい老人になるために

妬み、嫉みは人間の性だが、努力を辞めてしまった人間ほどひどくなる。

なぜ妬み、嫉みという感情を人間が普遍的に持っているかというと、それが向上心の元にもなり得るからである。
努力して向上すれば、生き残れる。
だから、妬み、嫉みは努力とペアにして有効性をはっきするのだ。
進化心理学はそう教える。

誰かを妬んだとしても、努力をしていれば多少なりとも向上するものだから、そ
いつに近づいていける実感を持てる。
それが自信へと繋がる。

ところが努力をやめてしまうと、妬んだやつとの差は永遠に縮まらず、相手は努力を続けているのでむしろ差は広がっていく。
劣等感にうちひしがれる。

努力を忘れた人に妬み、嫉みしか残らなくなるのはそういう理由である。
だから努力を辞めてしまった人間ほど,妬み、嫉みがひどくなってしまうのだ。
だから年を取るほどこういう輩が増えていく。

嫌なジジイにならないようにしたいものだ。

2013年1月22日火曜日

人事評価で遊べ

人事評価の季節だね。
おれは人事評価でも遊んじゃうよ。
どうせこれ以上出世もしないだろうし、したくもない。
悪い評価されたって、実害はほとんのどないのだからね。
怖いもんなしだ。

わが社の評価方法は、年度初めに決めた目標を達成したかどうかまず自己採点し、各項目について1~5点を付ける。
それを直属の上司が査定する方式だ。

おれは嫌な上司の時はわざと自己採点の点数をよくして提出する。
ほとんどオール5だ。
嫌な上司は当然おれを嫌っている。
オール5で出てきた採点表を見てムカつくはずだ。うひひ。

オール5なんて何を考えているんだアイツ、と思い、点数を切り下げていく上司。
すなわち悪い点数に変えていくわけだ。
そうすると、部下に悪い点数をつける自分は悪い奴、と思えてくるはず。
さらにむかつくはずだ。しめしめ。

しかもだな、オール5の点数をいくら切り下げても、オール1にはできまい。
点数を切り下げれば下げるほど、自分の悪さが際立ってくるように感じるはずだから。
せいぜい1点か2点、超ムカついても3点切り下げられる程度だろう。
結果としてまあまあの点数になるわけである。がはは。

逆に良い上司の時は3くらいの点数で提出する。
それを見たよい上司は、きっとおれのことを慎み深い謙虚なやつだと思うだろう。
もちろん誤解だけどね。うむ。

で、もうちょっといい点数にしてやろうと思うわけだ。
点数を上げれば上げるほど、自分が情け深い良い人間だと思えてくる。
もちろんこれも錯覚だ。ふふ。

部下の点数を上げれば上げるほど、気分は良くなってくる。
気分がいいので、つい甘く採点してしまうだろう。
結果として実態よりもいい評価になるって寸法。
良い上司をいい気分にさせ、おれのことも好いてもらい、かつ、よい評価を得られる。
めでたし、めでたし。

2013年1月17日木曜日

いじめに負けるな、勉強しろ!

美輪明宏さんのヨイトマケの歌。
昨年末の紅白歌合戦で聞いて感動しました。

貧乏だ、土方の子どもだと学校でいじめられた子が、耐えきれず学校を飛び出す。
そこでそのいじめの原因だったお母さんの働く姿を見る。
男たちに混じって一生懸命働いているお母さんを見る。
それで子どもは改心するわけです。
いじめなんかに負けちゃいけない。
学校はサボっちゃダメだ。
勉強しなくちゃダメだ。
勉強してちゃんとした大人になって、お母さんに楽させたい。
そしてその子は勉強して、高校、大学を卒業し、エンジニアとして立派に働くようになる。

泣けますねえ。

たぶん、この歌詞の中のお母さんも常々子どもに「勉強しろ」「勉強しなくちゃダメだ」と言っていたんだと思うんですよ。
自分の土方の仕事に誇りを持っていたでしょうが、それでも息子にはもっといい仕事に就いてもらいたいという想いがあったはずです。
いい仕事に就くには学問がいる。
だから勉強しなくちゃダメなんだって、口をすっぱくして言っていたはずです。

