2008年12月31日水曜日

しつけは自由へのパスポート

こんにちは

毎年末に、今年お世話になった方、これからもおつきあいいただきたい方に、ぼくの青春の味、教え子の家から送ってもらった日高昆布1等品をお福分けしています。
打ち合わせついでに丸の内のスパコン本部の方たちにもちょびっとずつ持って行きました。
ここの秘書の方はとても元気のいいねーちゃん。
「わー、ありがとう!坂田さんや倉持さんにも持って行ってあげるよ!」
坂田さん、倉持さんは元理研のスパコン担当理事。
今は文科省に戻って、坂田さんは文部科学審議官、倉持さんは局付きの審議官をなさっています。
文科省の偉い方にまで届けるなんてぼくはまったく想定外のことで、面食らっちゃいましたが、ちょびっとずつでかっちょ悪いなーと思いつつも素直にお願いしました。
するともう翌日には、坂田さんと倉持さんからお礼のメールが届きました。
さすがです!

何かプレゼントしたり、その人のために何かをしたとき、さっと礼状をくれたり、お礼の電話やメールをくれる人がいますよね。
「ありがとう」とひとこと言ってくれる。
とても嬉しいし、気持ちがいい。
そうされると、また何かその人のためにしたいなーって思います。

仕事の上でも、ありがとう、と言ってくれる人がいます。
仕事なんだからやるのは当たり前なんですが、それでも「ありがとう」とか「助かった」とか、素早くメールをくれたりします。
そうすると、その人のためならもっと頑張ろう、という気が湧いてきます。
逆に、本来業務以外のことをやったときでさえ、ひと言もなかったら「なんかなー」って思っちゃいます。

で、マメにひと言くれる人って伸び伸びと仕事をしているように思います。
自分のやりたい仕事を伸び伸び、かつバリバリやっている。
とても充実しています。そして出世している^^;)。
それは、「ありがとう」のひと言が生み出しているんじゃないか。
「ありがとう」と言うから、他の人もその人の仕事に協力してくれる。

仕事だって一人でできることはたかが知れていますから、協力者は絶対に必要です。
無理やり業務命令で従わせる手もありますが、強制されたら嫌々やることになって、スピードと品質が落ちるのは当然です。
それよりは、自然な形で協力してもらう方がいい。

何かをしてもらったら「ありがとう」とすぐ言うのって、実は「しつけ」なんですよね。
礼儀作法と言ってもいい。
きっとそう言う人は子どもの頃からきちんとしつけられていた。
だから自然に素早く「ありがとう」のひとことが言えるんだと思います。
それが大人になって仕事をしても役に立っている。
伸び伸びバリバリ仕事をこなすための、潤滑剤になっている。
つまりそれは、自由を手に入れていると言っていいと思います。
しつけが身に付いていれば、より自由になれるんだって思うのです。

野口芳宏『子どもの作法』PHP\1300-から引用します。

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「礼儀作法」を身に着けている人は立派です。
誰からも愛され、親しまれ、尊敬されます。
品位もあり、おくゆかしく、人間としての円熟味も加わります。
そして、何よりも本人が楽しく、明るく、幸せな日々をおくることができます。
「作法」は人を幸せに導くお守りです。(2p)
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子どもをしつけるというと、子どもの自由を奪うような気がして、腰が引けてしまう親も多いようです。
確かにそれで子どもは伸び伸びするかもしれません。
でも子どもが成長して社会に出て行ったときにどうなのでしょうか。
社会でも伸び伸び自由にやれるのか。
そうじゃないとぼくは思うのです。
しつけ、礼儀作法が身に付いていないと、社会の中での自由度は返って狭くなってしまう。
人生の長いスパンで考えたとき、より自由になれるのはどうすることなのか。
そう考えると、子どものときのしつけって大事だよなって思えます。

はっちゃんとっちゃんにも、「ありがとう」のしつけはしつこくやっています。
何かしてもらったら必ずありがとうと言う。
お店でおやつを買うとき、お金を払うときにも忘れず言う。
不躾な子どもより、やっぱりちゃんと躾けられた子どもの方がかわいいですからね。
かわいいとオマケしてくれたりします。
来年も、きちんとすることは得なことなんだ、ということを体に染み込ませていきたいですね。
そのためにみ、親自身も礼儀正しくしなくちゃね!

2008年12月30日火曜日

子供に健康管理を教える方法

こんにちは

すっかり寒くなりましたね。
おかげさまで我が家は誰も風邪を引かず、元気にしています。
インフルエンザの予防接種もしていません。
それどころか我が子たちは、生まれたからまだ病院に一度も行っていません。

ぼくは子どもの頃から体が弱く、毎年のように重い風邪を引いていました。
大人になってもそうでした。
でも結婚してからだんだん丈夫になってきました。
結婚生活は規則正しい団体生活だからでしょうか。
そして、子どもが生まれてから、ますます丈夫になってきました。
子どもに病気をうつしちゃいけないから、リスクの高いことをしないように注意するようになったからでしょう。

つまり、健康管理をしっかりと意識してやるようになったからなんだと思います。
仕事でも何でも無理しすぎない。
ちょっと疲れたなと思ったら休養する。
だからといってダラダラもしない。
健康のためにメリハリつけた生活をする「技」が身についてきたように思います。

健康管理の仕方も意図的に学ぶ必要がありそうです。
我が子たちにも学ばせていきたいです。
昔は学校で「皆勤賞」なんていうのがあったそうです。
1年間一度も学校を休まないですんだら、表彰される。
それが子どもたちに健康であることに目標を与えていたと思いますね。
目標があれば、自ら健康に注意するようになっていくと思います。
今は皆勤賞なんかやらないからでしょうか、子どもたちは(親も)平気で学校を休むようです。

ぼくの尊敬する小学校教師、野口芳宏さんはご自分のお子さんに対してこんなことをやっていたそうです。

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子どもはお正月になると、当然のごとくお年玉をもらえると思っている。
これがいけない。
私はそうはしませんでした。
どうするかというと、学校を一日も休まないように自らの健康管理をした場合、お年玉として二万円をやるようにしました。
子どもにとっての二万円は目の飛び出るような額です。
標準額ではありません。
正月がまだ先の話であっても、子どもは期待と志を持ちます。
ただし、一日学校を休んだ場合には、五百円ずつ天引きをすると約束します。
そうすると子どもは、風邪を引かなくなります。
(野口芳宏『縦の教育、横の教育』モラロジー研究所\600-、27p)
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ナルホド、いい方法ですね。
お年玉を健康管理奨励金として利用するんです。
学校がやってくれないなら、自分の家庭で皆勤賞を実践する。
こういうインセンティブを与えたら、子どもも自分の健康に興味を持ち、どうしたら風邪を引かないか工夫するようになると思います。

二万円とは子どもにとって高額なようにも思えますが、風邪を引いて病院に行って診療費や薬代を支払い、かつ病気の期間の不快感や心配を考えると、安いとも言えます。
何より、健康ほど価値のあるものはない、と子どもに実感を持って伝えることができる。

こういうお金で子どもを釣るようなことを毛嫌いする人もいます。
もちろん金ばかりの人間に育つのも困りますが、お金を疎んじたり毛嫌いしたりバカにしたりする人間も困りものです。
適切にお金とつきあえる人になってもらいたい。
だから野口さんのやり方はいいなーって思います。

お年玉も、お正月だから子どもに与えるだけじゃもったいない。
健康管理の目標を与え、お金とのつきあい方を学ぶチャンスにもなるんですね。
我が子たちが小学生くらいになったら、真似してみようと思っています。

2008年12月29日月曜日

10歳は新車

こんにちは

我が家の小さな庭で、ほんのささやかな畑を作っています。
果樹も何本か植えています。
植物を育てていて分かったのは、苗のときに手をかければよく育つ、ということです。
苗のときはちょっと油断していると虫が着いちゃって、成長が遅くなったり、下手すると枯れてしまう。
ほんの数日見ないでいると、あっという間に葉っぱがなくなっちゃったり。
だからこまめに虫をつぶしたり、ちょっと殺虫剤を使ったりする必要がある。
苗の時期を過ぎると、ホントに丈夫になります。
ちょっとぐらい虫が着いても、株全体に影響しない。
放っておいても大丈夫。

子育ても同じだと思うんですよね。
子どもが小さいうちはマメに手をかける。
虫がつかないように気をつけるわけです。
ある程度大きくなったら手を離す。
多少虫がついてもいいし、その方が反って丈夫になる。

ではいったい何歳ぐらいから、手を離すことを始めたらいいのか。
ぼくは「10歳を目安にする」といいんじゃないかって思っています。
10歳からは徐々に子どもの意思を尊重し、子どもに任していきたい。
親が直接手をかけるのは10歳、小学4年生までだと考えているのです。

ぼくが小学校の教師だったとき、一番面白かったのは4年生を担任していたときです。
4年生になると、論理的な思考ができるようになる。
屁理屈が言えるようになるんですね。
だから、ちょっと何かを教えるとそれを自分で発展させることができるんです。
打てば響く、といった年齢なんです。
これは6年生よりも、中学生よりもそうなんです。

この年齢は、昔から「9歳の壁」と言われています。
9歳の時にきちんとした教育すると見違えるように成長するけど、いい加減だと成長しない。
すなわちそれが、9歳の壁なんです。
9歳の壁を上手に乗り越えられると、しっかりとした子どもになるんです。
9歳の壁を乗り越えられた10歳の子どもだけが、自分の力で人生をスタートさせることができるのだと思うのです。

『Dad-Garage』英治出版\1100-に、ホテル・ドゥ・ミクニのオーナーシェフ三國清三さんのインタビューが載っていました。
三國さんは、小学3年~6年生の子どもに「キッズシェフ」という味覚の授業をボランティアで行っています。
子どもたちの味蕾を開花させ、その味覚を鍛えることが目的の授業です。
三國さんは次のように言います。

