2009年9月30日水曜日

チャンクに分けろ!


こんにちは

部下や若い人たちの仕事ぶりを見ると、仕事のやり方がデッカイとしばしば思います。
上司から大きな目標を与えられたとき、その目標達成のために途中途中で通過しなければならない「道標みちしるべ」を設定しないので、目標と違う方向に進んでいても自分で気づかない。
だから無駄な作業、手戻りとなる作業が多くなってしまう。
それで結局は目標に至れないで終わってしまいます。

目標はそのままでは使えません。
ゴールに至るまでの、小さな目標=道しるべに分割しなくちゃいけません。
仕事って意外とチマチマしたものなんですよね。
地道と言ってもいい。
大きな目標を達成するためには、小さな目標をたくさん立て、それをひとつずつクリアしてく。
そうやると、進むべき方向が間違っていたことも途中で認識しやすくもなる。

そういえば社会学者の山田昌弘さんによると、パラサイトシングルの人たちの特徴として、実現不能な夢を追い続けている、があるそうです。
たとえば、声優になる、アイドルのお嫁さんになる、という例を示していました。
これらもやりようによっては実現可能かもしれませんが、パラサイトシングルの人はそのためのステップ分けをし、一歩一歩の努力をそれほどしていない。
大きな夢を持つだけで、それを実現させる努力はせず、天から幸運が落ちてくることを待っている。
それは、いつまでも実現されない夢を追い続けることで、今の自分のままでいたいという気持ちなのだそうです。
その意味で、具体的な目標を設定しないのは今の若い人たちの特性なのかもしれませんね。

とくかく、デッカイ夢を見るのもいいし、デッカイ目標を掲げるのもいいことですが、それだけじゃダメ。
デッカイまま取り組んじゃいけないんです。
そこに至るまでの中目標、小目標にブレークダウンする。
つまり「チャンク(小さな固まり)に分けろ」ってことです。
今の自分の実力でも短期間で達成可能と思われる具体的目標を定めて、それを一つずつ実現していく。
チャンクに分けると、今の自分にちょっと欠けた能力をはっきり認識することもできる。
ちょっと背伸びしてその能力をその場で身につけちゃう。
そして、大きな目標に一歩一歩着実に近づいていくのがいいと思うのです。

学校の教育目標って、いい例だと思います。
学校の目標は、それだけじゃデカすぎます。
「よく考える子ども」「自ら鍛える体」「豊かな心」なんてね。
このままでは達成すべき目標というより「スローガン」にすぎません。
では、「よく考える子ども」とは具体的にどういうことを示すのか。
あるいは、どういう知識や技能を子どもに身につけさせるのかをもって、「よく考える子ども」に育ったと評価できるのか。
たとえば<読んだ文章のキーワードを抜き出すことができる>とか<読んだ文章を短文に要約できる>とか、先ずは小さな目標にしてみる。
それによって「よく考える子ども」像を具体的に明確にしてみるといい。
すると何をどうやっていつまでに教えればよいかも、はっきりと見えてきます。

菅原裕子『コーチングの技術』講談社現代新書\700-に、そのための具体的「技」が書いてありました。

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1.「ぐ」具体的な目標を立てる
上司は部下がいつまでに、何を、どうするか、ハッキリした具体的な目標を立てられるようサポートします。
目標は希望ではなく「宣言」です。
また、決定事項は誰にでも分かるように文章化します。
「今年中に、TOEICで現在の点数プラス100点を達成する」
「4月30日までに、三件の新規顧客を獲得している」
「6月15日までに、体重を50キロにする」

2.「た」達成可能であるか
達成可能であることが分かっていたら、何も目標にする必要はない、と考えるかもしれません。
しかし、できると分かっていても、目標にしない限り努力をしないのが私たちです。
そこに目標設定の価値があります。
特に、新入社員が目標を設定するときは、小さな達成をたくさん体験できるように配慮します。
「できた」を重ねるごとに自信をつけ、より大きな目標にチャレンジする姿勢が育ちます。
そのためには非現実的な目標ではなく、本人の実力に合った目標を立てさせることが重要です。

3.「い」目標に意欲的になれるか
達成に向かって行動している姿や、結果を手にしている姿を想像してみてください。
その姿がわくわく感を起こすかどうかが重要です。
もし、たいしてわくわくしなかったら、目標が低すぎるのかもしれません。
その場合、ストレッチが必要です。
身体を伸ばして、より高いところへ届こうとすることです。
達成可能な目標であることと同時に、自分をストレッチさせることも重要です。
何より、そのストレッチの中で人は成長するものです。

4.「て」目標が定量化できる
立てた目標は、測定することができるでしょうか。
数値化することで、達成したかしていないか、また今後どのような努力が必要かが具体化します。
「より多くのお客様とコミュニケーションを交わす」は目標ではありません。
それはスローガンのようなものでしょう。
これを、「毎週最低三人のお客様に、『使用上お困りなことはありませんか』と訊ねる」とすれば、今週は達成したかどうか、できていない週があるとすればその原因は何か、どうすれば問題を取り除き、三人以上のお客様と会話ができるのかを発見することができます。

5.「き」記録可能である
プロセスを記録することで、情報を残すことができます。
その情報は、組織にとって財産です。
また、いったん記録したものは、再現することが可能です。
たとえば、成果を上げる人には、必ずそれなりの訳があります。
成功の法則を見つけ、それを他者と共有することで、チームとしての効果を上げることができます。
同時に、上手く行かないやり方を学ぶこともできます。
(127-130p)
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さてさて、その後の家出君です。
今の生活からの脱皮を目指して、努力を開始してほぼ一月が経過しました。
夕べ、こういうメールが届きましたよ。

  いつも通り頑張ってますよ☆
  明日には100000円のノルマはクリアーします☆
  今月夏休みの出費以外ほとんど無駄使いはしなかったですから☆
  来月の頭から本格的に引越しの準備に取り掛かります☆

嬉しいですねー。
ともかく最初の中間目標達成です。
これでヘルパー講習の受講料を支払い、受講の申し込みをすることができます。
ちっちゃな成功かもしれませんが、彼にとっては大きな自信になったと思います。

次の目標は、受講中の宿代と飯代を貯めることです。
なんたって今の仕事を辞めたら、寮から追い出されるわけですから。
講習期間はほぼ1ヶ月ですから、安宿、安飯で我慢すれば10万円もあればokでしょう。

年内には資格取得完了し、古里へ帰り、ご両親と暖かいお正月を迎えられそうですね。
年明けから仕事を見つけ、4月までには就職し、安定した生活を取り戻す。
できれば数年のうちに嫁さんを見つける(これはぼくの希望ですが)。
目標に向かって、ひとつずつ、一歩一歩進んでもらいたいですね。

2009年9月29日火曜日

ちょっと余分にやってみる

こんにちは

先週末、スパコン工事現場で職人さんたちの慰労と親睦を兼ねた焼肉会がありました。
ぼくも日頃の感謝を職人さんたちにも伝えたいなと思って、相生名物「うまいかhttp://odekakeblog.seesaa.net/article/35126765.html」を5kg差し入れました。
去年も焼肉会を開催しましたが、そのとき元気な若者の職人さんたちが多いので、あっという間に肉はなくなってしまった。
その後、おつまみがない状況だったんです。
だから、肉を食い終わった後にみんなでうまいかをつまみながら会話する時間ももちたかったんですね。

会が始まってから、現場の若いスタッフにうまいかを配ってもらいました。
そうしたら何も言わずに各テーブルに配るだけ。
気が利かないなー。
「これ、理研の関口さんからの差し入れです」とか言えよー!
ま、何も言わずにさりげなく差し入れするのも上品なことなので、それもいいかー。

5kgというととても多いようにも思えますが、今現場は工事佳境で職人さんたちの数も300人もいます。
やっぱりあっという間になくなっちゃいましたよ。
もっと用意すればよかったかなと思いましたが、ぼくのポケットマネーで差し入れできる限度が5kgだったってことで。
自分のできる範囲でちょっぴり余分にやってみる、ということが大切だと思います。

昨日は和光勤務でした。
朝と夕方、交通安全のための立哨作業に参加しました。
和光本所の前には川越街道が通っています。交通量も多い。
そこには歩道橋がありますが、何とも不便な造りで、和光市駅から職場まで来るには何度も歩道橋を上がったり降りたりしなければならない。
めんどうだからって、川越街道をつっきって渡っちゃう人が後をたたないんです。
交通安全週間に合わせて、そういう危険な横断はしないよう、会社の安全活動として立哨することになった。

ちょいと朝早く出勤して、みなさんが出勤する時間に立哨。
おはようの声掛けと、歩道橋の利用を呼びかける。
出勤者が一段落したら、歩道のゴミを拾う。
退勤時間も同じように活動する。
こういうのもぼくは積極的に立候補です。
できる範囲でちょっぴり余分にやる、というのが信条だからね。
一緒にボランティアする人たちと会話したりして、普段あまり会わない同僚の人とも面識もできます。
職員だけじゃなく市民の人にも挨拶すれば、職場にも好印象を持ってもらえる。
メリット大きいですよ。オトクです。