でも子どもですからその意味が実感として分からなかった。
勉強は面倒なことですから、やりたくない。
お母さんからうるさく言われると反撥もする。
でもお母さんの泥と汗にまみれた仕事ぶりを見て、やっと本質が分かったんですね。
勉強しなくちゃダメだって。
いじめなんかに負けちゃダメだって。

いじめとは「人間関係」です。
人間関係より大事なものがこの世にはある。
それは「学問」。
学問することによって人間関係を乗り越え、いじめに打ち勝てる。
なぜならいじめは<好き嫌い>、学問は<正邪>だからね。

こう言うと、人間関係なんかどうでもいいのか、と反論されるかもしれません。
いえいえ、違います。
人間関係にもレベルがあるんだと思うのです。

いじめは往々にして劣った子が標的にされます。
体力的に劣る子、学力的に劣る子。
自分より体力の勝る子をいじめることはしにくい。
だって逆にやられちゃうからね。
同じように、自分より勉強のできる子もいじめにくいのです。

歌詞の中の子も、ひ弱で勉強のできない子だったんでしょう。
だからいじめられた。
それを克服しなくちゃいけないとわかって、勉強するようになったのです。
勉強ができるようになるにつれ、いじめも消滅していったんだと思います。

勉強ができる子はある意味尊敬もされます。
つまりその子を認める人が多くなってくる。
学級の子どももそうでしょうし、先生もそうでしょう。
尊敬される子をいじめることはむずかしい。

いじめられている子は、実はいじめている子と同じ人間関係の中で生きているのです。
そこしか生きる場所がないからです。
とろが勉強できるようになると勉用仲間ができます。
他のコミュニティに入ることができる。
いじめの人間関係から抜け出し、邪悪な人間関係を断ち切ることができるのです。

和田秀樹さんは著書の中でこう言います。
「いじめにあったら、不登校してもいい、ひきこもりになってもいい。でも学校へ行くのと同じ以上の勉強はしなくちゃダメだ」。
不登校、ひきこもりは一時の<避難>にしか過ぎません。
それだけではいじめの輪を断ち切ることはできないのです。

人間はひとりでは生きていけません。
不登校の子も、引きこもりの子も、いずれはそこから脱して、どこかの人間関係の中に身を置いて生きていかねばならないのです。
だから勉強するんです。
勉強して学力が身につけば、同じような学力レベルの子の輪に入ることができます。
つまり、人間関係の再構築がしやすくなるのです。

いじめのない、共に尊敬し合える人たちの中で生きる。
それができればハッピーですよね。
それには勉強し、学問し、自分を高めていく必要があるんです。

2013年1月16日水曜日

小樽麦輪のベーグルが美味い!

時々はB級グルメ情報も。 

以前も紹介したけど、北海道産小麦を使ったこのベーグルが美味いです。 
すごく美味いんで、友だちの出産祝いなどにも使っています。
贈った皆さんからも大変喜ばれ、リピしている人もいますよ。

今、送料割引キャンペーンをやっているので、紹介しちゃいます。
ベーグル好き、パン好きの方はぜひどうぞ!

まずは「スタートセット」「スイートセット」で各種味わってみてください。 
冷凍保存もできるので、ある程度のまとめ買いもokです。


って、おれは糖質制限食やってるんで、あんまり食えないんだよねー。 
んーーーー、残念。 

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遅ればせながら… 新年明けましておめでとうございますm(_ _)m 
今年の北海道の冬はスゴイぞ!なんて思ってたら、 全国あちこちでも大変なことになってますね。 
昨日の成人式、 思い出に残る成人式にはなったかもしれないけど、 せっかくの晴れ着姿が可哀相… 
頑張れ!新成人!!!雪に負けるな! 