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8歳~12歳の間に人の一生の味覚が決まります。
講演などで私がよくいうたとえなんですが、小学三年生の子どもの体というのはいわば新品の車で、新品のエンジンがついている。
ガソリンも満タン。
でも、それだけでは車は始動しません。
誰かがキーを挿して、回して、エンジンに点火する必要がある。
味蕾から受け取る刺激物、酸っぱ味や苦味といった味がそのキーの役割、つまり、脳を始動させる役目を果たしているんですよ。
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子どもを新車に喩えるって、いい表現ですね。
確かにこの時期の子どもは、ピカピカの新車のようです。
でもそれだけじゃいい車にならない。
エンジンをかけて、十分慣らし運転をする。
慣らし運転の時期が過ぎたら、その性能を発揮できるドライビングコースを走る。
そうやって新車は鍛えられていくんです。

子どもも同じ。
ピカピカの新車は、誰かにキーを挿してもらってエンジンに点火してもらわなくちゃならない。
その役割は親じゃない方がいいんですよね。
子どもが尊敬できる人にやってもらった方がいいと思っています。
その方が子どもはいい車になれる。
親がいつまでも補助しているんじゃ、子どもは自分の才能を発揮できる道へ出て行くことができない。
その時期が8歳から12歳だって三國さんは言うのです。
三國さんは子どもたちのエンジンキーを回すために、キッズシェフの授業をしているんですね。

じゃあ、親の役割は何なのでしょうか。
ぼくは親の役割は、新車を完成させるまでなんじゃないかって思うのです。
新車にもピンからキリまでありますよね。
なるべくなら高級車に仕上げたい。
高級車ならよりすばらしいコースを走れるようになる可能性が大きいと思います。
高級車じゃなくても、せめて欠陥車にはしない。
コースに出て、故障して止まってしまわないように。

だから子どもが10歳くらいになるまでは、親は一生懸命手をかけてやる。
それに10歳くらいまでは子どもも親の言うことを聞いてくれます。
そういう発達段階にあるんです。
親のコントロールが効くこの時期までに、しっかりした躾をするし、基礎的な知識、技能を身に着けさせる。
そうすれば、ピカピカの新車ができあがるんじゃないかと思っています。
そしてあとは、チューンナップは素晴らしい誰かにゆだねる、ゆだねることができるようにしたいですね。

脳の臨界期を逃すな

こんにちは

子どもの脳の重さは、体重の割に大きいです。
大人はほぼ体重の2%(それでも脳は肝臓の次に大きな臓器です)。子どもは何と6%もあるんです。当然ながら血流も多く、栄養消費も大きい。
脳の栄養はブドウ糖だけ。大人の脳は全ブドウ糖の20%を消費していますが、子どもは40%。
ですから、子どもの脳の発達はものすごいんです。

この時期を大切にしないといけません。
適切な時期に適切に鍛えないと、子どもの脳は正しく発達しません。
時期を逃すと、もう発達しなくなってしまったり、とても苦労を伴うようになってしまいます。
この時期を「臨界期」と呼びます。

ぼくは、教育実習や塾や予備校講師なんかも含めると、幼稚園児から高校生まで教えたことがあります。
大学の後輩の卒論もめんどう見ました。
その経験から言うと、知的な面での臨界期は小学校にあると思っています。
ぼくはもともと中学校の理科教師を目指していました。
大学は中学校教員養成課程に進みました。
教育実習や臨時採用で中学生に教えてみると、たとえおもしろい授業をしたり、実験で興味を引いたりしても、基礎のない子はただ「おもしろかった」で終わってしまう。
それ以上、深く学んでみようとしないんです。
多少理科に興味を持ってくれたかな、と思っても、それが持続しないんですね。
だって基礎がないから、学ぶだけの「技」が身についていないから。
計算が不得手だったり、教科書や参考書を読み込んでいくだけの読書力がなかったり。
基礎がないから持続できないんです。

その基礎はどの辺にあるかというと、小学校、それも3,4年生頃の読み書き計算にあることが分かりました。
これらの基礎がないと、はっきり言って中学校からでは手遅れなんです。
手遅れは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも回復させるための苦労は、先生も親も生徒自身も大変なものになります。
つまり、臨界期を逃してしまっている。
とても学校の授業の中で回復させるなんてことはできないんです。

ぼくは若い技術者君たちに、資格試験のための勉強を教えたりもしています。
ここでもネックは読み書き計算なんですよ。
小学校レベルの読み書き計算ができない若者は、勉強が続きません。
基礎が不足しているため、自学できないのです。
その意味で小学校レベルの読み書き計算は、人生をよりよく生きるための「道具」なのです。

安岡正篤『青年の大成』致知出版\1200-にこうありました。

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昔は小学校を尋常小学校といいました。
この尋常とはあたりまえ、どんなことにでも、平常と少しも変わらないことです。
如何なる戦場に臨んでも平常どおり少しも変わらぬ戦いをしたいと、昔の武士は「いざ尋常に勝負」と言ったものです。
従って尋常小学校の尋常とは将来如何なる境遇にあっても平常心を失わぬように処するその根底を養うことであります。
これを誤って尋常小学校とは学校の中で一番程度の低い子どもの団体である等と、とんだ誤解をしておると申さねばなりません。(163p)
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小学校は学校の中で一番程度の低い場所だと思っていると、大変な目に合います。
人生という戦場に臨んで、常に平常心を保って闘うための基礎を学ぶ場所なんです。
だから大切にしなくちゃいけない。
小学校での勉強を軽んじてはいけないんです。

なので我が家では、はっちゃん、とっちゃんの小学校選びを既にはじめています。
来年はスケジュールをしっかり組んで、学校説明会に行こうと思っています。
選ぶポイントは、3,4年生の勉強をしっかり教えてくれる学校。
私立の進学校で、5,6年の勉強を受験対策でスパルタ式に教えてくれる学校はあるようですが、3,4年生の勉強が身についていればスパルタなんか必要ないんです。
それにスパルタ式は返って子どものやる気を削ぎますから、やめてもらいたい。

もちろん学校だけに頼らずに、我が家でも寺子屋をすることを通じて自学する習慣をつけていく。
我が家の寺子屋をうまく3,4年生の勉強へと接続したいと考えています。
この時期までは親としても手を抜かないし、必要ならお金もかける。
もしかしたら一番お金をかけるべき時期は、小学生の頃なのかもしれませんよ。
それが一番コストパフォーマンスがいい。

小学生の時期に適切に手間とお金をかけておくと、その後の負担が返って軽くなるんじゃないか、という仮説をぼくは持っています。
高校や大学はお金がかからない学校に行ける。
捕らぬタヌキの皮算用ですが、我が子たちは小学校国立->中学校全寮制私立->高校都立->大学外国がいいなー、なんて夢見ています。
もちろん子どもに過剰な負担をかけないように気をつけながら、子ども自身の意見や希望にも配慮して、用意周到に楽しく夢を実現していきたいと思っています。

ところで、子どもの脳はたくさんの栄養を消費しています。
ということは、発熱も大きいということです。
冷却のため、そして脳の発達具合を目視するため、我が子たちは定期的に坊主頭にしています。
ついでに、床屋代も節約です!

2008年12月28日日曜日

元気なじいさんになりたい!

こんにちは

毎年末、ぼくは今年お世話になった方とこれからもずっとおつきあい願いたい方に、ぼくの青春の味、教え子の家から取り寄せた日高昆布を贈っています。
寺田じいさんから礼状が届きました。
寺田さんは法務省の営繕の仕事を定年後、何年か理研のぼくのいるセクションに来ていただいた方。
とっても元気なじいさんで、ぼくのリスペクトする、こういうジジイになりたいと思える方です。今も現役で仕事をしている。
死ぬまでつきあっていきたいスバラシイじいさんです。

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さて、小生の方も相変わらずで、仕事がなければ出勤不要なのですが、今年は4月から殆ど毎日満員電車にゆられております。
相変わらず積算が仕事で、エクセルと格闘しております。
あと2年で80歳になるので、そろそろバイバイして好きな海外旅行に専念したいと考えておりますが、会社から、あなたは必要不可欠な人材だとおだてられ、「おだてりゃブタも木に登る」で、当分無理かと半分あきらめております。
考え方では、「ボケ防止」の最大の手段かもしれません。
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渡辺弥栄司『125歳まで、私は生きる!』ソニーマガジンズ¥1500-という本を友だちから紹介されて読みました。
渡辺さんは今87歳だそうですが、健康で生き生きと生きている。
まだまだやりたいことがたくさんあって、125歳まで生きるぞーなんて言っています。

なぜ生き生きとしていられるのか。その秘密はやっぱり「ちゃんと自分でお金を稼いでいる」ことなんですね。
渡辺さんは60歳過ぎたとき、これからも生き生きと社会の役に立って生きるにはどうしたらいいかと考えた。
社会に役に立つボランティアをこれからの人生の仕事にしていこうと考えたわけです。
ボランティア活動するのでも、やっぱりある程度のお金が要ります。
手弁当と言っても交通費だってバカになりません。
お金の心配をしていたのでは、やりたいことを思い切ってできなくなってしまう。
だから、ちゃんと収入を得る道も確保しておかなくちゃと考えたんですね。

そこらへんが偉いじいさんですよ。
たいていのじいさんは、年金だけでは自由になる金がほとんどないから、家でテレビばっかり見ているなんてことになってしまう。
金がないのであちこち出かけられないわけです。
ボランティアなんてとてもとてもやれやしない。
なので、家でダラダラするしかないことになってしまう。
125歳まで生きるどころか、「早くおっちんでくれたらいいのに」なんて婆さんに陰で言われちゃったりして。

話を戻して、そこで渡辺さんは一発奮起して司法試験に合格し65歳で弁護士になった。
弁護士事務所を開設しただけじゃありません。
実務経験もなく年取った弁護士に、そんなに仕事が舞い込んでくるわけがない。
そこで司法修習時の同級生からコイツはと思った弁護士を引っ張ってきた。
事務所のオーナーは自分、裁判などの対応は引っ張ってきた弁護士。
そうやって、収入をしっかりとかつコンスタントに確保できる状況を自分で作り上げちゃった。