川端裕『メンタルヘルスに手を出すな』同友館¥1800- にこうありました。

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給与を労働の対価ではなくて自分という投資対象に対する会社の先行投資と捉えることは、社員に真の意味での自立と自律を促します。
そして、それこそが社員の「心の安定の源」となります。
また、報酬以上の量と質の仕事をすることは自分の利回りを高め、それは次の投資を呼び込みます。
報酬に見合った分の仕事しかしないでよいと考える人に次の仕事は来ませんが、報酬以上に働く人には次々とより良い条件の仕事が舞い込みます。(257p)
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与えられた仕事、決められた仕事をすることは、義務です。
やらなくちゃいけない義務は楽しくない。
やって当たり前、誰からも賞められないし、感謝もされない。
それに対して、ちょっぴり余分にやる仕事は、義務ではありません。
それは投資なんですね。

それによって給料が余分にもらえるわけではありません。
でもそれは損なことではないんです。
なぜなら投資ですからね。
投資のリターンって、すぐには顕れないんです。

ぼくはプラグマティストだし、尊敬する偉人は二宮尊徳ですから、何事も損得勘定で考えます。
余分にやっても給料が増えないなら損、とは思わない。
余分にやったので必ずいつかリターンが来るはずだ、と思うんです。
断然こっちの方が得だぜ!って。

「こんなのやっても給料増えませんから」とか「給料分しか働きません」とか言う人は、たいてい給料分も働いていません。
労働時間は長かったりしますが、アウトプットは少ない。
アウトプットが少ないと、その歩留まりを見込んで上司は多めの仕事を与えます。
面白くない義務的な仕事ばかりが増えていくことになります。
多めの仕事を与えられるから、残業してこなさなければならなくなる。
嫌々やるから効率が悪く、期日に完了しないこともある。
上司から叱責され、嫌な気分になる。
誰からも賞められない、感謝されない。
損ですよねー。

ちょっと余分にやるとどうか。
義務的な仕事はこなしているんだから、上司も必要以上の仕事を与えることはありません。
やることやっているという安心感があるからね。
必要なだけの仕事をやればいい。
だから余裕も生まれ、余分なこともやることができる。
義務はやって当たり前なので誰も賞めはしませんが、余分な仕事にはやった以上の賞賛を贈ってくれます。
そうすると楽しくなるので、もっと効率的に仕事ができるようになる。
能力、腕も上がる。
そうすると、次の面白い仕事が舞い込んでくる。
かなりオトクなんですよ。

よく「もういっぱいいっぱいでこれ以上できない」という人がいます。
たぶんそれは、いっぱいいっぱいまでしかやらないから。
一発奮起して、いっぱいいっぱいをちょっと乗り越えてみる勇気が必要です。
乗り越えて、ちょっと余分にやってみる。
人間、その気になればけっこうできるもんなんです。
できちゃうと、とてもいい気分になれます。
自分を賞めたくなります。
世の中で一番価値のある賞賛は、自分で自分を賞めることなんだからね。


こんな面白いホームページを見つけました。
パソコン雑誌『週間アスキー』に載ってたんだけどね。
子ども、大喜び!
これもちょっと余分なことかしら??

2009年9月28日月曜日

自己評価の高い人に育てる



こんにちは

はっちゃんもとっちゃんも、お散歩中に道行く人たちに会うと「こんにちはー」って挨拶をします。
見ず知らずのおばあさんに「あら、礼儀正しくていい子たちねー」って賞められます。
近所の商店街でも、お店に立ち寄って挨拶。
それでお菓子をもらっちゃったりして。

苫米地英人『テレビは見てはいけない』PHP新書\700-を読みました。

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犯罪者の多くに共通するのが「自己評価の低さ」です。
そして多くの場合、その自己評価の低さは、子どもの時に、親や周りの大人に植え付けられたまま年を重ねてきたものなのです。
「自分なんてこの世にいなくてもいい」「自分が何をしても状況は変えられない」といった低い自己評価が、やがて「自分をこんな目にあわせた社会に復讐してやりたいと」という自暴自棄な犯罪へとつながっていくのです。(110p)
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なるほど、なるほど。
大人でも自己評価の低い人ほど意地悪ですもんね。
ダメだダメだと、親や教師から言われ続けちゃったら、どうしたって自己評価の低い人に育ってしまいます。
やっぱり、偉いねー、いい子だねー、スバラシイねー、と言われて育てたい。

そのために、賞められるネタを子どもたちに与えたいと思っているんです。
挨拶もその一つ。
無視する人もいますが、挨拶すればたいていの人はそれに応えてくれますし、一言二言会話がある。
「いい子ね」と言ってもらえる。

もちろん、他人の迷惑になることや危険なことをしたときは、びしっと叱りますよ。
でもそうじゃない失敗は、あまり叱らないですませたい。
たとえばテストで悪い点を取ったときは、叱るより、君は本当はこんな点を取る人間じゃないけど、たまたま調子が悪かったんだね、ここを気をつければ次はいい点数をとれるはずだよ、なんて言いたいです。
年齢的にまだできないこともあります。
チャレンジしたけどできなかったときは、まだちょっと無理だったけど1年生になったらできるようになるよ、と言う。
決して、バカ、ダメとは言わないようにするんです。

実を言うと、自己評価の高い人ほど自分には厳しいのです。
こんなはずじゃない、もっとできるはずだって思う。
そしてより高い場所を目指して努力をする。
逆に、自己評価の低い人は自分に甘い。
ま、こんなもんだろう、オレにはこれくらいしかできない。
現状に甘んじ、努力を放棄してしまうんですね。
悪いことをしても、仕方ないんだって思ってしまう。

だから、自己評価を高く持てる人間に育ってほしいのです、はっちゃんもとっちゃんも。
そのために今の子ども合った課題を与え、ちょっと背伸びして挑戦する場を用意する。
そうやって育てていきたいなって思っています。

ハラスメントとは何か

こんにちは

ぼくも社会人生活25年を経過して、いろいろ見えてきたことがあります。
労組執行委員長をやったりして、パワハラの相談を受けたりもします。
ハラスメントと仕事上の強い指導は、一見似ていて、表面的にはどちらか分かりにくい。

それを峻別する基準は、「組織の生産性を上げているかどうか」であることがわかりました。
上司が部下を叱責したとき、その後その部下が自分の仕事のやり方を見直したり、同僚たちが叱られた部下を助けたり協力したりして、組織の生産性が上がったならそれは正しい「指導」だったことが分かります。
この場合、叱責された部下も、最初はへこむかもしれませんが、徐々に明るさを取り戻します。

同じように叱責しても、その部下が自分の仕事のどこをどう変えたらよいか分からず、ただただおろおろするだけみたいな叱り方。
そんなだと、部下はへこむだけで立ち直ることができません。
同僚たちも見て見ぬふりをする。自分に飛び火しませんようにって。
叱られた部下だけでなく、組織全体が萎縮してしまい、生産性を落とす。
これが「ハラスメント」なんだと思います。
ハラスメントなんてそんな高級な言葉を使わなくても、ただの「意地悪」と言ってもいい。

セクシャルハラスメントも同じですね。自由恋愛と区別する基準は、組織の生産性。
たとえ職場内だって祝福すべき恋愛だったら、同僚だってちょっとはあきれつつも、生産性を落とすことはありません。
職場内にハッピーな雰囲気が満ちあふれれば、みんな気分よく仕事ができます。
ところがセクシャルハラスメントは、当事者だけじゃなく、同じ場にいる人たちの生産性を落とします。
職場内に嫌な雰囲気が漂い、居心地が悪くなり、本来仕事に向けるべき注意をそっちに取られてしまい、集中できなくなる。

本来上司の役目は、自分の管理監督する部署の生産性を上げ、会社や社会に貢献することです。
たとえその上司個人は有能で個人としてのアウトプットは大きいとしても、個人でできる仕事には限りがあります。
たとえ部署の人員個々人の能力がそれほどではないとしても、部下全体でのアウトプットは、有能なたった一人の個人のアウトプットを大きく上回るものなのです。
ハラスメントを起こす人は、そこが分かっていないようです。

内田樹『街場の教育論』ミシマ社¥1600-から引用します。

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集団で作業し、それぞれがその専門的知識や技術を提供し合い、その協働の成果はみんなで分かち合う。
リスクも損害もみんなで分かち合う。
それが労働のシステムです。
そういうシステムに適応できる人間を労働の場は選択しようとしています。
ですから、真にビジネスライクなビジネスマンは、「個人的能力はそれほど高くないが、周りの人のパフォーマンスを上げることができる」タイプの人を、個人的能力は高いが、協調性に欠けるタイプの人よりも優先的に採用します。
これは受験勉強ではありえないことですね。(211p)
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確かに、ハラスメントを起こすような人は「受験勝者」だった人が多いようです。
受験は、個人が相対的に他人と戦うゲームです。
誰かと共同、協調して戦うゲームではない。
そこで勝者になった人は、戦いとは個人が相対的に他人と戦って勝つもの、だという固定観念に囚われてしまうのかもしれませんね。

相対的に優位であれば勝者になれるので、そこでは「他人を蹴落とすこと」も戦術となってしまいます。
ハラスメントされる人の中には、有能な人も多く含まれています。
こういう有能な部下を潰すため、ハラスメントが行われるってこともあります。
その場合、受験勉強と同じく対等な立場で戦うのではなく、上司部下という権力関係の中で有利なポジションで戦うのです。
これなら勝って当たり前ですよ。