さてさて、 私たちも雪に負けないように、 送料割引セールを開催しちゃいま~す。 
ベーグル3,000円以上お買い上げで、 全国525円でお届け(北海道内は315円) ベーグル5,000円以上お買い上げで、 全国送料無料とさせて頂きます!! 
この機会に、 お友達と一緒にまとめて買っちゃって下さい。 

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★北海道産小麦100%のベーグル★麦輪(むぎのわ)小樽★ 
 担当:赤尾みどり(みどさん@おたべー)
 住所:北海道小樽市稲穂2丁目15-17 
 電話:0134-32-4669(本社・Web店事務所)      
 0134-51-3251(工房・販売店舗) 
 Eメール:master@muginowa.com 
 http://www.dena-ec.com/user/4786800
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2013年1月11日金曜日

スペシャリストとしての大学教授

NHK-Eテレで、白熱教室シリーズが放映されています。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/mit.html
今はMITの物理学の講義。
なかなか面白い。
明日も放送がありますから、みなさんもぜひ見てください。

アメリカの大学教授って、主に研究をするリサーチプロフェッサーと、主に教育をするティーチングプロフェッサーがいるんです。
日本の大学だと研究業績でしか評価されないのですが、アメリカの大学は教育能力もきちんと評価されます。
なので、こういう愉快な教授も生まれます。
ティーチングプロフェッサーもスペシャリストなんですね。

研究と教育、それぞれ別の才能です。
どっちも得意な先生もいるかもしれませんが、両方得意って訳にはなかなかいきませんよ。
研究に適している人に、教育もやらせる。
逆に教育に適している人に、研究もやらせる。
これは不合理です。

教育もやるからいい研究ができる、あるいは研究で第一線に立っているからいい教育ができる、という面もあるかもしれません。
でもそれは多くの大学の先生にとって「建前」「きれいごと」に過ぎないでしょう。
どっちも中途半端になりかねません。
それはスペシャリストがスペシャリティを発揮できない状況を生んでいる可能性が高いのです。

だってね、第一線で研究している教授が、講義の時間になったから教室に行って、大学1年生の教養科目を講義する。
無理ですよねー、いい授業ができるわけがありません。
講義の準備する時間もないし、頭を切り換えるのも大変。
もちろん研究もいったん中断しなければならない。
教科書を読んで解説するだけの講義になりがちです。

日本の大学の授業はそれなんです。特に1,2年生の教養レベルの授業はね。
日本の大学の先生は研究職として採用され、研究業績で評価されます。
だから教育は片手間にやるようなもの。
先生もやる気なし、学生も興味が持てない。
お互い不幸ですよね。

アメリカの大学のティーチングプロフェッサーは、教育の専門家です。
教育だけに専念すればいいので、授業プランを練り、教材を作り、実験の準備をたっぷり時間をかけて行う。
結果として面白い授業ができます。
学生の興味を引き出し、心に火をつけます。

アメリカの大学、特に一流校はここで終わりません。終わらせません。
楽しい授業のあとには、地獄の「演習」が待っています。
講義に関連した練習問題を解く訓練をするのです。
少人数のグループに分けられ、助手やティーチングアシスタントがべったり張り付いて。とてもサボれません。

講義を聴いただけでは「ああ面白かった」で終わってしまいます。
きちんとした学力を身につけるには、その内容を演習を通してたたき込まなければならないのです。
でも学生たちは講義で興味を持ち心に火がついているので、地獄の演習にも耐えられるわけです。
学力が身につくので、次の講義にも着いていくことができます。
だんだん難しくなっていっても、興味を持続させることができるのです。

日本の大学でも、面白くて学生に興味を持たせる講義をする先生もいます。
でも日本の大学では、せっかく学生の心に火をつけても、その火をすぐ消しちゃうんですよ。
なぜなら、演習しないから。
もったいないですよね。

さて、アメリカの大学では、募集時点からリサーチャーポジションなのか、ティーチャーポジションなのか決まっています。
自分でどちらが自分に適しており、自らの才能を生かせるか決めて、応募するんですよ。
大学院生も学位を取ったあと、自分は研究と教育のどちらに向いているのか、適性を見極めて進む方向を決めるわけです。
そして採用されてから、自らのスペシャリティを磨いていくわけです。