渡辺さんはこう言います。

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使命感を持った日々は充実し、楽しく、幸福である。
人の役に立っていると思えば、誇りが生まれ、その誇りが活力を盛んにする。(217p)
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渡辺さんも寺田のジジイも、日々充実して元気でいるのは、やっぱり「自分で稼いでいる」という自信と気概なんじゃないでしょうか。
稼げるということ自体、社会から必要とされているからです。
人間は、特に男性は、社会と関わっていないとダメになっていくものだと思います。
サラリーマンなら定年前は待っていても会社が仕事を与えてくれる。
でも定年過ぎちゃったら、待っているだけの人に社会の側から何か要請されることは絶対にないんだと思うのです。

そのためには待っていてもダメで、自分からそうなる状況を作る必要がある。
それには、自分の「専門」がある必要がある。
渡辺さんは弁護士資格、寺田のじいさんは積算の技術ですね。
専門があり、誰かがそれを必要としているなら、仕事と稼ぎを得ることができ、元気に好きなこともできるわけです。
楽しく元気な爺になるためには、定年後は毎日が日曜日、なんて言っていられないと思います。

ぼくも60歳過ぎた人生のことも射程に入れる年齢になってきました。元気なじいさんになれるように、自分の専門性を磨いていきたいと思っています。

2008年12月26日金曜日

まずは「できる!」と言ってみろ

こんにちは

ぼくは次世代スーパーコンピュータ開発の末席にも加わっています。
ぼくの役目は、スーパーコンピュータを入れる建物とコンピューターの電源、空調、つまりインフラの建設。
今、神戸で建設中ですが、もう楽しくて楽しくて仕方ありません。

この仕事に企画段階から関わらせてもらいました。
予算獲得、立地選定から、国家プロジェクトがどんな風に進められるのか見ることができたんです。
いい経験をさせてもらっています。

その中で、文部科学省などのキャリア官僚の人たちとも話をする機会がありました。
世間では高級官僚に対するバッシングがありますが、ほとんどの人たちは誠実で精力的なんです。
自分や自分の省庁の利益を考えているなんてことはなく、やっぱり国のことをまじめに考えて実行しているんだという印象を強く持ちました。

特に文科省からこのプロジェクトの事務方のリーダーとして来ていただいた方に、強く影響を受けましたね。
その印象は「おーー、ここまで図々しいかー!」です(笑)。
図々しいと言っても悪い意味ではなく、とてもさわやかな潔さなんですね。
自然法則と法律と倫理に反しない限り何だってできる、という雰囲気なんです。
ネガティブなところが微塵もない。
いいものをつくろう、いいことをしていこうという情熱を感じました。

この世には2種類の人間がいると思います。
困難に出会ったとき、

 ・できない、無理だと最初に言ってしまう人 
 ・できる、やってみようと最初に言う人

です。
ぼくらサラリーマンは時々上司から無理難題(と思える)仕事を命令されることがあります。
その時、最初にどう言ってしまうかで結果が違ってきます。

できない、無理だと最初に言ってしまう人は、できない理由、無理である条件を考え始めてしまうのです。
つまり、ネガティブなことに時間と労力を使う。
アレコレ検討した結果を数日後に上司に報告するわけです。
でもたいてい上司は「そうか、わかった」とは言ってくれませんよね。
だってその仕事をやりたいんですから。
必ずや部下の報告の穴やアラを指摘してきます。

そしてまた部下はできない条件を探し始め、そうこうしているうちに時間だけが過ぎていきます。
上司も最後にはしびれを切らして「いいからやれ!」と厳命を下すことになる。
しかし時すでに遅く、その仕事を完成させるにはあまりにも時間が足らない状況になっています。
だからものすごい仕事密度を要求される割には成功確率も低くなっているのです。

それで失敗したら「ほら、早くからやっていればできたかもしれないのに」と言われます。
たとえ成功しても「ほらできたじゃないか。最初からやれると言えばいいのに」と言われます。
どっちにしろ悪い評価で、これじゃあ苦労の甲斐がありませんよ。
損な人生だと思います。

それに比べて、できる、やってみようと最初に言う人は、できる理由、できるための条件を考え始めます。
つまり、ポジティブなことに時間と労力を使えるのです。
同じ法令集を見たって、ネガティブな条件を探す場合と、ポジティブな条件を探す場合では視点が違いますから、そこから発見するものも違ってきます。
こうすればできる、この条件さえクリアできればできる、という情報を得ることができるのです。
その下準備の時間もたっぷりありますから、自ずと成功確率も上がってきます。
着手する時期が早ければ早いほど、成功確率が上がるのはものの道理です。

たとえ失敗したとしても「あれだけ準備をして時間をかけてもダメだったんだから、最初から無理な仕事だったのだ」と上司が思ってくれる可能性もかなりあります。
ほとんどの仕事に成功している人がたまに失敗しても、容認されることはままあることです。
「あいつがやってもダメだったんだから、誰がやってもだめだったろう」と。
ですから、失敗しても評価が下がることがないのです。

金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する』PHP\1500-から引用します。

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物事を押し進めようとする時、やりとげる前に「できないこと」をいろいろ想像していては前に進まないのである。
最後までやり遂げるから知識も増える。
私はやってみることをためらう学生にこう言う。

 「この問題が解ける方法があれば、それをやってくれ。 
 しかし、解く方法を君はわからない。私もわからない。  
 とするならば、ダメだと思われる方法をやってみたほうが賢明ではないか。 
 最後までやり切れば失敗のパターンがわかるはずだ」

と。
この方法では解けない。
解けないのはなぜか?ということがわかれば、解けなくさせている根本的な理由がすこしはわかる。
そうすれば、「なるほど、ここがキーなのだ」ということがわかってきて、その問題を正面から解決する方法が見えてくるのである。
つまり、困難点をエクスプリシット(陽に明示)することが大切なのである。
どんな問題でも難しい。何が難しいかわからないが、難しいということはわかっている。
まずやってみて、「なるほど、これは難しい」「これを難しくしているのはこれだ。
ここができないから難しいのだ」ということがわかることは、問題を解いたり、研究するうえでの大前提なのである。
また、困難に直面しているのは、自分のアプローチが問題の本質から外れていて、そこから派生した難しさに突きあたり、どんどんのめり込んでしまった結果であるというケースもある。
それも、実際にやってみなければわからない。
ぐたぐた思い悩んでも仕方ないことである。(61-62p)
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とにかくやってみること。
とにかく「できる」と言ってみること。
とにかく「やってみます」と言ってみること。

もしかして今日が御用納めの方が多いと思います。
今年もお世話になりました。
来年、ぼくも今年にも増して「さわやかな図々しさ」を身に着けていきたいと思っています。
え?いやだな~って??
あはははは。

2008年12月24日水曜日

楽器を習う効用

こんにちは

ぼくはギターなど楽器を少々たしなみます。
おかげで幼稚園でギター生演奏サンタなんかできました(^^;)。
ギターが弾けてよかったなーって思います。

楽器が弾けるといっても、フォークソングやロックをやっていたので、正式な教育、訓練は受けていません。
ヤマハの音楽教室にも通ったことがありますが、かなり我流です。
楽譜を読むのは遅いし、自分で作った曲を楽譜に書くのはほぼできません。

100歳現役医師、日野原先生はピアノが弾けます。
学生時代結核になり、療養生活を余儀なくされた。
学校にも行けず家にいるだけではつまらないので、ピアノを練習したのだそうです。
日野原先生は「楽譜の読み書きができ、楽器が弾けるということは、外国語をもう一つ習得できたのと同じ価値を、人生に与える」なんて言っています。

なので、我が子たちにも何か楽器を習わせたいと思っているのです。
松永暢史『女の子を伸ばす母親は、ここが違う!』扶桑社\1200-にこうありました。

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楽器演奏の習得に関するすべての学習のベースにあるのは”忍耐力”です。
ピアノやバイオリンと”忍耐力”にどんな関係が・・・と思った方は、おそらく楽器を弾いたことがないか、あるいは楽才があって苦もなく楽器が弾けるかのどちらかでしょう。
そんな楽才に恵まれないほとんどの人は、楽器がうまく弾けるようになるまでは、つらく苦しい道のりを歩まねばなりません。
初めてピアノなどの楽器を弾いている人を見たとき、多くの子どもは簡単に「自分もやってみたい!」と言い出すものです。
それは、いとも簡単に、楽しそうに楽器を弾き、その結果美しい音楽を奏でているからにほかなりません。
こんなに簡単そうなら、自分にもできるかもしれないという勘違いから、子どもは「自分もやりたい」と言うのです。
ところが美しい音楽を奏でるためには、相当な練習が必要だということは、いざ楽器を習い始めれば、子どもにだってすぐにわかります。
指は思うように動かないし、楽譜は読めなければならないし、バイオリンに至ってはまともな音さえ出すことができません。
これはなまなかなものではない、と悟ったとき、子どもは愕然とします。
でも、すでに高いお金を出して楽器を買ってしまった親は、簡単にやめさせてくれるはずもありません。
では、どうすればいいのか。
忍耐しかありません。
楽器が弾けるようになり、演奏が楽しめるようになるまでには、ひたすらつらい練習に耐え、なかなか上達しない自分に対するいらだちに耐え、教師に怒られるのに耐え・・・と、楽器を習うことは、忍耐の連続とも言えます。(137-139p)
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そして松永さんは、楽器を習うことを通じて得た忍耐力が、その後の子どもの人生に役立つと言っています。
勉強をする上でも、仕事をする上でも、よい家庭を築く上でも、忍耐こそ必須のものだからです。
世の中は自分の思い通りになるわけではありません。
最終的には思い通りにするために色々チャレンジするのですが、そこへ至るまでには地道で着実な時間と精神が必要で、忍耐力があるかないかで成否が決まると言ってもいいです。

一番は、自分でさえも自分の思うようにならない、と知ることだと思います。
やりたいことができないのは、周りの人や社会システムが悪いということより、圧倒的に自分の方がその「資格」がないからだということが多いのです。
学力が足らない、技能が不足している、信用がまだ十分じゃない、などなど。
よって、やりたいことができる状態まで自分を高める必要があります。
自分を高めるには、確かな方法で地道に着実にやっていかなくてはなりません。
それは忍耐の連続なんです。
忍耐ができず、自分を高めることができない人が、誰々が悪いからだ、とか、社会が悪いとか言うのだと思います。

楽器を習うと、自分さえも自分の思うようにならない、ということを思い知らされます。
ピアノなど楽器を弾くと、思うように自分の指が動かないのです。
思い通りに指が動くようにするためには、我慢強く何度も何度も繰り返し練習するしかないのです。
その結果、美しい演奏ができるようになるのです。
自分を克服できたからそれができたんだ、という経験を何度もできるわけです。
その経験が、安易に人のせいにするだけのくだらない人生に堕することを防ぐのだと思います。
それは素晴らしい「人生の刻印」となるはずなんです。

我が子はっちゃんもとっちゃんも音楽は好きなようです。
ぼくのギターに合わせて歌ったり踊ったりしています。
はっちゃんなど、めちゃくちゃだけど自分でギターをかき鳴らし自分で歌を作ったりで、さすがシンガーソングライターくずれの息子です!
おじいちゃんの家にはピアノがあって、たまに弾いて遊んでいます。
うまくチャンスをとらえて、「ピアノか何か習ってみる?」と誘ってみようと思っています。

2008年12月22日月曜日

試験を楽しもう!