たしかにそれで上司は相対的にその勝負には勝て、有能な部下を潰すことに成功するかもしれません。
勝っていい気分になれるかもしれません。
でもそれによって、自分の部署の生産性を落とす。
それは回り回って自分自身の評価を落とすわけです。
いい気分は長続きしないのです。

ハラスメントを起こす人は、相対的に自分を優位に保ちたいわけです。
あまり能力の高くない上司の場合、自分の立場的優位性をもって戦ったとしても負けそうな優秀な部下はやっつけず、ダメな部下を潰そうとする人もいます。
確かにダメな部下なんでしょうが、わざわざ難しい仕事を与えたりして、できないことを強調するようなことをする。
ほら見たことか、ってね。
たとえダメ部下だって、その人の能力に見合った仕事なら確実、着実にやれるわけです。
上手く仕事を分配すれば、ダメ部下も組織としての生産性を上げることに貢献できるのです。
それは上司自身の評価を上げることにもつながることなのにね。

そこまで考えて、ハラスメントをしているのでしょうか。
長い目で見たら、ハラスメントは全く損なことです。やる価値はありません。
とても頭のよい人がやるようなことではありませんね。

2009年9月22日火曜日

頼り頼られ


こんにちは

家出少年(中年?)君のお母さんから電話がかかってきました。
子どもが何歳になっても、親は親、子どもが心配なんですね。
特に老齢にさしかかると、子どもがまだ自立していないと心配で心配で仕方なくなる。

それは分かります。
お母さんはこう言いました。

 私らのことは私らで何とかするから、
  子どもは子どもで何とかできるようになってもらいたい

ああ、これだよ、これ。
家出君が家出しちゃう理由。
子どもの自由を認めているみたいだけど、子どもを突き放しているようにも感じます。
親と子、それぞれが独立に自立することを言葉にする。
きっとそうやって育ててきたんでしょう。
でもそれは、子どもにとってとても寂しいことなんだと思うのです。

人は誰でも誰かから頼られたり、自分が誰かの役に立ったとき、幸せを感じます。
逆に、いつも誰かを頼る、助けてもらうばかりの人は、あまり幸せではないんです。
頼ること、助けてもらうことは、ある意味自尊心を傷つけます。
実力がなくいつも誰かに助けてもらっている人ほど不躾、失礼だったりします。
ありがとうの一言さえ言わない人もいます。
やってもらったくせに偉そうな態度をしたりね。
それはその人自身の中では、助けてもらったことは自尊心が傷つけられたことでチャラにしてるんでしょう。

誰かに頼られる人、誰かの役に立つ人こそ、自立した人間と言えると思います。
そういう人は、困ったとき、自分の力が及ばないとき、素直に他の人を頼ることもできる。
ありがとうと素直に言える。
それは、その恩をいつか自分が返せるだけの自信があるからです。
その人が困っているとき、その人の持たない力を自分が持っていると信じられるからです。
そして、誰かの役に立ちたい、という思いが、自分の実力を上げるモチベーションにもなるんです。
誰かのためにちょっと無理をする。
それが実力を上げ、自立した人間に自分を育てていくのだと思います。

きっと家出君は寂しい思いをしてきたんじゃないか。
もっと親が子どもに頼ることも必要なんじゃないか。
年取ってきたからそろそろお前に世話になりたい、と言うことも必要なんじゃないか。
お前は長男だからやっぱり頼りにしてるんだ、と言ってやることが必要なんじゃないか。
そうお母さんに言いました。

小児科医の田下さんはこう言います。

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老後の話を必ず5歳の時にしてください。
子供が5歳の時で、6歳では駄目です。
6歳になると学校に行き、悪い友だちができるからです。
心がまだ汚染されていない5歳の時、「お父さん、お母さんは今元気でこうやっているけれども、歳を取って動けなくなって寝たきりになったらどうする?」と聞いてもらいたいのです。
そうすると100パーセントとは言い切れませんが、ほとんどの子供がドンと胸を叩いて、「任せなさい。僕が食べさせてあげる」と言うでしょう。(略)
両親の世話は、子供の生きがいの出発点です。
ですから、子供に「おまえたちの世話にはならない」と言ってしまったら、もうおしまいです。
取り返しがつきません。
早くから子供に「世話を頼む」と言うことです。
(田下昌明/野口芳宏『家族を考える』モラロジー研究所¥900-、43-45p)
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おー、5才ですかー。

人は誰かの世話になるだけでは生きている気がしないものです。
誰かの世話をすることが生き甲斐になる。
親は子どもの世話をするから生き甲斐を持ててるんですね。

でも子どもは親から世話ばかりされている。
そういう子どもに「老後も世話にならない。好きに生きなさい」と言ってしまうのは、反って子どもの生き甲斐を奪う残酷なことなんですね。
もちろん結果として老後は夫婦だけの力で暮らすことになるとしても、子どもの時に子どもに生き甲斐を与えるのも親の役目でしょう。

我が子はっちゃんは今年5才になります。
11月のお誕生日が来たら、ぜひ実践してみたいですね。
楽しみ、楽しみ。


写真は高校の卒業写真。
50歳も間近になると青春時代が懐かしくなるんでしょうか。
今年卒業30年だから、高校の同期会をやろう、と呼びかけてくれたクラスメイト(女子、48歳^^:)がいました。
同期生たちのブログを立ち上げたり、奮闘してくれています。
同窓会活動に協力することを条件に、同窓会から同期会へ補助金2万円が出ます。
ぼくはそれを買って出ましたー。
次の同窓会総会で受け付け係を拝命いたしましたー。


2009年9月21日月曜日

継続した意志

こんにちは

ぼくの教え子から電話がありました。
相談したいことがあるって。
じゃあ、会うことにしようってことになりました。

彼は20歳の頃に北海道の実家から家出して、それ以来横浜や東京を転々としています。
家出してしばらくの頃は、ぼくにもちょこちょこ連絡くれたり、和光のアパートに泊まりに来たりしていました。
が、その後連絡は途絶えてしまっていました。

それより前、ある日、彼のお母さんから電話があり「今、息子は中野の居酒屋で働いている。今の暮らしから足を洗いたいと言っているので、相談にのってやってほしい」とのこと。
教え子といってももう32歳。立派な大人です。
こっちから連絡するほど親切=子ども扱いもしたくないので、「彼の方から連絡するよう言ってください。彼がその気になっているのなら、できる範囲で協力しますよ」とお母さんに伝えました。
その後数ヶ月して、ようやく教え子本人から電話があったというわけです。

彼のの仕事は朝9時から夜中の1時までだというので、仕事が始まる前8時に中野駅そばのマクドナルドで会いました。
話を聞くと、数ヶ月前に倒れ1ヶ月くらい入院してしまった、30歳を過ぎて体力も落ちてきたので今の仕事はそろそろ続けられないと思った、とのこと。
で、これから何をしたいのかと聞くと、田舎に戻って介護の仕事をしたい。
介護の仕事だって体力はいるし、気も遣うし、おまけに給料は安いよ、とぼくは言いました。
それは分かっている、と彼。
彼の妹さんも地元で介護の仕事をしているので、ある程度どんなもんかは分かっているらしい。

ホームヘルパーの資格を取りたいらしいことは、お母さんから聞いていたので、事前にインターネットで調べてありました。
とても今の夜の仕事を続けながら、この資格を取ることは無理だと分かりました。
でも最低限ホームヘルパーの資格くらいないと、介護の仕事には就けないようなのです。
どうしても取りたいなら、今の仕事と生活とは決別しないとなりません。
1ヶ月程度の通学、実習で資格取得できる学校がありましたが、平日毎日8時間勉強、実習する必要がある。
そして10万円程度の学費が必要。

彼に、今の仕事を辞めないと資格は絶対に取れないことを伝えました。
収入がなくなっても生活を成り立たせなくちゃなりません。
今現在いくら貯蓄があるのか聞きました。
なんと0。。。
夜の仕事でまあまあの収入、手取り20万円くらいはあるようですが、ぱーっと使っちゃうんです。
身の程知らずにキャバクラ行っちゃったりね。
おまけに今は仕事場で用意してくれた寮に住んでいる。
仕事を辞めたとたん宿無しです。
こりゃ、ないないずくしですなー。

学費や1ヶ月の生活費、数十万のお金ぐらい、ぼくが出してやっても、親に出してもらってもいいでしょう。
でもそれじゃあねえ。もう30歳すぎの大人なんだし。
ある程度彼の意志を強くしてやらなくちゃ。
とりあえず学費分10万円用意するよう、彼に言いました。
20万円の給料をもらっているんだから、2~3ヶ月その気になって頑張れば貯まる金額です。
この程度のお金さえ貯められないとしたら、本気ではなかったんだということになります。
10万円貯まったら再度ぼくに連絡するよう言って、彼と別れました。
はたしてどうなるでしょうかねー。

人生を切り拓いて行く要=Keyは「継続した意志」です。
お金がなくたって、人脈がなくたって、住む家がなくたって、意志さえあれば何とかなる。
とはいえ、強い意志を持つのは結構大変で、そんな意志があったなら彼も今こんな暮らしはしていないはずです。
オレもお節介だよなーと思いつつ、毎朝彼の携帯に「今日も一歩前に進め!」なんてメールを送っています。