もちろん途中でシフトチェンジも可能。
当然実績もないとダメですがね。
教育ポジションは研究業績で評価されないので、逆に研究成果を出すことに追いまくられません。
じっくりと長いスパンで自らの興味ある分野の研究をすることができます。
それが新たな研究分野を切り拓くことにつながるんです。
芽が出て学会などで評価されれば、研究ポジションへ移動することもできるのです。
その場合は、教育ポジションをいったん辞めて、研究ポジションに応募するわけです。
つまり、転職。

自分のキャリアは自分で決める。
なかなか合理的でしょ。
(つづく)

2013年1月10日木曜日

スペシャリストとバックオフィス その1

スペシャリストの反対語(対義語)は何でしょうか。
日本ならゼネラリストですよね。
でもアメリカでは違うんだそう。
アメリカにはゼネラリストはいないんですよ。
もしかするとゼネラリストなんていう職種があるのは日本だけかも。

アメリカの社会は、2割のスペシャリスト(専門家)と8割のバックオフィス(事務員)で構成されています。
スペシャリストとは自らの専門性を活かし、他の人ではできない仕事を自主的に行う人。
だからスペシャリストには経営者はもちろん、マネジャー職も含まれます。
経営者は経営のスペシャリスト、マネジャーはマネジメントのスペシャリストなんです。

アメリカ社会では、スペシャリストは最初からスペシャリストとして雇用されます。
あらかじめ、これこれという専門技術を持つ人、という形で募集され、それに応募する。
その能力があると判断されれば雇用されます。
もちろん、その専門性に見合った年俸もあらかじめ示されます。
その意味で、雇用のミスマッチは起こりえないのです。
欲しい人=やりたい仕事、年俸=求める報酬なんですから。

雇用されたスペシャリストは、その仕事を自主的に進めます。
会社はゴール、すなわち目標と期日を決めるだけ。
スペシャリストは会社が求めるゴールに向かって、手段、方法、段取りを自分で決め、必要なスタッフを集め、邁進します。
その意味で、手段、方法、段取りを自分で決められることこそ専門性のあるなし、専門家であるかどうかの判断基準と言っていいわけです。

スペシャリストに与えられるのは、ただただゴールだけ。
ゴールを達成できたかどうかで、その能力が測られます。
ただその1点で、厳しい評価を受けるのです。
成果主義ってやつですね。
ゴールを達成できなかったら、当然解雇。
あるいは降格されて、もっと低いゴールと年俸のポジションに移ります。
解雇も降格も、ゴールを達成できなかった事実があるので、そのスペシャリストとしても納得ずくです。
解雇に絡むトラブルもあり得ません。

スペシャリストは仕事を自主的に決めるわけですから、誰かから命令されて仕事をすることはありません。

競争にさらされ、厳しい評価で査定されるのは2割のスペシャリストのみなんです。

もちろん高給を取る。

ダメなら解雇も当然。
だから実力主義賃金でよいのです。

ここで注意したいのは、たとえゴールできなかったとしても、あらかじめ契約した年俸は支払われるということ。
だからスペシャリストは安心して働けるのです。
仕事はばくちじゃありませんからね。
でも、ゴールを達成できなかったんですから、次の仕事での契約では年俸ダウン必至でしょう。

スペシャリストは常に勉強、努力もしています。
ゴールを達成する中で、スペシャリストはよりよい手段、方法、技術を開発します。
だからといって年俸が上がるわけではありません。
年俸はあくまで最初に契約した額のまま。

でも、より高い技術を身につけたスペシャリストは、「次の契約」でもっと高い年俸で契約することを目指すのです。
おれは前職で期待以上のゴールを達成した。
それはこれこれの技術を開発したからだ。
だから今度はこれだけの年俸で雇うべきだってね。
スペシャリストは高まった自分の能力に見合った仕事を求めるわけ。
だから転職もあたりまえなんです。