こんにちは

同僚の女の子から「簿記3級合格しました!」というメールが。
おーーー、スバラシイ!
簿記は、彼女の今の仕事とは直接関係しないものだと思いますが、会計の仕組みが理解できると世の中の見通しもよくなるんです。
ぜひこの調子で2級、1級へと挑戦してほしいですね。それがやがては自分の仕事や生き方へと跳ね返ってくる。

ぼく自身資格マニア、勉強マニアですが、そもそも試験というものは本来「楽しいもの」だと考えています。
自分の有能さを確認したりアピールしたりできるチャンスですから。
逆に、自分の有能さを確認したりアピールするために試験を「利用する」と言った方がいいかもしれません。

子どもの頃から学校でたくさんの試験を課されます。
この試験をただただ受け身で受けていたのではいけません。
試験で悪い点数ばかりとっていたら、試験はツライものにしかなりません。
だから試験は「いい点数をとるため」に受験するのです。
つまり試験の日までにいい点数を取れるように自分を持っていくことが大事です。
積極的に試験を利用するんです。

時に悪い点数を取ることもあるかもしれません。
いつもじゃなく時にだったらそれほどへこみません。
むしろ、自分の弱点を教えてくれてありがとう、という気持ちになれます。
次への目標を与えてくれます。

日垣隆『父親のすすめ』文春新書\710-から引用します。

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仕事を仕事として成立させる二つの要素は「依頼」と「締め切り」です。(略)
仕事の前段階として宿題や試験がある、という事実をここでしっかり確認しておきましょう。
宿題には「締め切り」があり、試験は「一定範囲の課題をインプットして特定期日にアウトプットして評価を受ける」という、ほとんど「仕事」の一歩手前の内実をもっているのです。
学生時代の試験を莫迦にしてはいけない理由も、ここにあります。
試験突破力は、総じて仕事能力の基礎になるからです。(124p)
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そう、試験や受験はただ自分が試されるものじゃないんですよ。
誰かに試されていると思うから、緊張するしツライ。
試験も自分を高めるための一つの「仕組み」なんだと思うことが大事。
それは将来仕事に就いたときに必ず役に立つスキルとなっていくんです。

日垣さんはこうも言います。

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成功体験は、絶対的にあったほうがいいことだからです。
それは、小さな努力が報われる、という体験です。
この成功体験が積み重ねられてゆかないと、「だめな自分」という思い込みから脱することができません。
「だめでない自分」をイメージすることができず、したがって脱出法がまるでわからない。
小さな成功体験が積み重ねられないと、自分を含めた能力の数々は、すべて所与のものだという誤解から自由になることができません。
「あの子は頭が良い」から何かができるのだと思い込み、「自分は頭が悪い」から勉強もできないのだ、と本気で信じ始めてしまいます。
頭が良い悪いというのは、もちろん学校ごときの成績や点数とはストレートに比例しません。
周りを見渡してみれば、すぐに気づくでしょう。
頭の良さは一般に、「未知のものに対する判断の的確さと速さ」として表現されます。
既知を相手にする学校の勉強とは違う。
けれども、学校での勉強が必要ないかと言うと、天才でないかぎり、そんなことは絶対にありません。
未知のものに対する判断力を鍛えるには、既知のもので訓練するほかないからです。
学校での勉強、とりわけ定期試験や受験は、この点で重要な役割を担っています。
おおむね20代前半までは一人前として通用しないとされる近代社会のなかで、試験は、成功体験を着実に育む貴重な教育装置だからです。(163-164p)
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中学校や高校の定期テストなどは試験範囲が明確ですから、その部分をきっちり勉強すれば必ずいい点数をとれるものです。
努力をすれば必ず報われるのが、定期テストです。
こういった小さな努力と成功を積み重ねていく。
それが自信を生み出し、より困難なものへチャレンジしていく準備になっていく。
そういった努力と成功の積み重ねは、社会人になっても役立つんですよ。

もちろん社会人になってからでも、資格試験を活用したり、職場の昇進試験や日々の仕事を「依頼と締め切り」を意識してザクザクとこなしていくのもいい。
社会人になったって、自分で自分を鍛えるチャンスはたくさんあるのです。
もっと試験や受験を積極的に楽しむようにしたいですね。

2008年12月20日土曜日

有能・無能の分かれ目

こんにちは

職場の広報室の方からこんな連絡が。

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> お世話になっております。
> 理研の所外HPで現在、所内HPに掲載しているトリビアを
> ピックアップして掲載しています。
> 次回の掲載分ですが、「No111 これぞ機能美!横浜研NMR棟」を
> 掲載しようと思います(トリビア編集委員の方々の了承は得ています)。
> 掲載させていただいてもよろしいでしょうか。
> 掲載する際は多少編集させていただく予定です。
> ご検討ください。
> よろしくお願いします。
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もちろんokですよー。
所外向けのホームページに掲載されるものは、理研として世の中に広くアピールしたいものです。
そこにぼくの書いたものが掲載されるなんて、とても名誉なことです。
嬉しいですねー。

さて、ぼくもこれまで何人かの部下を持ちました。
その中には有能な奴もいましたし、無能な奴もいました。
なぜ有能なのか、なぜ無能なのか、その分かれ目は何なのか考えました。
実を言うと、有能な部下でも無能な部下でも、ほぼ同じ職位、年齢であれば、やっている仕事はほぼ同じです。
仕事のレベルも同じだし、仕事量もそんなに変わらない。
特にルーチンの仕事は、ほとんど変わりはないものです。

決して無能な奴は、仕事をしないというわけではないのです。
ちゃんと決められた量の仕事を、決められた品質でこなしている。
完成品だけ見たら、有能な部下がやった仕事なのか、無能な部下がやった仕事なのか、どっちも見分けがつなかいはずです。
だから、能力自体の差はそれほどないんだと思います。

では、どこが違うのか。
有能な奴は、期日通り、あるいは期日よりちょっと前に仕事を終わらせて提出してくる。
無能な奴は、期日に微妙に遅れる。
しかも黙っている。催促するまで黙っていたりするのです。

また、有能な奴は、仕事の途中で不明点があれば質問しに来る。
無能な奴は期日が来ても悩んでいる。
あるいは間違ったやり方でやり続けてしまう。

こういうことが続けば、やっぱり有能な奴、無能な奴というレッテルが貼られてしまう。
要するに、アピールの違いなんじゃないかって思うのです。
同じ労力を使っていても、有能な奴は「ほら、オレって有能でしょ!」とでも言いたげな仕事の仕方をする。
アピールの仕方が上手い。
無能な奴は、せっかく同じだけ労力を使っているのに「オレって無能です」とでも言うようなやり方をしてしまう。
ちっともアピールしないんです。

ということが分かってきたので、部下にはそういう自分のアピールの仕方も教えるようにしています。
だって、上手くアピールして、有能と思われたり、信頼をされたりした方が、仕事がやりやすくなりますから。
それに気分もいいです。
気分よく仕事ができれば、絶対に今より向上すると思いますしね。

もちろんぼくも、ぼくの上司の部下ですから、いやらしくならない程度にアピールするよう心がけていたりするのです(いやらしいかも??)。

ストレスをやっつけろ!

こんにちは

ストレスを感じたことがありますか。
部長が嫌なヤツで、とか、女房がうるさくて、とか、子どもの受験が気になって、とか。
ストレスにはいろいろあります。
ストレスによって、体調が悪くなったり、病気になっちゃったり。

でも、多くの人は「ストレス」を誤解しているんですよ。
嫌な部長、うるさい女房、出来の悪い子どもがストレスなのではありません。
確かにこれらはストレスの原因ではある。
ところが、嫌な部長の部下でも、うるさい女房の亭主でも、出来の悪い子どもの親でも、ストレスを感じないでぴんぴんしている人もいます。
この違いは何なのでしょうか。

ストレスの原因は「ストレッサー」と呼びます。
それに対して「ストレス」は、その人自身の<ひずみ・ゆがみ>なのです。
元々ストレスという言葉は、物理学からのアナロジーでした。
ある物体に一定の力を加えます。
その時、物体の性質によってひずみ方、ゆがみ方は違います。
スポンジのように柔らかい物体だと、大きく変形します。
鉄のような固い物体ならほとんど変形しない。
ところが鉄も内部の状態を計測してみると、けっこうひずんでいたりします。

同じように人間も、同じ強さのストレッサーを受けても、人によってストレスの受け方が違うのです。
それはストレッサーの強さよりも、その人自身の体や心の違いによるものだと言っていい。