余談
中野で会ったとき、彼が今働いているお店も見ておこうと思って、連れて行くよう言いました。
ところがもじもじしていて、なかなか連れて行こうとしない。
ようやく案内してもらったら、なんとファッションヘルスでした。
居酒屋じゃなかったんだねー。
こりゃおもしろい!勉強になるなー!
あはははは。
それはともかく、こういう風俗のお店なら反って安心。
辞めるときもトラブルなく行けそうです。

2009年9月20日日曜日

9割の普通


こんにちは

最近、変人の話ばっかりしているから、「普通はどうなのよ?」という話もしておきたいと思います。
野依さんはこう言いました。

 大学にしろ企業にしろ、奇人・変人をもう少し収容しないといけない。
 特に学術には、ユニークな考えとこだわりを持った異端者を、
 研究者の10%ぐらい確保する覚悟が重要だ。
  (野依良治『オンリーワンに生きる』中央公論新社\1600-、113p)

変人、異端者は10%ぐらいは必要だ、と言っているのです。
「変人道の鉄人」野依さんでさえ、90%は普通の人でいい、普通の人も90%はいなくちゃダメだと言っているのです。
世の中、変人ばっかりでは困るわけです。
変人って「憑きもの」みたいなもので、内側から湧き出してくる自分ではどうしようもないコントロール不能なもんだったりしますから、ちょっと困ったものでもありますし。
世の中に変人ばかりになってしまったら、ホント大変なことになりますよ。

生まれながらに変人もいれば、生まれながらに普通の人もいるわけです。
変人になりたいと努力する人もいるし、普通でいいと努力する人もいる。
世の中それでいいし、変人だけでも普通人だけでも世の中成り立たないんです。
それぞれが価値があるわけで、お互いに支え合っているのです。

このことは人間集団だけの話じゃなくて、個人の中にも通用することだと思います。
つまり、100%完全無欠の変人はよくないんですね。
そういう人は困ったちゃんになってしまう。
個人の中には、10%くらいの変人要素と90%くらいの普通人要素があるといいんですよ。

ぼくは自他共に認める変人ですが、技術者でもあります。
技術というのは決して目新しい新奇なものではないのです。
人類がこれまで経験してきた成功と失敗が生み出してきたのが「技術」なんだと思うのです。
つまり、人類の英知の集積です。
上手くいく方法、安全な方法、役に立つ方法を普遍化し、それを「常識化」してきたものが技術。
だから過去の技術をしっかりと学び、それを身に着けることなしには先には進めないのです。
なぜなら技術は安定、安心して使えるものでなくてはならないからです。
たとえ新たなことにチャレンジするときでさえ、過去の技術を無視したのでは失敗してしまいます。
安定した技術に付け加える形で、新たなことにチャレンジするのが王道なのです。
だからただの変人では技術者は務まらないのです。

野依さん自身、非常に常識人です。
常識=普通人です。
常識があるから非常識が分かるんですね。
確固たる常識があるから、どこに価値があるか方向を見定めることができるわけです。
しっかりとした学問の蓄積があったから、不斉合成の価値に気づくことができた。
見誤ることなく、自分の道を進むことができたんだと思います。
「90%の普通」も自分の中に抱えていたから、大きな仕事を成し遂げることができたと、ぼくは思うのです。

掛谷英紀『学者のウソ』ソフトバンク新書\700-から引用します。

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個性を伸張しなければならないという目的自体は、誰もが賛同するだろう。
しかし、教育学者の語る個性論は、個性にある種の序列をつけるものだったのではないだろうか。
つまり、発想力のようなものだけを価値のある個性と考え、基本的な学力あるいは地道な仕事をこなす能力を個性と認めていないのである。
しかし、仕事の現場では、発想力以外にもさまざまな個性の持ち主を必要とするのである。
そして、その種の個性は、数学や理科の学力にせよ、デッサン力にせよ、マーケティング力にせよ、よほどの天才でない限り、放置すれば身につくものではなく、それなりの体系的教育を必要とするものである。
ところが、ゆとり教育論者は、放っておけば、子どもたちはみんな自分の興味のある分野を自主的に勉強すると考え、そういう教育メニューを用意しなかった。
現状を見る限り、放任主義に基づくゆとり教育は、個性を育てるという目的を達するに有効な手段ではなかったと判断すべきだろう。(33-34p)
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学校教育の中で「個性重視」が叫ばれて久しくなります。
確かに個性は大事ですが、その個性を「変人養成」のように誤って考えていた節は確かにありそうです。
だから自由放任、伸び伸び教育に邁進してきた。
その結果はどうでしょうか。
普通の人間にはとても理解できないような犯罪が、子どもや青少年が起こすようになってしまいました。
犯罪を起こすようなことはしなくても、今の子どもたちは何か変だと思う人も多いと思います。
誤った個性重視教育の結果、100%変人が増えてきてしまったんじゃないでしょうか。
それは、「普通」をないがしろにして教育してきた結果のように思います。

普通にも価値があり、認められるべき立派な個性であること。
個性的な変人には価値があるけど、普通の部分もきちんと身に着ける必要があること。
学校も世の中もそれを忘れてきてしまったように、ぼくには思えます。


写真はXFEL実験棟工事現場。
これまで加速器棟、光源棟と造ってきた経験を生かして、常識的で普通で、かつユニークな施設に仕上げていきたいですねー。

2009年9月15日火曜日

笑う人生


こんにちは

仕事中、ぼくはよく怒りもしますが、笑いも忘れません。
打ち合わせの時も必ず一度はジョークをぶちかまして、みんなを笑わせちゃったりします。
要はメリハリ、緊張と弛緩を上手く組み合わせる。
そうすると、みんなの脳が活き活きと回転し始めるんです。

我が家の躾の大方針は、

 いつも笑顔でいられる人間になる

ってことです。
ぼくも妻も率先して笑っています。
子どもらが生まれて、家の中にますます笑いが多くなりましたよ。

でも、笑うためには心に余裕がないといけません。
心に余裕を生むためには努力も欠かせません。
積極的に笑いを作り出していく努力が大切だと思います。
精神的にも肉体的にも経済的にも健康、健全じゃないと笑顔は生まれないと思っています。
逆に、常に笑顔を心がけていれば、精神的にも肉体的にも経済的にも健康、健全になっていくんだと思います。

100年以上前に福沢諭吉先生もこう言っています。

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顔色や容貌を、いきいきと明るく見せることは、人間としての基本的なモラルである。
なぜなら人の顔色は、家の門口のようなものだからである。
広く人と交際して、自由につき合うには、門をひらき入口を清潔にし、客が入りやすくすることが大事である。
ところが、本心は人と交際を深めたいのに、顔色に意を用いず、ことさら渋い顔つきを示すのは、入り口にガイコツをぶら下げ、門前に棺桶を置いているようなものである。
これではだれが近づくか。(檜谷昭彦訳『学問のすすめ』三笠書房\1300-、204p)
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進化論の研究によると、笑いの起源は原始的なサルにおける「有害な物を吐き出す口の動き」にあるらしいことが分かっています(志水彰他『人はなぜ笑うのか』ブルーバックス\820-)。
知能の発達したサルである人間はそれを逆手にとって、そういう口の動きをすることによって有害な物を吐き出したことにするようになったんじゃないでしょうか。
つまり、笑うことによって「災いを体内から吐き出す」という技を生み出した。
笑いにはそういう意味と効果もありそうです。

 人生でもっとも無駄な日は、
  一度も笑わなかった日だ(シャムフォール)

人生山あり谷あり、晴れたり曇ったりです。
多少の嫌なことや大変なことはあるのが当然だし、嫌なこと大変なことを克服するから人格も磨かれ、楽しい人生になっていくのだと思います。
特に何か新しいことをやろうとすれば、最初は必ず周りからの妨害、軋轢があるものです。
そこで小さく縮こまって何もしなくなってしまったら、顔も頭も硬直してしまい、笑いのない乏しい表情のまま人生を終えることになってしまいます。

しかめっ面して何やら難しそうな顔してたんじゃ、誰も寄りつきませんよ。
暗い顔して悩んでいる人に限って、何も行動していないんです。
行動しなけりゃ、現実は変わっていきません。
変わらないから悩みは消えず、明るい顔をすることができない。

困難なことがあっても笑顔でいれば、たとえちょっとやせ我慢でも笑っていれば、多くの人が集まってきて協力もしてくれることでしょう。
多くの人の助けを借りながら、行動を起こし、現実を変えていく。
それが心に余裕をもたらし、笑顔を作り出すんだと思うのです。

我が子たちには、困難も笑顔で乗り越えられるような、そんな人に育っていってほしいと願っています。
ぼく自身、いつも笑顔でいられるよう努力していきたいと思っています。

真剣=怒り

こんにちは

自分で言うのも何ですが、仕事中ぼくはよく怒ってますねー。
怒ることはとってもエネルギーのいることです。はっきり言って疲れます。
でも、疲れるけど怒り続けなくちゃ。
怒ることはある程度年齢がいって、ある程度の地位にある者の義務だと思っています。
怒れなくなったとき、職業人としての人生は終わりなんだって思いますよ。

江戸時代、寺子屋の入学式は2月最初の午の日と決まっていたそうです(毎日新聞「余録06.02.05」)。
江戸時代の川柳にこんなのが残っています。

 初午の日からおっかないものが増え

子どもにとって寺子屋の師匠は、おっかないものだったんでしょうね。
こんな川柳もあります。

 行きは牛帰りは馬の手習子

寺子屋に行くときは牛のようにダラダラと行く。
でも、帰るときは馬のように走ってしまう。
つまり子どもにとって寺子屋はあまり行きたくないところだった。
師匠がおっかなかったからです。