それに対して8割のバックオフィスの人たちは、会社全体の業績不振以外で解雇されることもないし、自ら転職もしません。
ほぼ生涯同じ会社に勤務しているのです。
その意味で日本の会社員と似ています。

でもバックオフィスの人たちの賃金は、ほどほどです。
同一労働、同一賃金であり、年齢、性別による差別もない平等な給料。
競争もないし、厳しい評価にさらされることもないのです。
世の中には、あまり高くない能力でもいいので、一定の仕事を淡々とこなしてくれるたくさんの人が必要なんです。
すべての人がスペシャリストじゃなくてもいいし、すべての人がスペシャリストではうまく社会は回っていかないのです。

誰もがリーダーになれるわけではないし、なりたいわけでもない。
アメリカの労働者はスペシャリストを目指すのか、バックオフィスとして生きるのか、自分で選択すればいいのです。
もちろん、その間の行き来も自らの努力で変更可能です。
でもスペシャリストへの行き来もできるが、求められる知識、技能は厳しく査定されるのは言うまでもありません。
とんでもない努力が求められるのです。

さて、日本の会社員はどうでしょうか。
日本の会社員はスペシャリストとバックオフィスに分かれてはいません。
ほぼ同一年齢同一賃金生涯雇用の雇用体系です。
それでもやっぱり会社の中には、スペシャリストもいればバックオフィスの人もいるんです。
それらを区別することなく雇用されているのです。
でもこれってハッピーなことでしょうか。

(つづく)

2013年1月8日火曜日

勉強の貯金をしよう!

とんたんが小学校に入学したら、国語と算数の教科書を10月頃までに終わらせてしまうつもりだ。
子どもに自信を持たせるコツは、「ぼくは頭がいい」と錯覚させることである。
1年生の勉強を半年でやり終えちゃう具体的事実。
確実に錯覚させられるぞ。

学校で教えられるのを待っていてはいけない。
ちょびっとでもいいから先取りする。もちろん無理のない範囲で。
それを「勉強の貯金」と呼ぶ。

お金も多少のたくわえがあったほうが気持ちに余裕が出る。
それと同じで、勉強の貯金があると、あせったりプレッシャーを感じたりすることがなくなるのだ。
精神的にゆとりを持っていたほうが、効率も上がるのだ。

冬休み中、長男はっちゃんに3ケタ×3ケタの掛け算を教えた。
これも最近は小学校で教えないことになっている。
3ケタ×3ケタができれば、それ以上のケタの掛け算も同じやり方でできるようになる。
だから2ケタ×2ケタだけじゃだめなんだ。

高校物理、化学では3ケタの乗算ができないと問題が解けない。
計算ができないために物理や化学が不得手になるのはとても損だ。
小学校のうちに教えないのは犯罪的である。
中学でもまともに教えないんだから。

ゆとりとは、ちょっと余分にやることで生まれるのだ。
難しいことはやらない、やらせないということじゃないんだ。
難しいことまでちょっとやっておく。
だからやさしいことは楽々でき、心にも時間にもゆとりが生まれる。
これは勉強でも仕事でも同じだ。

はっちゃんは去年10月に漢字検定9級(小2までの漢字)に合格し、今は3年生に習う漢字を毎日2文字ずつ練習している。
3年生の学習漢字は200文字。
毎日2文字ずつやれば3~4か月で終えられる。

一通り終えたら、漢字検定8級のテキストと過去問で繰り返し習熟する予定。
習熟する時間を確保するために、どんどん先へ進むのだ。
習熟せずに真の学力は身につかない。
何事も習熟するためには時間が必要なのだ。
学校の授業のように、薄っぺらな教科書をのんびり進めていたら、習熟する時間が足りなくなる。
それは返って子供の余裕を奪う。

漢字の習得は語彙力に直結している。
語彙力こそ国語力の源。
なぜなら読める漢字が多いほど、読める本の幅が広がる。
知識を自分で獲得していけるのである。
読書は自学力の源泉なのだ。