文春PR誌『本の話』'05.09横尾忠則「やまいの神様」にこんなことが書いてありました。

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最近は原因不明の病気に悩まされている人が多い。
ぼくも原因不明の熱が何ヶ月も続くことがある。
結果があるわけだから原因はあるに決まっているはずだ。
それなのに病名がない。
わからん病気はストレスといって、片付けられてしまう。
ストレスだって原因がないということはない。
ストレスを作る原因はたいていが自分の想いに反した思考や行動を起こしている場合だ。
自分が思っている「自分」が本当の自分だと思っているところに、まず問題がありそうだ。
ストレスを作っている要因はだいたい自我というやっかいな存在である。
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そうなんです。
ストレスを感じる時というのは、たいていが「自分の思うとおりにならないとき」なんです。
仕事でがんばっていてもっと認めてもらいたいと思っているのに、部長からがみがみ言われるから、ストレスを感じる。
家庭でリラックスしたいのに、女房にぐちぐち言われるから、ストレスを感じる。
息子に一流大学に合格して欲しいのに、遊んでばっかりいてちっとも勉強しないので、ストレスを感じる。

つまり、自分の欲するところと周りの状況が違うわけです。
しかしそれは、周りの状況の方が悪いのでしょうか。
もしかしたら、部長が求める仕事を自分がしていないのかもしれません。
もしかしたら、女房がして欲しいことを自分はちっともしていないのかもしれません。
もしかしたら、子どもは親とは違う夢を持っているのかもしれません。

つまり、悪いのは周りの方ではなくて、ゆがんでいるのは自分なのかもしれないと考えてみる。
それなのに勝手にストレスを感じていたように考えてみるんです。
すると、ゆがんでいたのは自分の方だったと分かるかもしれません。
自分のゆがみだと気づいてしまえれば、ストレスもすーっと軽くなってしまう。

確かに周りの方が悪いこともありますよ。
その場合は闘わなくちゃならないときもある。
そもそもストレスは、本当に闘わなくちゃならないときに、精神と肉体を緊張状態に持っていくために自然に備わった機能なんです。そ
れをのべつ幕なし必要もないことにも感じちゃうから、ストレスにやられちゃうんです。
でも本当に闘わなくちゃならない時なんて、めったにないんですよね。
大事なストレス、本当に闘わなくちゃならないときのために温存しておいた方がいいんです。

ところで、ストレスに打ち勝つためにどんな訓練をすればいいか。
ぼくはやっぱり「勉強する」ことだと思っているし、実践しています。
勉強すると、何が正しくて何が間違っているのかがよく「みえる」ようになるんです。
自分が正しいのか悪いのかどうかも判断できる理性が身に付く。
理不尽な目にあっても、それが理不尽だと分かるだけでもストレスは軽くなります。
自分が間違っていたら、変に我を張らずに素直に直すことができる。
感情に振り回されることがなくなるんですよ。
そうすると、ストレスを適切にコントロールできるようになり、穏やかに生きられます。

まー、ぼくもまだ道半ばなんで、えらそうなことは言えないんですけどねー。

2008年12月17日水曜日

忙しいと言うべからず

こんにちは

師走です。
忙しいですか?

先日、社員食堂で他部署の人から声をかけられました。
「○○さんに△△について調べてくれるように頼んでいるんだけど、全然返事をくれないんだ」
調べて欲しいことの内容を聞いてみたら、ぼくでも調べられそうなことでした。
いえ、ぼくの専門に大きく関わる事項でした。
「それならぼくが調べておくよ」と返事をしました。
手帳を見て調査に必要な時間がとれる日を見つけ、期日の約束をしました。

当然約束通り期日に回答。
そして「仕事を頼むときは忙しい人に頼むといいよ」と言いました。
その人は「だって関口君はいつ電話してもつかまらないからさ」だって。
確かにぼくはいつもあっちこっちうろうろしていて、電話じゃめったにつかまらないのは事実でだけどね。。。

外山滋比古『子どもを育てる絶対勉強力』幻冬社文庫\495-にこんなことが書いてありました。

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ヨーロッパに、”忙しい人ほどヒマがある”ということわざがある。
忙しい人は集中して手早く仕事をしてしまうから、そのあとに、自由な時間ができる。
それにひきかえ、ありあまるほどの時間をもっている人は、ちょっとしたことでもダラダラしている。
いつまでも終わらないから、かえってヒマがなくなり忙しい思いをする。
そういう逆説を述べたものである。
『パーキンソンの法則』という有名な本に、こんなエピソードが出てくる。
有閑、富裕なあるおばあさんが、姪のところにはがきを書こうと思い立つ。
姪は避暑先にいる。
アドレスをさがして20分。
文面を考えて45分。
書き上げた手紙を投函しにポストまで行くのに、洋傘をもっていくかどうかを考えて20分。
しめて1時間半近くかかる。
時間がいくらでもあるからで、忙しい人ならすべてが3分で終わる。
時間は必要だが、ありすぎると、よろしくない。
すくなくとも、あると思うのがいけないのである。(25p)
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確かにぼくの周りの人たちを見ても、それほどの仕事量を抱えているわけじゃない人ほど「忙しい、忙しい」と言っている。
残業も多いように思います。
それはただ単に、スタートが遅かったり、段取りが悪かったり、集中力が悪かったりして、締め切りぎりぎりになっても必要な仕事が終わらないだけ。
そんな仕事がいくつも重なってしまうので、忙しさが累積するという悪循環に陥ってしまっているのです。
忙しいと言っている割に、アウトプットが少ないのが特徴ですよね。
まー、アウトプットが少ないから、せいぜい「忙しい、忙しい」と言いながら残業してがんばっている姿をアピールしているつもりなのかも。
見る人が見れば、ばかばかしいことをしているって分かります。

それに対して、大量の仕事をバリバリこなしている人の方が、暇そうに見えたりします。
やはり、集中力と段取り力なんでしょう。
段取りよく集中してやれば、時間を合理的、有効的に使えますから、余裕が生まれます。
余裕ができれば、プライベートなことにその時間を振り向けることもできますし、新たな仕事にもチャレンジすることができます。
そうすればさらに能力が上がって余裕が生まれる、という好循環となるというわけです。
きちんとアウトプットを出しているので、定時退勤だって堂々とできるのです。
「忙しい」なんて言う必要がない。

時間は有限な「資源」なんです。
無軌道、無節制に浪費してはいけないものなのです。
時間にも省エネが必要なんです。
外山さんの言うように、時間はあると思ってはいけない。
ないと思っておく方がいいのです。

よく「この仕事が終わるまでがんばろう」と言って仕事をしている人がいます。
これはダメです。
時間を無制限に使ってしまう恐れが強い。
時間というのはあればあるだけ使ってしまうものだからです。
まして仕事という大義名分があれがなおさらです。
残業して仕事をしてもいいと思えば、必ず残業してしまうものなのです。
段取りもなく仕事に着手し、だらだらとやりがちなもの。
残業代も稼げるし、なんてせこい考えもあったりしてね。それでは時間という資源をどんどんと浪費してしまいます。

だから「何時までに終わらせよう」と言って仕事をするのがよいのです。
終える時刻を決め、そのための段取りを整える。
そうすると、与えられた時間でできうる品質も決まります。
完成品のイメージも明確になっていきます。

2008年12月16日火曜日

ともかくやっつけろ!

こんにちは

どこの家庭でもありがちかとは思いますが、我が家の冷蔵庫に結構死蔵品が貯えられていたりします。
ぼくが冷蔵庫を開けて「こんなのあるよ。今晩野菜炒めか何かにしちゃって、やっつけちゃおうよ」と言うと、妻はムッとします。
「高級な食材を野菜炒めなどという低級な料理にするとは何事か。それに食べ物に対して”やっつける”なんて言うとは不届き者じゃ!」
でも、腐って捨てられちゃうよりマシでは。。。

仕事でもそうですね。
雑件が溜まってくるとイライラしてきます。
じっくり取り組みたい仕事があるんだけどそれをやる時間が取れなくて手つかずになっていることもあります。
とってもイライラします。

じっくり取り組みたい仕事って、言ってみれば高級食材です。
本来なら高級料理に仕立て上げたいもの。
でも、手間暇かけている時間がない。
腐らすのももったいない。
それなら野菜炒めでもいいや、やっつけちゃおう!ぼくはそうやっています。

じっくり取り組みたい仕事であっても、忙しくてじっくりできない時だってあるのが当然です。
そんなときは、今回はあきらめてどうにかこうにか食えるものにすればいいやって。
まあある意味妥協なんですが、やってみると意外とスッキリします。

松永真理『シゴトのココロ』小学館\1365-にこんなことが書いてありました。

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朝、やることリストを書きだすときが、工夫のしどころとなる。
打ち合わせの場所を決める。
地図をファックスする。
銀行に振り込みに行く。
こういう事務的にしっかりやることと、企画書を書く、レポートを提出するといった中身を問われるものとを区別し、階層を分けて書きだすようにする。
それぞれにかかる時間を見積もることで、やるべきことの分類ができ、気分は少しすっきりしてくる。
銀行での振り込みと、将来のキャリア設計を同じ項目に書きだすから、ごちゃごちゃ混乱してしまうのだ。
自分の得意、不得意で分類するという手もある。
得意なことはさっさと片付けられるが、苦手なことはつい先延ばしにして、それがストレスの素になることも多い。
そういう場合は、気合いを入れる時間を決めて、よーし、ここで片づけるぞ、と早く終えることの一点に集中するのである。
そして、苦手なことはすべて片づかなくても、ひとつでも片づいたらよしとする。
この手のことは誰も誉めてはくれないのだから、せめて、自分くらいは高らかに言ってあげよう。
「よくやった。やったじゃない!」
多少、大袈裟に自分を肯定してあげないと、自分がこれほどまでに心のなかで葛藤しながらやっていることなんて、他人にはわかりっこないのである。
やることリストの項目をひとつ終えたら、赤い太めのサインペンで線を引いていく。
項目のなかでやり残したことがあったとしても、半分の線を引くことで、少しでも多くの達成感を味わうようにする。
そうでもしないと、やるべきことは無限に出てきて、やり残したことばかりに気をもんで過ごすことになるからだ。(15-17p)
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ともかく朝出勤したら手帳を見て、今日やることをリストアップする。
紙に書きだしてみるのが大事ですね。
そしてイライラの元をはっきりさせ、一つずつつぶしていく。
一つ終わったら、終わったことがはっきり分かるように、赤の太マジックでバツをつける。
まさに「やっつける」んです!

年末、師走です。
ザクザクとやっつけていきましょー。
そして、気分すっきりのお正月を迎えましょう!