だからといって子どもは寺子屋が嫌いだったのかというと、そうじゃないと思うのです。
恐くて厳しいけど、自分を鍛えてくれる師匠がいる。
勉強が終わったときの晴れ晴れとした気分。
その嬉しい気分が、馬のように走って帰る行動に現れているんだと思います。

テリー伊藤『テリー伊藤の遊びベタのための成功法則』青春出版\1300-にこんなことが書いてありました。

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企業ってのは基本的に競争原理で動いているんだから、そこに「いい人」なんていらないんです。
いたら、おかしいぐらい。みんな、もっと嫌われなきゃいけない。
それに、嫌われるって意外とラクなんですよ。
だって、いい人だったら、ずっといい人でいなくちゃいけない。
そこからは、下がるしかないわけ。
それが嫌われていると、ちょっと人情味を見せただけで「アイツ、意外といいヤツだったんだ」って言われるんだから。(49p)
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そういえば、恐い先生、厳しい先生の方が、大人になってもよく覚えていますよね。
恐かったけど優しい先生だった、なんて。
恐い先生、厳しい先生の方が、後々まで「いい先生」として印象づけられています。
それはテリーさんの言うような「対比効果」だったんじゃないかと思うのです。

いつも厳しく恐い先生が、ごくごくたまーに優しくしてくれる。
これは子どもにとってすごく嬉しい。
いつもビシビシやっている先生が、ごくごくたまーに遊んでくれる。
子どもにこれ以上の喜びはないでしょう。
そして上手にできたとき、ごくごくたまにだけどほめてくれる。
子どもにとってこれほど嬉しいことはないはずです。

学年のはじめに「優しい」先生って、学年末に「鬼」に変わってしまうことが多かったようです。
学年はじめには、すごく丁寧に教えてくれる。
できない子ができるようになるまで、丁寧に教えてくれるし、できるまで待っていてくれる。
ところが学年末になると、終わらない教科書を「消化」するために、脱兎のごとく授業を進める。
すると、できない子は置いてけぼりになる。
そのまま学年末でタイムアウトで、置いてけぼりになったまま進級することになる。
次の学年ではもっと勉強がわからなくなり嫌いになるという悪循環です。

学年はじめの丁寧な授業は、あまり効率的でもないんです。
できない子にとって、いつまでも同じことばかりやらされるので、かなり嫌。
嫌々やるから、なかなかできるようにならないわけです。
それに、できる子はそんなのに付き合わされてもう飽き飽きしちゃう。
できる子にとってのろのろとした授業は退屈です。
必然的にダラダラした授業になってしまうわけです。

最初から鬼の先生はそうではありません。
ビシビシガンガン授業を進めるんです。
その緊張感で多くの子は必死にそれに着いていこうとします。
もちろん中にはできない子もいます。
でも鬼のような授業をして、ガンガン教科書を進めると、必然的に学期末や学年末に時間の余裕ができるのです。
あまった時間で、できない子の指導ができるのです。
もしラッキーなことに、クラス全員ができるようになっていたなら、あまった時間は学級レクなど遊びに回せます。
すると、恐い先生は一転して優しい先生に変わってしまうのです。
「意外といい先生だったんだ!」って。

これって子どもと先生だけの話じゃないですね。
社会人だって同じです。
厳しい上司も部下をよく育ててくれます。
ガンガン怒鳴っていても、その根底に部下への優しさが宿っているんです。
部下にしっかりした「結果」を出させようという熱い思い、情熱がそうさせているんですから。
逆に優しいだけの上司は、「自信のなさ」だけだったりします。
自信がないから厳しくできないだけなんです。

建築家安藤忠雄さんもスタッフには厳しいことで有名です。

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教育というのは、教える側が真剣になればやるほど、怒りが伴うものでしょう。
怒ってくれるくらい熱心にやってくれる先生がいたら、有り難いと思ってくれればいいんですが。
また、そのくらい一生懸命やれば、生徒はついてくるものですよ。
(瀬戸内寂聴/中坊公平/安藤忠雄『いのちの対話』光文社¥800-、76p)
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人生、メリハリなんですよね。
厳しくするときにはする。
そして確実に結果を出させる。
そしていい結果を出したときに、共に喜ぶ。
ぼくもそうありたいと思っています。
さて、今日もガンガン怒ってきますぜー!

2009年9月13日日曜日

続・ペアシステムのススメ


こんにちは

どこの職場にも忙しそうにしている人がいます。
毎日毎日残業残業。
でもその割にアウトプット量は少ない。
なぜなんでしょうか。

こういう人たちを観察してみると、

 とても仲がよい

ことに気づきます。
いつも誰かと一緒に仕事をしているんです。

以前「ペアシステムのススメ」というコラムを書きました。
ひとつの案件、プロジェクトは二人で担当するといい、という話。
でもこれを誤解してはいけませんよ。
ペアシステムは、二人で同じ時間に同じ仕事を一緒にすることではないのです。

管理職のくせに、いつも部下を伴って会議に出てくる人がいます。
本来管理職しか出席が必要じゃない会議なのに。
自分が担当する案件について、会議に必要な情報は事前に把握して会議に臨むのが当たり前です。
でもそれをしない、あるいは十分理解できないから自信がない。
だから直接担当する部下が臨席していないと、ちゃんと受け答えできないわけです。
なので二人で会議に出席する。
これは仕事時間の二重計上ですよ。
一人でやるべきことを二人でやっている。
時間当たり、ひとり当たりのアウトプットは半減です。
ならば、ひとり当たりの時給も半額にしないとダメですよね。

本来会議に出席しなくてよい部下は、本来その時間を別の仕事に使うはず、使えるはずなんです。
自分の本来するべき仕事にね。
それによってアウトプットを増やせるはずなんです。
その時間を会議で奪われるから、残業しなくちゃならなくなる。
自分の職責に自覚的であり、きちんと分担ができれば無駄な残業もなくなり、忙しさも緩和され、余裕も生まれるのです。

みんなで仕事をする場合、時間をやりくりするためには分担するのが原則です。
一つの仕事を、多数の仕事単位に分割し、それぞれのメンバーに割り振り、締め切りを決める。
割り振られた仕事を、それぞれの担当者が責任と権限を持って一定時間でこなす。

仕事は「作業」と「判断」とで成り立っています。
通常、作業は部下が、判断は上司が行うものです。
作業には時間がかかります。
だから十分な作業時間を部下に確保してやることが、上司の役目です。
しっかりとした十分な作業がなされていれば、上司は短時間で間違いなく判断することができます。

建築家安藤忠雄さんは、25件のプロジェクトを部下25人とペアシステムで平行して進めています。
そんなにも多くのプロジェクトを平行して進められる理由は何か。
それは部下に十分な作業時間を与え、現場にも長時間行けるだけの余裕を与え、部下が確実に作業を貫徹できるから、安藤さん自身が判断のために使う時間を短くできているからなんです。
そういう分担がきちんとできているから、安藤事務所ではたくさんのアウトプットが生み出せているんです。

分担されたそれぞれの担当者が、その仕事をたった一人で黙々と作業することができるかどうか。
そしてそれをまた集積し、一つの仕事に再度組み上げるられるかどうか。
それを元に判断することができるかどうか。
それが短時間に仕事が終わるかどうかの分水嶺なんです。
短時間に一つの仕事が終わるから、すぐ次の仕事へと取りかかれるわけで、結果としてアウトプットを増やすことができるのです。

ところが仲のよい人たちは、この分担がまったくできていない。下手なんです。
自分に割り当てられた仕事を、たった一人で黙々と作業する時間がすっぽり抜けているのです。
つまりそれは、一人で仕事をするだけの能力がそのメンバーの誰もに欠けているのだと思います。
だからみんなで集ってあれこれやって、悩んじゃったりして時間を浪費してしまうのです。

もちろん、打ち合わせが必要ないわけではありませんよ。
きちんと明確に分担と締め切りを決めるために、打ち合わせは必要です。
でもその打ち合わせは、より合理的に作業を進めるために行うものです。
打ち合わせ自体は、アウトプットではありません。
作業するからアウトプットも生まれるんです。
だから、会議をやって仕事した気になっちゃいけないんです。
会議だけでは、成果は何も生まれないのです。

作業中はたった一人で黙々と仕事をしていかなくてはいけません。
判断も誰かと相談しながらするのではなく、たった一人で自分の責任で行うものなのです。
その意味で、仲良しではダメなんです。
各人が孤独に耐え、責任を負う覚悟がなければ、アウトプットは生まれないのです。

永守重信『奇跡の人材育成法』PHP文庫\419-に<去ってほしい社員の条件>が書いてありました。

 1,知恵のでない社員
 2,言われなければできない社員
 3,すぐ他人の力にたよる社員
 4,すぐ責任転嫁をする社員
 5,やる気旺盛でない社員
 6,すぐ不平不満を言う社員
 7,よく休みよく遅れる社員(146-147p)

ぼくの尊敬する小学校教師の向山洋一さんは、学級目標に「一匹狼のたくましさと、野武士のごとき集団を」を掲げていました。
つまり、一人ひとりがたった一人でもことをなせるだけの力量を身に着けることが大事だと、子どもたちに伝えていたんですね。
それに加えて得意とする分野を一つでも二つでも持つ。
そういうメンバーが集まって協力し合うから、一人よりもパワーアップするんです。

ぼくは仕事も同じだと思っています。
単なる仲良しではいけない。
たった一人の孤独の中でも、自分の責任を黙々とこなすだけの力量を持つ人間。
そういう一匹狼たちが野武士のように集ったとき、大きなことができるんだと思っています。

2009年9月12日土曜日

変人バンザイ!