社会人になっても読書を続けられる能力。
必要なことを本を読んで自分の中に取り込める力。
大人でも意外とできない人が多いのだ。
仕事に役立つ読書ができる社会人は,上位10%くらいしかいないんだそう。

そして読書をするにも時間は必要だ。
ちょいと先まで勉強しておくから、学校で出される宿題も短時間でこなせる。
本を読む時間を生み出せるわけだ。

ところではっちゃんに3ケタ×3ケタの掛け算を教えたが、計算の「手続き」のみを教えた。
シーケンス、プロトコルである。
計算の「意味」は教えてはいない。
なぜなら8歳の脳ではまだ計算の意味まで理解できないからだ。

8歳の脳は手続きを記憶するには適しているが、内容を理解するには適していない。
小学生頃、中学生もかな、は手続き記憶(意味記憶、単純記憶)に適しているのだから、丸暗記でもいいからとにかく覚えさせたほうがよいのだ。

学校の先生は何かと「理解」を重視するのだが、それは子供の脳の発達に適していない。
無駄な努力である。いい迷惑なのだ。
わかるまで教えようとするから、時間がかかり、教科書はなかなか進まず、子どもも先生も嫌になる。
こうして勉強嫌いが増えてしまうのだ。

小学生は(中学生も)できればいいのである。
手続きを教え、丸暗記させ、できるようにさせよう。
そのほうが効率的なのだ。
できるようになれば、それを繰り返していくうちにわかるようにもなっていくのだ。
できない限り、わかるようにはならない、絶対に。

それに、できればテストでいい点数を取れる。
いい点数が取れれば、自分はできるんだ、と錯覚し続けられる。
さらに勉強しよう、という意欲が生まれ、ポジティブなフィードバックが起こる。
できるようにしないで、子どもの学力が上がることは絶対にない。

最近の脳科学で、年齢が上がるほど記憶容量が大きくなることがわかってきた。
なぜなら、記憶とはニューロン同士のネットワークなので、このネットワークが広がるほど、新しいことを覚えられるようになるのである。
であるから、脳のネットワークが広いほど、年齢が上がった時の記憶容量も大きくなる。
子どものうちからたくさん記憶し、覚える訓練をしておいたほうが、後々もたくさんのことを覚えられるということなのである。

そして思考。
これも脳科学で、脳はメモリーベイスドアーキテクチャであることがわかっている。
脳は、記憶を基にした思考機関なのである。
確実な記憶が多いほど、精緻で深い思考ができるのだ。

だから丸暗記をばかにしてはいけない。
理解するためには記憶していないといけないのだ。
記憶は理解に先立つのである。
まず「できるように」することこそ、教育の原点であり、本質なのである。
理解はその先にあるのだ。

計算も漢字も小学校でしか教えてくれない。
中学になるとまるで不親切で、まったく教えてくれなくなる。
あたりまえといえばあたりまえだが、中学校のカリキュラムは小学校の読み書き計算力を前提としている。
その前提がなければ、中学の勉強はお手上げなのだ。
お手上げの生徒が半数以上いる中学のクラスで、まともな授業ができるわけがないのである。

中学校は高校とともに「中等教育機関」なのである。
戦前の中学校は厳しい入学試験もあり、進学率も10%程度のエリート校であった。
戦後中学校は義務教育になったが、そのカリキュラムは戦前の中等教育のものをほぼ踏襲しており、非常に高度な内容のままなのである。

小学校でののほほんと過ごしてしまった生徒は、ほぼ中学の勉強についていくことはできない。
読み書き計算の基礎的学力と、毎日2時間程度の家庭学習の習慣がない生徒は、中学での学習内容を習得していくことはできないのだ。
その意味で、小学校教育の責任は重い。

だがそれでも、ほとんどすべての生徒が高校へ進学できる。
そのまた半数は大学へも進学できる。
学力の伴わない高学歴者ばかり増えてしまう。

小学校で習う程度の計算力、漢字力さえしっかり身につければ、一生を通じて役に立ち、人生にゆとりをもたらす。
それが本当のゆとり教育であるはずなのだ。