好きなこととことん

こんにちは

先日の出張授業では、科学者(研究者や技術者)になるためには何をどう勉強していったらいいか、なんて話もしました。
ポイントは、 

好きなことはとことん 
嫌いなことはほどほどに

です。
ホントは、嫌いなことはやらなくてもいい、と言いたかったんですが、さすがに学校で話すことなので、「お父さんお母さんや先生に叱られない程度」なんて言って、お茶を濁しちゃいましたけど。

ノーベル物理学賞の益川先生のエピソードなんかも交えながら、好きな勉強、勉強に限らず好きなことは、学年の枠にこだわらずにどんどんやっていくのがいいと話しました。
小学生だって、好きなら中学生レベル、高校生レベルのことだって理解できるんです。理解できるようになっちゃうんです。
好きなことに関しては、テストで100点とって満足するんじゃなく、200点、500点、1000点・・・とどんどん上を目指して、担任の先生なんか超えちゃえ!って話しました。
そんな話をしたら、生徒さん、特に男の子の目がランランと輝いていましたね。

子どもに限らず大人でも、弱点補強と称して嫌いなことを無理にやったりするでしょ。
それは脳と心にダメージを与えますよ。
そもそも効率が悪い。
嫌いなことを無理してやると、好きなことをやる時間と余裕までもがなくなってしまうのです。
その結果、好きなことさえなくなってしまうんです。

好きなことをやれば楽しいし、効率もよくなります。
心と時間に余裕も生まれます。
すると、どうしても必要なら、嫌いなことにもちょっとは取り組んでみようという気も起こります。
だから好きなことをやっていった方が、反って嫌いなこともなくなっていくんです。
ぼくの経験からもそう言えますよ。

押井守『凡人として生きるということ』幻冬舎新書\760-から引用します。

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自由とは状態のことではない、と述べたが、自由とは常に「動機」とセットになっている言葉なのである。ある人間が何かをしたいと望む。
それがどのくらい自在にできるかどうかが、自由と不自由の分かれ目なのである。
何もしたくない人間や社会とのつながりを放棄した人間に、そもそも自由はない。(57p)
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好きなことをとことんやることは、自由への道なんですね。
やりたいことがいつも心の中にある。
そしてそれをやれる条件を整えていく。
その過程こそが、自由なんです。

やりたいことをやるためには、社会とのつながりも重要です。
自由とは自分勝手とは違います。
好きなことをやることと好き勝手は違います。
家族、周りの人、会社、社会が認めてくれるから、好きなこともできるわけです。

好きなことができないからと引きこもってしまうのは、実は好きなことができないのではなく、好き勝手ができないだけなんです。
よく「自由をはき違えるな」と言われるけど、それはそういう意味なんだと思います。

好きなことをとことんやるために、それを社会が認めてくれるためにはどうすればいいのか。
嫌いなこと、嫌なこともほどほどにやることも必要かもしれない。
それより、自分の好きなことが周りの人たちもハッピーにしていくなら最高です。
そこまで考えて実践してこそ、自由を得ることができるんだとぼくは思います。

2008年12月10日水曜日

スペシャリストになろう!

こんにちは

ぼくは養老さんが好きです。岸田秀さんも好き。
最近は内田樹さんも好きですね。
このお三方はご自分の専門にかかわらず、どんなジャンルのことでも分析ができる。
それも切れ味鋭い。

なんでそんなことができるのか、不思議だったし真似したかった。
養老孟司/牧野圭一『マンガをもっと読みなさい』晃洋書房\1500-を読んだら、その秘密が書いてあったんです。

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ところで、日本の大学の学科分類の最大の欠点は、対象で学科を切ることです。
法律を扱う学問と経済を扱う学問とは違うというんですよ。でも、違わないでしょう。
料理を習うときに、和食、中華、フランス料理というように分けて、皆さん納得している。
僕はそういうふうには分けない。
包丁の使い方、材料の選び方というように、方法で分けます。
包丁の使い方をちゃんと心得れば、中華だろうが和食だろうが使えるでしょう。
それをやらないから日本の学校は役に立たないんです。
ですから、法律について一応知ったような顔をしているけれど、応用はまったくきかないんです。
解剖というと、皆さんは人間をばらしているんだ、人間についてなにか知るんだと思っているでしょうが、僕はまったくそう思っていないんです。
解剖の方法論はなんにでも使える。
よく比喩的に使うじゃないですか、社会を解剖するとか。
僕はあちことに余計な口を出すようですが、根本は解剖で覚えた方法論を使っているだけです。
まさにメスの使い方です。(162-164p)
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なるほど。
ひとつでも方法論を徹底的に身に着ければ、それは他のことにも応用可能となる。
一つの方法論をあらゆることに適用してみることによって、さらに切れ味がよくなってくるんですね。
養老さんは解剖学を極め、岸田さんはフロイトを、内田さんはレヴィナスを極めた。
だからなんにでも鋭い切れ味で批評できるんですね。
それもわかりやすい言葉で。

昔から「一芸に秀でる」って言いますよね。
どんな分野でも一つのことに秀でるまでやれば、人格も磨かれるってことでしょう。
人格というのは狭い世界だけじゃなく、広い世界で通用する、尊敬されるものです。
専門性も極めれば、その専門分野ではない人からもすごさが分かるんです。
それは、専門以外のことも理解し説明する能力が備わっているからです。
だから尊敬もされ、人格も優れていると誰からも評価されるわけです。

専門バカという言葉もありますが、まだまだ極め方が中途半端なんでしょう。
専門用語、カタカナ用語を得意そうに使って、ちっとも要領の得ない話を得々とする人もいますが、そういう人は未だ専門バカにとどまっている人と言えると思います。
仲間内なら通じるのかもしれませんが、端から見るとバカに見えたりもします。
それは、たいして専門性もないことが、素人目には分かってしまうからです。
むしろ、素人の方がわかっちゃうんですよね、専門バカかどうか。

ぼくは若い頃(40歳前)までは、自分の専門に没頭すべきだと思っています。
スペシャリスト目指して、意図的に経験を積み、それを支えるだけの知識を学ぶ。
ぼくもそうしてきたつもりです。
そうすると、周りがよく見えるようになるんですね。
専門外のことも理解できるだけの「備え」が、自分の中に存在するようになる。

そうすると、たとえ諸事情で専門外のことをせざるを得ない状況になっても、あたふたしないですむ。
難なくこなせるからです。
ちょっと頑張れば、できちゃうのです。
その意味で、ゼネラリストになっているのです。

よく配置転換で自分の意に沿わない仕事をさせられて、無能化してしまうおじさんとかいます。
そういう人は、専門性が身に付いてなかったってことだと思うのです。
専門性があれば、どんなことだってまずまずこなしていけるはず。
そうでないなら、スペシャリストでもなかったということです。

養老さんも岸田さんも内田さんも、世に出たのは50歳過ぎ。
ぼくの50代も楽しみですぞー。
あはははは。

2008年12月8日月曜日

愛と努力と忍耐と

こんにちは

先週末、教え子の結婚式に呼ばれて家族で北海道に行ってきました。
式場は千歳空港から近いホテルニドム。
朝からの雪で雪化粧されていて、式場内からも景色が見られるすてきな会場。
北海道の結婚式にはめずらしく、出席者数十人のアットホームな披露宴でした。
披露宴でぼくは、乾杯のスピーチをさせてもらいました。
その内容はこんなの。

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ぼく「和朝君、ともかさん、ご結婚おめでとう!
   今日初めてともかさんにお会いしましたが、和朝君、いい嫁さんもらったなー。
   よかったよかった。
   ここで、お互いどんなところが好きになったのか、インタビューしてみましょう。
   ともかさん、和朝君のどこが好きですか?」

ともかさん「う~ん、メガネがすてきです~」

ぼく「なるほどー。
   じゃ、和朝君は?」

和朝君「やっぱり、笑顔ですねー!」

ぼく「スバラシイ!
   お二人とも、愛は確実にあると思いました!
   でも、愛だけじゃいい家庭は作れません。
   あと何が必要か、うちの奥さんに聞いてみましょう」

晶ちゃん「えーと、努力と忍耐が必要ですねー(笑)」

ぼく「なるほど!
   愛と努力と忍耐があってこそ、いい家庭が築けるんですね!
   それでは、お二人とここにいらっしゃるみなさんの愛と努力と忍耐のために、
   カンパーイ!!」
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ね、おもしろいスピーチでしょ。
席に戻ると、晶ちゃんの隣に座っていた教え子の朝和君がこう言いました。
「先生のスピーチ、うちのヨメさんにも聞かせてやりたかったよ。努力と忍耐が足りないからなー」
すかさず晶ちゃんが反撃してました。

「朝和君、それは違うよ。
 努力と忍耐は他人に強要するもんじゃない。
 自分がやるもんだよ。
 それができるってことが愛なんだよ」

さすが我が嫁さん、スバラシイですねー。
そうなんです。
自らが相手のために、家族のために、どれだけ努力と忍耐ができるか。
それが愛情を表すバロメーターなんですよ。
たとえ夫から、女房からであっても、他人から強要される努力と忍耐は「奴隷扱い」に堕します。

夫婦として、家族として最適なパフォーマンスを得るためにはどうすればいいか。
それぞれが自分の思うとおり、やりたいようにしていたら、全体のパフォーマンスは悪くなり、反って居心地の悪い家庭になってしまいます。
お互い譲り合うところは譲り、我慢するところは我慢する必要もある。
そうすると逆にハッピーになれるんだってことです。

それができずに自分を主張するだけになったとき、愛は終わるんです。
誰が言ったか忘れちゃいましたが、その意味で「愛は妥協」でもある。
妥協できなくなったとしたら、愛もなくなったという証拠なんです。

披露宴が終わったあと、苫小牧に住む別の教え子の家に寄りました。
まだ子どもが小さくて式には出られなかったんです。
最近、家を建てたというので見せてもらったんです。
式場まで亭主に迎えに来てもらいました。

この亭主が若いのによくできた亭主で、とても子煩悩。
3人の子どもの面倒をよく見てくれていました。
教え子も幸せそうでした。
教え子がハッピーであることを見るってことも、教師冥利に尽きますね。

宿に帰って、晶ちゃんにこう言いました。
「ぼくの教え子たちって離婚率低いよね。やっぱり離婚ってのも知性に関係してるんじゃないかな」
すかさず晶ちゃんに反撃されました。
「育ちゃん(ぼくの妹)がバツイチだって忘れてない?」
ありゃりゃ~~~~~。

2008年12月4日木曜日

記憶力を鍛えよ!