こんにちは

昨日は神戸次世代スーパーコンピュータ施設の建設現場での仕事でした。
いつもの工程会議のあと、我が社の来年度採用予定の若者たちが見学に来ました。
理研の事業をよく知ってもらうため、内定者に各キャンパスの見学ツアーをしてもらっています。
そのツアーの中にスパコン施設も入っており、人事部からの依頼でぼくが案内することになったんです。

我が社も人気企業のひとつで、新卒者の採用倍率は100倍以上です。
若者たちが現場に到着したとき、ぼくはこう挨拶しました。

 ようこそ理研へいらっしゃいました。
 君たちは競争率100倍の難関を勝ち抜いて内定されたと聞いています。
 すなわち、君たちは上位1%の変人っていうことです!

一気につかみはおっけーですぜー。
和気藹々と楽しく現場を見学してもらえましたよ。

泰中啓一『「負けるが勝ち」の生き残り戦略』ベスト新書\680-にこんな話が載っていました。

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最初に道をつけたアリは、巣から餌までの経路にフェロモンを残すのであるが、それが最短距離であるとは限らない。
いわば「賢い」(忠実な)アリは先駆者の道なりに進むしかない。
ところが、集団の中には「いいかげんな」(忠実度の低い)アリもいるわけで、このアリどもは、列からはぐれて、なんとなく餌の方向に進むのである。
その道にももちろんフェロモンは残る。
それが仮に、最初の道よりも短かったりする。
そこを通るアリが次第に多くなって、こちらが餌への最適ルートということになる。
最適経路の検索には、この「いいかげんな」アリの存在が欠かせないということが分かってきた。(76p)
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働き者で実直なイメージのあるアリの中にも「変人(変アリ?)」はいるんですねー。
列から離れてちょっと脇道にそれてしまうアリ。
そういうアリが新たな、もっと価値のあるルートを見つけていくんだそうです。
奇人変人の役割を端的に示していますね。
先駆者の後を追うだけではいけない。
そこをちょっと外れてみるいい加減さと勇気。
それが奇人変人の役割なんです。

ここで注意が必要なのは、「ちょっと外れてみる」ということ。
単に人と違ったことをするのが変人じゃないんです。
決して餌のある「方向」は見失わないんです。
方向は間違えず、ちょこっとルートを変えてみるわけです。
だから最適ルートを発見できる。
そこが変人の要諦なんじゃないかってぼくは思うわけです。
ただ闇雲に進むのではいけないんじゃないかって。

方向とは「目的」です。
目的を見失ってしまうような、脇道、寄り道はしない。
常に現実を見据えて、現実をフィードバックさせながら、見失うことなく目的地を目指す。
そのときに、既成のルートにはこだわらないで列からはぐれてみたりする。
より最適のルートを探して、それを仲間にも伝えていく。
それが本物の変人なんだって思いました。

理研の新入職員君たちの中にも、ホンモノの変人がいるといいですねー。
変人こそが世の中を変えていくんです。
変人の先輩として大歓迎ですよー。

2009年9月9日水曜日

複利効果


こんにちは

毎月、はっちゃん、とっちゃんの誕生日には体重測定をしています。
その結果を1g=1円として、毎月貯金しています。
定期預金にして、満期日を小学校入学の時にしています。
はっちゃん、とっちゃんとも一応国立が第一志望ですが、抽選で落選しちゃったら私立に入学させたい。
そのためには先立つものが必要です。
たとえば慶応幼稚舎や青山学院初等科の初年度納入金額は150万円!
よほど計画的にやらないとダメですよね。

そういうわけで、入学資金のために、はっちゃんが生まれたときから貯金を始めたんです。
ついでに毎月の体重が預金通帳に記載されるので、成長の過程を記録することにもなる。
一石二鳥です。
その貯金もちりも積もれば山となるってわけで、既にかなりの金額が貯まっています。
慶応でも青学でもどんと来い!てなもんだー!
ま、初年度はそれでまかなえたとしても、それからずっと毎年100万円もの学費を払い続けるのは無理そうなので、やっぱ慶応、青学は無理ですがー。
身の程にしておきます、ハイ。
あはははは。

貯金に限らず、何事も少しずつでも継続して積み上げていくことが大切です。
短期的にはほとんど変化が見えなくても、それを1年、2年と積み上げていくと、大きな開きが出てきます。
これを「複利効果」と言うのだそうです。
NHKテレビ「知る楽」『仕事学のすすめ』の中で、勝間和代さんはこう言っていました。

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これは金利計算だけでなく生き方にもあてはまります。
毎日0.2%の改善は1年で約2倍の効果をもたらします。
もし昨日より2%改善できたら1ヶ月で約2倍の差が生まれます。
変化が現れると楽しくて続けられるものです。(59p)
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成長するってちょっとずつでも自分を変えていくことだと思います。
自分を変えていくためには学ぶことを怠らない。
人に学び、本に学び、自然に学ぶ。
毎日10分でも20分でもいいから学ぶ時間をつくる。
ほんのちょっぴりでもいいから継続する。

たった0.2%の向上では、1週間や2週間でその成長を感じることはできません。
だからってそこで止めてしまってはいけないんですね。
たった0.2%の向上でも、1年続ければ2倍にもなるんです。
はっちゃん、とっちゃんの成長に負けぬよう、まあ年齢もかなりいっちゃってますから過度なこと、過激なことはしないとしても、ちょびっとでも成長し続けている親でありたいなーって思っています。

自由な楽園は不断の努力から

こんにちは

ぼくの職場で嫌な事件が起こってしまいました。
とても残念です。
かつて在籍していた朝永振一郎は、我が職場のことを「科学者たちの自由な楽園」と言っていました。
この事件で、自由な楽園が失われてしまうかと思うと、残念でなりません。
たったひとりの人がおかしなことをするだけで、みんなの自由が奪われてしまうんです。
だから自由とは他から与えられるもの、所与のものではなく、すべての人が不断の努力を続けることでしか得られないものなんだと思います。
『板倉聖宣その人と仕事』(キリン館\2060-)から引用します。

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僕は研究所に入ったときからクビになることを覚悟してやっていた。
しかし、「いつクビになってもいい」といってもね、ハレンチ罪や汚職でクビになったりするのはいやなんだよ。
ガリレオみたいにカッコよくクビになりたい(笑)。
困る人間をクビにするときには、そういうのでクビにするんだよ。
実際には、それが理由じゃないんだけども。
だから俺は、使い込みだとか、婦女暴行だとかはしないと(笑)。品行方正でいくと。
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この本は板倉さんが’95に国立教育研究所(現・国立教育政策研究所)を退官したときの記念誌です。
板倉さんは国立教育研究所の物理教育室長でしたが、仮説実験授業の研究をメインにして、脚気治療の歴史を研究したり、江戸時代の米の生産量から歴史の新事実を発見したり、あまり物理教育と関係ないような仕事を続けてきた。
職場の枠をはみ出しても、自分のやりたい研究、多くの人に役立つ、楽しい研究を続けてきた。
要するに自由にやってきたわけです。
なぜ自由にできたかと言えば、「品行方正」だったからに他なりません。
不自由になるのは、たいていくだらない理由からなんですよ。
くだらない理由で、自分の自由、志をドブに捨てるのは人生の損失なんです。
板倉さんはこうも言います。

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クビになって困るのは、給料が入ってこなくなることでしょ。
それから、官舎に入っていたりすると、官舎から出ていかなければならなくなる。
だから僕は、何年間か給料が入らなくても、何年間かの生活はできるようにしておくと。
それから、家は建てる。官舎には入らないと。
それから、本は自分で買うと。
そういうことで路頭に迷わないようにしておこうと。(216p)
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組織だけでなく、個人としても自由を確保するには、きちんとした人生設計が必要ということなんですね。
自由とは束縛されない、ということです。
官舎なんかに入るのは、金銭的に多少自由になるお金が増えるけど、失うものもあるってこと。
クビになって住むところがなくなってしまったら、自由どころではありません。
自由に生きるためには品行方正、しっかりとした準備。
個人としても不断の努力が必要なんだと、ぼくは思っています。

クレームは愛情

こんにちは

ぼくの仕事のメインは工事の施工監督です。
しょっちゅうガミガミ怒っています。
はっきり言って疲れます。もうトシだしね。
なぜ怒るかと言えば、スタッフにいい仕事をしてもらいたいからです。
いい結果を残してもらいたいからです。
完成後に怒られなくていいようにしたいからです。
完成して何年も経って、自分の子どもをそこに連れて行き「これはオレが造ったんだぜ」なんて自慢できるように。
そうあるように、日々情熱を燃やして怒っています。

先週はある資材の工場立ち会い検査に行きましたが、そこでも怒りました。
いったい誰のために造っている製品なんだー!!って。
その資材も「合理的」には造られていましたが、エンドユーザーにとっては不合理なものだったのです。
ぼくは「自分の不都合を他人に転嫁する」ようなことが大嫌い。卑怯なことだと思います。
たまたまその会社の会長さんは、以前からつながりのある技術者君のお父さんだったので、こんなメールを送りました。