こんにちは

ぼくの仕事のメインは、新しい研究施設や実験施設を造ることです。その施設ごとにだいたい1年から3年のプロジェクトとなります。プロジェクトごとに違う人たちとタッグを組んで仕事を進めます。違った会社、違った経験を持つ人たちです。その人たちとぼくは、1年から3年つきあうことになるわけです。

まもなくX線自由電子レーザー施設の建物が完成します。電気設備を作ってもらった若い(と言っても中堅かな)担当者とも3年近いつきあいになります。ようやくプロらしい仕事をしてくれるようになりました。それはぼくにとって嬉しいことです。

ぼくは「仕事の半分は教育である」と考えています。同様なことが斎藤孝さんの本にも書いてありました。仕事をする中で、誰かを教えることもあるでしょうし、誰かから自分が学ぶことも必要。ぼく自身、いまの仕事を始めたばかりの頃は年長の人たちとの仕事でしたから、学べることは存分に学んできました。いまはもう、メンバーの中ではぼくの方が年齢が高くなることが多いので、せっかくある期間一緒に仕事をするのだから、ぼくの知識と経験を若い人たちに伝えていきたいと思っています。もちろん、若い人たちから学ぶことも忘れずに。

仕事は雑多な要素の組み合わせですが、その中に必ず教育はあるべきだと思っています。教育という視点のない人の仕事は、面白いものになりません。仕事における教育とは何かを、一言でいうと

 仕事は積み上げるものである

ということです。今までの経験や知識を総動員して、現在の仕事に生かすこと。「ああ、これはあの時のあれと同じ考えですね」と相手が言ってくれると、積み上がってるなーって思います。こういうときは、忙しい時期でも元気が出ます。逆にぼくの方が「おいおい、あの時のあれと同じにやってくれればいいんだよ」とケチをつけなくちゃならないと、積み上がった気がしなくてがっかりします。疲れがドッと出ちゃいます。

さて、では仕事を積み上げるためにはどうすればいいか。ぼくの尊敬する国語教師、野口芳宏さんは

 経験は意図的に積まねばならない

と言います。つまり、ただのんべんだらりと時間を過ごしたのでは、本当の経験にはならないのです。技術者の実力を示す公式があります。

 実力=知識×(経験)^2

もちろんこの式の経験は、意図的な経験のことです。意図的な経験は、実力に二乗で効いてくるわけです。知識が0というのも困りものですが、意図的な経験は知識も増強してくれます。
知識に裏打ちされていない経験は、やはり脆弱なものでしかないからです。同じく、経験に裏打ちされた知識は、強力なものになります。

経験を意図的に積むためには何をすればいいでしょうか。それは「反省する」ことだと思います。失敗したらその原因をとことん考え、次に生かす。成功してもその原因を分析し、自分の技になるまで高める。

反省するためには、失敗したときでも成功したときでも、その経緯、個々の要素をこと細かく記憶しておく必要がある。物事を厳しく視てそれを脳にインプットしていく。インプットされた記憶と結果を照合させることなしに、分析はできません。そしてその分析結果を元にして、次に経験することをデザインするんです。その意味で、意図的な経験とは人為的なものなんだと思うのです。待っているだけじゃダメなんです。それが、経験を意図的に積む方法なんです。

さて、このコラムでぼくの一番言いたいこと。経験を意図的に積み、仕事を積み上げていっていい仕事をするためには、

 記憶力を鍛えておけ

です。いい仕事をする人はすべからく記憶力が抜群です。これは間違いないです。ビルゲイツの記憶力のすごさは有名です。ぼくも仕事でたまに高級官僚の人と打ち合わせる機会がありますが、その記憶力は尊敬に値します。彼らはその記憶力を活用してバリバリ仕事を進めているわけです。

最近の学校教育の風潮では、記憶力は軽視されているように思います。暗記して何になる、暗記しても役に立たない。確かに学校で習うことを暗記しただけじゃ、役に立ちません。暗記したものを応用することができないと意味がない。でも、応用は学校で教育しづらい、不可能なものです。それはやっぱり社会に出て、現実に仕事をしてみないと磨かれない能力です。だから、学校ではその前段となる部分を鍛えているのだ、と考えるといい。

入試でも暗記問題が出題されます。青色LEDの発明者中村修二さんは「入試はちょーウルトラクイズだ」なんて言っています。でも中村さんにしても、あの膨大な著作を次々と出版しているのを読めば、ものすごい記憶力の持ち主だと分かります。
日亜であったことを事細かに記憶しているから、ねちねちとあれだけのものが書き続けられる。もちろん、青色LEDを発明するのだって中村さんの全くの独創ではなく、過去のいろいろな研究者たちの研究結果の上に成し遂げられたものでしょう。また、毎日の実験で失敗したこと、成功したことを反省して、次の実験をデザインする。つまり、ちゃんと必要なものは記憶して、その上に自分の研究を積み上げることができたから、青色LEDを発明することができたんだと思います。
それはきっと、大学入試のためのクイズでも鍛えられたんだと思うのです。

入試で記憶力が試されるのはなぜか。記憶力に長けた学生を入学させたい、記憶する回路を脳に持った学生を入学させたい、という趣旨で暗記問題が出題されるのだと思うのです。記憶力は学問を積み上げていくのに必要な能力と認めていたのだと思います。それが、暗記学習の<立法事実>だったのだと、ぼくは思うのです。

学生諸君、暗記をバカにせず、記憶力を鍛えておきなさい!

関口

2008年12月3日水曜日

天職を見つけよう

こんにちは
今年ノーベル物理学賞をとった益川先生、なかなかの変人です。
益川先生は常々奥さんにこう言っているそうです。

「ぼくが交通事故に遭ったとしたら、運転手を責めてはいけない。
 考え事しながら歩いているぼくが悪い。」

おもしろいですねー。
そのくらいいつも物理のことを考え続けているんですね。

ぼくも先日、新宿の街を歩いているとき、電柱にぶつかってしまいました。
人通りの多い時間だったので、周りの人にくすくす笑われちゃいました。
なぜ電柱にぶつかったかというと、上を向いて歩いていたからです。

ぼくの仕事は電気設備技術者です。
電気設備は上の方に設置されていることが多いわけです。電線とか照明器具とか。
そういうものに興味があるもんだから、どうしても上を見る。
見るだけじゃなく、見たものを元にあれこれ考えたりするわけです。
それも歩きながら。。。
だから、電柱にぶつかってしまったというわけです。

横田濱夫『そんな会社、辞めてしまえ!』講談社+α文庫\680-にこんな話が書いてありました。

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職業病は夢の代償?
たまたま物書きという職業は、代償が腰にくるけれど、他の職業だって、みんなそれぞれ犠牲を払っている。
あしたのジョーを夢見た若者を待っている職業病と言えば、網膜剥離だ。
目の上を切って出血するのも痛いけど、それにもまして網膜剥離は、目が見えなくなるという一生のダメージを背負ってしまう。
その危険を冒してまでも、ボクサーがリングの上で殴り合うのは、本人にとって「ボクシングが好きだから」だろう。
どんな世界でも、リスクを負わなかったら、富も名声も掴めない。
ボクサーの場合、たまたまそのリスクが目にある、ということだ。
オペラ歌手にも、やっぱり職業病はある。
常にでかい声で、声帯をめいっぱい共鳴させて歌うことにより、過剰な刺激が脳に伝わる。
特に高音域帯を歌う、女性ならソプラノ、男声ならテノールの場合はそうだ。
するとしだいに、刺激で脳味噌の組織がやられてしまう。
実際、音楽業界には、「ソプラノXX」とか「テノールXX」なる言葉さえあるそうな。
その危険をわかっていてなお、オペラ歌手たちが大声で歌うのをやめようとしないのは、それが自分の天職と信じているからだ。
これってほんと、すごいことだと思う。
自分の脳味噌の破壊もいとわないで、好きな道に邁進するんだから・・・。(35-36p)
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オペラ歌手の話はホントカナーって眉に唾着けてしまいますが、天職として仕事を楽しんでいる人は、どうしても犠牲になることもあるんでしょうね。
犠牲になることがわかっていてもやめられないんです。
そのくらいにならなくちゃ、天職とは言えないのかもしれません。
ぼくも電柱にぶつかって周りの人から笑われるくらいは、電気屋として仕方ないということでしょう。
なんちゃって!

仕事が天職化してくると、だんだん仕事時間とプライベート時間との区別がつかなくなってきます。
公私混同状態になっちゃう。
仕事中でも遊んでいるように興味の赴くまま調べたり、計算したり。
遊びに行っているときでも仕事に関係する面白いものを見つけると、そっちに目が釘付け。
飯食っているときでも方程式解いていたりして。
そうして嫁さんに叱られたりするのも、犠牲のひとつでしょうか。
わははははは。

2008年12月2日火曜日

感謝は実力の証

こんにちは

以前、ぼくの所属していた部署であったことです。
他の係のある若い(中年?)同僚が、仕事をかかえて滞っている。
このままでは他の部署にも迷惑かけそう。
ちょっと余裕があったので、ぼくが手伝ってやることにしました。
「それ、ぼくがやっつけてやるよ」
書類一式とデータファイルを受け取って、ざくざくやり始めました。

ちょっと休憩しようと、お茶を入れに行きました。
そいつの机の脇を通ったんです。
え?ネットサーフィンしている??

ま、いいか、と気を取り直して、仕事継続。
小一時間で仕上げて、「はい、できたよ」と彼に渡しました。
すると「あ、どうも」という返事。
ちょっとカチンと来ました。
「どうも、じゃないでしょ。ありがとうございました、でしょ」年下だからきちんと礼儀も教えてやらなくちゃ、なーんて思ったのが間違いでした。

「なんでお礼を言わなくちゃいけないんですか」
「こっちから頼んだわけじゃないですよ」
「今まで私もこの仕事をずっとしてきましたが、誰からもお礼なんか言われたことはありません」
「もうやってもらわなくて結構です!!」

さてさて、実力のある人は「ありがとう」と言われる人、実力のない人は「ありがとう」と言う人、というのが常識かと思ったら、違いますね。
実力のある人ほど「ありがとう」と言うし、実力のない人ほど言わない。
これは一つの人間の法則のようです。

実力のない人は、らかじめ誰かに手伝ってもらったり助けてもらうことを予定しているんです。
だから、手伝ってもらって当たり前、助けてもらって当たり前という意識があるようです。
なので「ありがとう」と言わないことになる。
何らかの事情で手伝ってもらえない、助けてもらえない場合、その人を逆恨みしたりするんです。
なんで手伝ってくれないのよーーー!!ってね。

実力のある人は違います。
もともとどんな仕事でも一人でこなせるだけの力がある。
でもできれば自分の専門性を生かした仕事、自分しかできない仕事に集中したいわけです。
自分じゃなくてもできる部分を他の人が手伝ってくれたら、とても嬉しいわけです。
人は自分しかできないことをバリバリやるときほど、幸せを感じることはないんですから。
だから誰かが手伝ってくれたとき、素直に「ありがとう」と言えるのです。

生産性、効率性も全く違ってきます。
実力のない人は誰かに手伝ってもらっているとき、自分は仕事をしていない場合が多い。
できあがるのをただただ待っているだけんですね。
ひどい人になると、手伝ってもらっておいて「遅いよ!」なんて文句言ったりする。このとき、仕事をしているのは手伝っている人だけでご本人は何もしていないので、本来2人分の労働力は半減しています。

実力のある人は、手伝ってもらっているときでも、自分の専門性を生かした仕事をざくざくとこなしている。
もちろん手伝っている人も一生懸命仕事をしているし、手伝う人も自分の専門性を生かした部分を手伝うわけです。
それぞれが自分の専門性を生かした仕事をすれば、2人分以上の仕事ができ、生産性、効率性も向上します。
これが本来の「分業」ってものだと思います。

辞書を調べていたら、おもしろい発見をしました。
「感謝」の反対語は「怠惰」なんですね。
つまり、ありがとうをたくさん言えない、言わない人は怠惰な人なんです。
逆に、ありがとうをたくさん言える人は、勤勉で感謝に満ちた人ってことです。
ぼくも感謝に満ちた人でありたいなって思っています。

2008年12月1日月曜日

出張授業の感想

こんにちは

播磨高原東小学校から、出張授業の感想文が送られてきました。
どの子も授業を楽しんでくれたのが伝わってきます。
嬉しいですねー。
いくつか紹介したいと思います。

3年生担任 二井先生
先日は大変お世話になりまして、誠にありがとうございました。
児童は大変興味をもって楽しんで学習することができました。
授業後も工作したもので遊んだり、授業の感想を喜んで話したり、大満足の様子でした。
児童のお礼の手紙を添えております。
なお、親しみ深い名前を使わせていただいておりますが、どうぞお許しくださいませ。

3年生 下條美季さん
こないだのSASで、いろんなことを教えてくださってありがとうございました。
おかげでいろいろな事を知ることができました。
私は「電子」というのをはじめて知りました。
こんど助手をしてみたいです。

3年生 時政侑香さん
こないだのSAS、ありがとうございました。
とてもたのしかったです。
少しこわかったです。
一番よかったのは工作。
コップが一番うれしかったです。
その「キラキラコップ」とても大事にしています。
「電子」など、いろいろなことをおしえてくれてありがとうございます。

3年生 谷口せいや君
100Vでえんぴつがばくはつすることが、はじめて知りました。
電気の中はにじ色というのも、はじめて知りました。
これから、もっと高い温度をやってみて、どうなるか知りたいです。

3年生 てる岡七海さん
せき口おじさん、まつ岡お姉さま、まづかお姉ちゃん、11月17日はありがとうございました。
えんぴつをもやすのが楽しかったです。
それにコンセントは100Vあるのは初めて知りました。
これを見て理科がすきになりました。

3年生 籠島瑶さん
前のSASのじゅぎょうの時は、どうもありがとうございました。
とても楽しいじゅぎょうでした。
まつおかお姉さまやまづかお姉ちゃんにもおせわになりました。
おどろいたのは100ボルトでえん筆とえん筆をつける実けんです。
ばくはつしたように見えて、どうなるかと思ったぐらいでした。
「ぶんこうき」は今も家で楽しんでいます。
またぜひ学校に来て楽しいじゅぎょうをしてください。

4年生 藤阪希海さん
11月18日は、私たちのSASのために来て下さってありがとうございました。
私は工作(キラキラめ鏡、コップ)や、えんぴつの実験を見たりするのがとても楽しかったです。
でもこの実験は「バン!」といった時、ドキッとしました。
め鏡はきれいでびっくりしました。
私は「V」(ボルトのV)を知りませんでした。
あまり使わなそうだと思ったけど、おもしろそうなので、ずーっとおぼえておきたいです。
ふつうの理科よりずーっと楽しかったです。
また来て下さい。

4年生 中田凌輔君
月よう日はありがとうございました。
ぼくは電気はねつが高いほどき色やオレンジになることがわかりました。
もしもぼくが大人の時、関口おじさんと松おかおねえ様と馬づかおねえちゃんといっしょに、けんきゅうしてみたいです。

4年生 大島奈津子さん
わざわざ来て下さって、ありがとうございました。
おかげでおもしろく勉強になりました。
例えば、電子がはげしく動くと光が出たり、シャーペンのしんも電気をとおすことやら・・・びっくりすることもありました。
にじ色のあのかみみたいなものもありがとうございました。
科学者は本当にすごい、ということも分かりました。
楽しかったです。

4年生 北野寛晶君
SASの教科が楽しかったです。
えんぴつに100Vを通すとしんだけになったことが予想外でした。
ぼくはびっくりしました。
光の色々なことが分かってうれしいです。
これまで「電子」という言葉はきいたことがあったけど、「電子」は「光」ということが分かってすっきりしました。
本当にありがとうございました。

4年生 谷口統弥君
わざわざおいそがしい中ありがとうございました。
えんぴつに100V通したり、すごいじしゃくをしたりして、すごくおもしろく楽しいじゅぎょうでした。
光はよくそこらでみているけど、まだまだ知らない事がありました。
ありがとうございました。

4年生 恵郷美紀さん
SASの時はありがとうございました。「電子」のことが少し分かりました。
電子が何こか集まると光になる事が分かりました。
わたしは、少し科学者になったような気がしました。
とっても楽しいSASでした。

エクスキューズは後でしろ

こんにちは

XFEL電気設備工事を担当している現場代理人から連絡がありました。
電気の配管と制御ラック架台が干渉しているとのこと。
この電気配管はマシン制御線を配線するためのもの。
それが使えなくなってしまったら大変です。
しかしこの配管はコンクリート埋設配管。
やり直しとなると大事です。困った。

制御ラック架台は建築工事。
この不具合が、電気工事のせいなのか建築工事のせいなのか、ちょっとトラブルにもなっているらしい。

何はなくとも現地確認です。
いつもより朝早く現地に行き、不具合現場を見に行きました。
もちろん、総合図、施工図も持って。
図面通りに施工されているかどうかで、誰のミスか判断できますからね。

現場と図面を照合したら、ほんの数cm配管位置がずれていました。
現場施工者に確認すると、建築の型枠金具があって図面通りの位置に配管することができず、ちょっとずらしても大丈夫だろうと思ったとのこと。
そのためラック架台と干渉し、配管断面積の1/4程度が架台でふさがれてしまったのです。

これは明らかに電気工事でのミスです。
ミスは認めちゃった方がいい。
すぐ現地の担当の方に「電気のミスです。申し訳ありません。どう対処すればいいか指示願います。研究者との調整もします」と伝えました。
施工者にも、施工定例という公の場で謝らせ、今後は同様のミスをしないよう対策を指示しました。
現地の担当の方から「わかりました。当方で研究者と調整します」と言っていただきました。

後日その方から「この程度の干渉なら問題なし。このままでよい」と連絡をいただきました。
ホッとしました。

藤巻幸夫『藤巻幸夫のつかみ』実業之日本社¥1400-から引用します。

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順序が大切だから、もう一度確認しておく、まず、結果の良し悪しだけを報告して謝る。
「失敗しました」->「全部、自分が悪い」の順。
その上で「上司の許可を求める」->「経過を報告」->「多少のエクスキューズ」の順番。決して最初からエクスキューズはしないこと。
上司は絶対聞いてくれない。
それどころか、エクスキューズをすればするほど、怒りの火に油を注ぐことになる。
なにより、あなたの人格が疑われる。(55-56p)
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自分が悪いと判断したら、素直に謝った方がいいとぼくは思っています。
その方が信用を得られる。
プラグマティック(実利主義的)に考えても、その方がお得なんです。
変に言い訳したり、誰かのせいにする方が、話がこじれますからね。

たとえミスに対する合理的な理由があったり、他の人のミスがあったとしても、最初に言い訳や誰かのせいにするのは得策ではありません。
そういう場合でも、自分が当事者であれば何らかの責任があるからです。
その部分は謝るべきなんです。
藤巻さんの言うように、最初にエクスキューズする人を多くの人は信用しないからです。

ぼくも社会経験を積んできて分かってきたことですが、最初から言い訳したり誰かのせいにする人は、たいていその人が悪い。
自分が悪いことが分かっているから、言い訳したり誰かのせいにしたりしないではいられない。
自信がないからです。
もうこれ以上失敗することはできないという思いが、言い訳や責任転嫁を生むのです。

自信があるから素直に謝れる。
多少のミスがあっても、それを上回るいい仕事をしているだけの自信がある。
ミスをリカバーするだけの技術も持っている。
だから謝ることに躊躇がないんです。

これはひとつの「人間の法則」だと思います。子どもの頃よく親から「言い訳するんじゃありません!」と言われたものです。
これは正しい躾けだったんですね。