 先日は工場立ち会い検査におじゃまさせていただき、ありがとうございました。
 少々苦言を申し上げねばなりません。
 顧客のことを考えて製品を作っていらっしゃるのかどうか、疑問に思いました。

 キュービクル側面点検扉を開いてびっくり。
 目の前に前面側と背面側を結ぶバスバーが取り付けられていました。
 これでは停電中でも内部に入っての作業ができません。
 仕方なくそうなっているのなら理解もできますが、少し工夫すればバーは迂回し
 て設置できるものでした。
 同様に盤内部に入れない、入りにくいところが何カ所もありました。

 キュービクルは定期的に点検することが、電気保安上大切です。
 点検でもっとも大切なのは、目視と清掃です。
 キュービクル内部に入って、端子部や内部配線を間近に見て劣化状況を確認する。
 バーなどに付着した埃を十分清掃することによって、トラッキングによる短絡事
 故を防ぐ。
 建設工事中であっても、ケーブル入線、端子部ボルト締め付けなど、キュービク
 ル内部での作業は必要だと思います。
 これらのためには、キュービクル内部に容易に入れる構造であることが必須であ
 り、キュービクルの製造上もっとも基本的で大切なことだと思います。

 また、停復電自動制御において、自動手動切り替えスイッチが手動側になってい
 ると、保護継電器が動作しないようになっていました。
 自動制御のシーケンスも、スイッチがどの位置にあろうと安全のための動作は確
 実になされなければならないものと思います。

 何か、自分たちが作りやすいように作っている、工夫しなくていいように作って
 いる、顧客のことは考えてない、ような印象を受けてしまいました。
 顧客が喜ぶような製品を作ろう、という意志を感じられなかった。

 事前に製作仕様書をお出しいただいて、施工者さん、発注者も確認はしています。
 ですから、施工者さんや発注者の確認不足だったとも言えるかもしれません。
 が、盤内部へ入れるかどうか、安全なシーケンスになっているかどうかは、当然
 盤メーカーさんが十分考慮して製作されているのが前提だと思います。
 その上で、施工者さんは施工上問題はないのかどうか、負荷設備と整合している
 のかどうかをチェックする。
 ぼくら発注者は、研究内容と整合しているかどうか、引き取った後のメンテナン
 ス上配慮しておくことはないかどうかをチェックする。
 それぞれの役割があり、それを果たすことがいい仕事になっていくのだと思います。

 他の人の役割を補っていくことは大切ですが、まるっきり頼るような仕事の仕方
 は全体としてパフォーマンスを落とします。

 以上、先日の工場検査で感じたことをお伝えしました。
 今回の製品もたくさん指摘させていただいたので、最終的にはよいものをお納め
 いただけると思っています。
 たまたま今回はそうであっただけ、と思っています。
 残り、研究棟用キュービクル、空調用キュービクルをお願いしています。
 もう一度、御社工場での立ち会い検査もすることになると思います。
 ぜひ、よろしくお願いします。

こういうクレームを伝えるのはリスクもあります。
ずいぶん昔、別のメーカーさんに苦情を言ったことがあります。
もちろんあまりにひどい製品だったからです。
二度とそのメーカーの製品は使いたくなかったので、次の仕事からそのメーカーさんに声をかけることを止めました。
そうしたらそのメーカーさんはバッジ付きのおじさんを伴って、我が社の役員のところへ怒鳴り込んできたんです。
あの生意気な担当者をクビにしろ!って。
あー、びっくりした。
ぼくは間違ったことをしているわけではないと信じていましたから、平気でしたけどね。
その後そのメーカーさんは倒産してしまったので、ますますぼくの判断は間違っていないと確信できましたよ。
わはははは。

川端裕『メンタルヘルスに手を出すな!!』同友館\1800-から引用します。

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クレームは日本では苦情と訳されることが一般的ですが、本来のクレームの意味は「要求」です。
そこには否定的な意味は込められていません。(略)
そもそもクレームを言ってきてくれたということは、そのお客様はあなたの会社のことが気に入っているのです。
悪質な、いわゆるクレーマーも存在しないわけではありませんが、その割合は極めて少数です。
恐らく1%に満たないでしょう。
クレームを投げかけた残りの99%のお客様は、善意から苦言を呈してくれているのです。
このことは自分に置き換えてみれば簡単にわかると思います。
企業にクレームを言うのは手間も時間もかかります。
嫌な客だとぞんざいに扱われるかもしれないことを考えると、何よりも気が滅入ります。
要するに、本当はしたくないことなのです。
だから、多くのお客様は無言のまま他社に乗り換えます。
そして二度と戻ってきてはくれません。それどころか、場合によっては、あなたの会社の悪口、悪評をあなたの知らないところで撒き散らします。
それが普通なのです。
にもかかわらず、そうしたさまざまなデメリットをおしてまで「業務改善提案」をしてくださるお客様が、あなたの会社のファンでなくてなんだと言うのでしょう。(103-104p)
###

さて、すぐ会長さんから誠実な返事をもらいました。
最終的にはきっといい製品が現場に納められることになるでしょう。
終わりよければすべてよしです。
とはいえ、ぼくも最後まできっちりと監督していかなくちゃ、と思っています。

心->頭->身体



こんにちは

学校の保健体育の時に習ったと思いますが、「スキャモンの発達曲線」というものがあります。
人間の各組織、機能はほぼこのように発達していく、というものです。

たとえば免疫系は6歳~12歳にかけてピークがきますが、この時期子どもは活動範囲が広がり、いろんな細菌類に接する恐れの高い時期だからです。
逆に言えば、この時期に活動範囲を広げ、多くの細菌類に接することが後々の健康を担保する、ということでもある。
さらに、この時期6歳より前は免疫系の発達がまだ十分ではないので、無理に子どもの活動範囲を広げるようなこと、例えば海外旅行に連れて行くとかは避けた方がいい。

このように、子どもの発達に合わせた経験、教育をしたほうがいいんです。
糸山泰造『絶対学力』文春ネスコ¥1400-にこうありました。

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体さえ健康ならば・・・と合い言葉のように言う人がいますが、まず最初に健康であるべきものは心ではないでしょうか。
次に考える力、すなわち頭です。
そして最後に体です。
人間の成長もこの順番でなされていると私は思います。
成長の順番と優先順位は同じで、大切なものから成熟するようになっているのです。(77p)
###

発達曲線を見ても、一般型(筋肉骨格系)の発達に先行して神経型が発達します。
健康は一番大事なことですが、子どもに無理に身体を鍛えさせるのは逆効果。
特定のスポーツをやって身体に大きな負荷をかけるのは好ましくないのです。
子どもが自然に身体を動かす遊び、鬼ごっこのようなものをやって、神経型を軸にして身体を動かすようにしたほうがいいんです。
同書にはこうもありました。

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私は、子育てには3つの旬があると考えています。
心ができあがる「心の旬」、頭ができあがる「頭の旬」、そして体ができあがる「体の旬」です。
年齢的には0歳~6歳が心の6年間、6歳~12歳が頭の6年間、12歳~18歳が体の6年間です。
親としてはこのそれぞれの旬の時期を知らないと早すぎたり遅すぎたりと、苦労ばかりが重なって成果が出ないことになります。
何事も大切なのはタイミングなのです。(77-78p)
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なるほど、神経型の発達時期も2期に分けた方がいいんですね。
6歳までは心、6~12歳は頭、すなわち知能。
知能といってもスパルタ受験勉強ではなく、多様な経験を通した思考力の基礎を育てること。
そして12歳になったら身体の旬ですから、部活に入ってスポーツに熱中したり、スポーツ的勉強である受験勉強に取り組む。
発達に沿った旬を捕らえることが、無理もなく、合理的な教育なんでしょうね。

我が子はっちゃんとっちゃんは心の旬真っ最中。
心の旬の育て方はどうすればいいのか。
どうやれば心は育つのでしょうか。
いろんな育児書を読んでのぼくらの結論は、

 子どもが甘えたいときは甘えさせること

です。
つまり「セキュアベース」の確保です。
いろんなことを体験したり挑戦したりしたとき、不安になるときもあるでしょう。
そういうとき、すぐそれを受け止めてくれる人がいると安心します。
安心が新たな経験や挑戦へ挑む安全地帯=セキュアベースになる。
それに無条件に甘えられるって、甘えられてそれがかわいらしく思えるのも、6歳くらいまででしょう。
その旬にたっぷり甘えさせ、甘えてもらうのも、親の旬ですもんね。

2009年9月7日月曜日

三案つくれ!

こんにちは

今建設中のXFEL実験棟には150人くらい収容できる大会議室、ちょっとしたホールが設計されています。
小規模な研究会なら、40~50人収容のセミナー室で対応できる。
数百人規模の大規模な学会なら、姫路など近隣都市の市民会館などでやる方が便利。
でも、100人程度の中規模の研究会をやる会場がなかった。
公共ホールではガラガラ、セミナー室では入りきれない。
ようやく中規模なホールを造るチャンスが巡ってきたのです。
これが完成すれば、SPring8キャンパス内でやれる研究会の幅が広がり、研究の活性化にもつながります。

実際に造る前に、建築、電気、機械設備をひとつの図面に落とし込んで、総合図を描き、全体の整合性を確認します。
その図面を見て、「あ、このまま造ったんじゃダメだ」と思いました。
ぼくは設備担当なので、建築設計の細かなことまで設計段階でチェックする余裕がありません。
総合図の段階で初めて詳細が分かったのです。

以前はぼくもデザインについてはぼくの職権外だと思って、あまり口を出さないようにしていました。
が、ぼくがこれ変だな、と思ったものは、ほぼ確実に造ってから多くの人も「変だ」と言う。
そういう経験を多くしてきたので、意見を言うようになってきたのです。
ぼくの年齢も上がってきて、意見を言ってもそれが通るようになってきたこともありますけどね。

さて、確かに大会議室のデザインは斬新で、XFELという最先端の研究施設にふさわしいものになっていました。
でも、デザイン優先の設計になっているため、音響特性が悪い、有効容積が狭く内部の居住性が悪い、保守メンテもやりにくい、施工もトリッキーな仕組みになっていて施工しにくく安定性にかける、ことが分かったのです。
うち合わせでぼくは「これじゃダメだよ。設計を変えよう」と提案しました。
ところが、このデザインは基本設計時にセンター長がお気に入りだったもの、とのこと。
ぼくら現場担当者だけで変更することはできないものだったのです。
困りました。
このまま造ったら必ず将来に禍根を残します。

幸い、内装を決定するときに、最終的にセンター長にもプレゼンすることになっていました。
このチャンスを逃してはいけない。
内装プレゼンの日程を現地担当者に調整してもらいました。
忙しいセンター長ですから、ぼくの都合に合わせてもらうわけにはいきません。
プレゼン日程は、ぼくが神戸スパコン定例うち合わせの日と重なってしまいました。
でも、その日の夕刻から。
これなら間に合う!
スパコンのうち合わせを午前中に終わらせ、それからSPring8へと向かうことにしました。
ちょっと無理な出張になっちゃいましたが、ここが頑張り所と判断したんです。

プレゼンのために設計スタッフにこう指示しました。

 3案造りましょう。
 ・ひとつは設計通り。
   センター長お気に入りだったのだから、これを外すわけにはいかない。
 ・もう一つは音響特性のいいもの。
   設計とかなりデザインが変わってしまうが、機能重視だとこうなる、
   ということを示すために。
 ・そして両者の中間のもの。
   設計のデザインを残しつつ、機能にも配慮したもの。

つまり、両極端なものとその中間のものですね。
ぼくの目論見はこうでした。
機能重視のものを見せることによって、原案のよくないところをハッキリ見せる。
けれども、以前決定したことを全部反故にするのは誰もが嫌でしょうから、その中間のものを用意する。
原案のイメージを十分残しつつ、原案のデメリットをほぼ解消するものです。
極端と極端を提示し、その中間のものを持ってくる。
そうやって、中間案に持っていこうという算段です。
ま、日本人は中庸が好きですからね。
結果として、センター長も中間案に同意してくれました。
しめしめ!

長野慶太『アホな上司はこう追い込め!』光文社¥1000-にこうありました。

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(交渉とは)具体的には「賛成」「反対」「譲歩」のカードの切り方であり、どんなに優秀な手持ちカードの内容であっても、カードの切り方を間違えると負けてしまうということだ。
小泉政権の道路公団民営化のとき、民営化推進委員会の委員はみんなそれぞれ自分の正論をメディアに叩かれた。
しかし決定的に「負けて」しまったのは、最後まで「譲歩」カードを切らなかった委員だったというのがわれわれに訓示を与えてくれる。
自分が100%正しいと思う信念の強さは必要かつ立派だとしても、組織を動かそうと思った場合、「100」を通そうとするとかえって「0」になる。(182p)
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本音を言えば、ぼくだって機能重視の理想でこの会議室を造りたかった。
と言っても、ぼくの理想はここでコンサートをひらけるような音響特性を持ったホールなんですが。
ここでコンサートはめったにしないでしょうから、強引に自分の案を押し通すことはしません。
譲歩案に導くのが、結局は自分の理想へ近づく近道なんです。
大会議室のデザインは中間案に決まりましたが、十分コンサートにも耐えるものにできそうです。
やったー!
そのために、三案つくれ、なんですよ。

2009年9月4日金曜日

すぐ始める、必ず行う、やりとげる

こんにちは

ぼくは技術士会や電気技術者協会の会合に出席するのが楽しみです。
そこには、元気な老人がたくさんいるからです。
65歳でも75歳でも80歳を超えていても、活躍している人がいる。
ちゃんと社会に貢献し、それによってお金も稼げ、飯も食えている。
何より生き生きしている。好奇心旺盛。
こういうジジイにぼくもなりたいよなーって思います。

元気なジジイになるは、やはりそれなりの理由があります。
一番は、好奇心を失わず常に勉強をし続けていること。
電気技術者協会の会報『電気技術者』’07.6に中国技研顧問樋口和彦さんの記事が載っていました。
樋口さんは自衛隊の通信技師だった方で、自衛隊を退官後60歳で電験1種試験合格。

これは歴代最年長合格者だそうです。
電験以外にも技術士など沢山の資格を取り、社会に貢献し続けている。

樋口さんは「資格取得のメリット」として以下をあげています。

1.最高にして希少価値がある資格は、生涯にわたりメシのタネになる
2.業務独占資格、設置義務資格として活用できる
3.個人の技術力及びブランドのアップ、イメージアップの切り札となる
  特に、技術能力の客観的評価、信頼性、優遇性の向上に直結するとともに
  資格取得の過程で技術的な自信を十分体得できる。
4.高い倫理観と継続研鑽により、最新、最高の技術能力保持者として認定される。
5.新しい人脈の構築とビジネスチャンスを創生でき、資格を取ってこそ新しい世界が開ける

資格取得それだけで満足することなく、その活用を図ったり、自分のクレジットレベルを上げたり、人脈を広げたり、当然メシのタネにする。
自信が自信を生み、社会からも求められ、元気溌剌に生きることができる。
素晴らしいですね。

樋口さんは「資格取得作戦の教訓」として次の3点を強調しています。

1.明確な目標を確立すること。少しでも高い目標に挑戦すること
2.直ちに実行に着手すること。「この一歩を踏み出す勇気!」が重要である
3.牛の忍耐、蛇の執念、豹の行動

すぐ始める、必ず行う、やりとげる。
執念を持つ。
何事にも通じますね。
何の努力もせず、楽しい人生なんか得られるわけがありません。
努力するから、人生を切り開いていけるんだし、生き生きと健康も保てる。
なんたって精神と肉体は一体のものなんですから。

ぼくもイカシタ爺さんになりたいと思っています。

2009年9月2日水曜日

情熱は人の燃料だ!


こんにちは

仕事の品質は、「基礎力×情熱」できまると書きました。
でもどちらがより大事かといえば、情熱だと思います。
情熱がない人は、たいてい基礎力にも欠けているんです。
だって、情熱=モチベーションもないのに何かを学ぼうとするでしょうか。

情熱があるから、失敗したときでもそこから学ぶことができる。
情熱があるから、自分に不足しているものを強く意識できる。
情熱があるから、上手くいったときも喜びも大きい。
つまり、情熱があるから強く脳に刻まれるんです。

情熱がない人は、たとえその仕事の経験年数が20年、30年あろうと、ちっとも基礎も身に付いていないものなのだと思います。
仕事とは「積み上げるもの」だと思います。
積み上げるとは、覚える、記憶することに他なりません。
どれだけ自分の中にストックがたくさんあるかが基礎力なんだと思うのです。

その意味で、情熱とは人間を動かす「燃料」なんです。
燃料がなければ動けません。
動かないなら多くの経験をすることができません。
経験が足らないなら、仕事は積み上がっていきません。
積み上がっていないなら、ろくな仕事はできないのです。

安藤忠雄『建築家安藤忠雄』新潮社¥1900-から引用します。

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私も、つくり手は自分の関わった建築にはそれが建ち続ける限り責任を持つべきだという考えを持っている。(略)
<淡路夢舞台>では、完成以来、年に一度、建設に関わった人間数百人が集まって”同窓会”をやっている。
集客の助けになればというのと、自主的なメンテナンスの機会にしようという狙いで始めたものだ。(211p)
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安藤さんの建築はとてもユニーク。
建ててそれでお終いだとトラブル続出になりそう。
でも安藤さんは自分の造った作品を愛しているんですね。
愛しているから責任も持ち続けようとしている。
そのための手段として、定期的に、あるいは機会を見つけて、自分の造った建物に足を運ぶ。
足を運んで不具合を見つけ、すぐ直してしまうんです。
そうやって自分の造った建物を長い年月をかけて「仕上げ」ていくんですね。
すごい情熱です。

そしてその情熱は一緒にその建物を造った仲間たちにも伝染する。
それが「同窓会」となって毎年続いていくなんて、素晴らしいことだと思います。
こういう継続した努力があるから、安藤さんの設計は多くの人から支持されるんでしょう。

先日の電気設備学会では、XFEL電気工事に関わったスタッフたちも参加してくれました。
学会に参加するって意外と大変。
仕事のやりくりをして時間を捻出し、上司の許可を得て(説得して)出張するわけです。
情熱がないとできないことです。
これからも彼らと時々、年に一度くらい機会を見つけて集い続けたいですね。
自分の造った設備を愛し、自分の造った設備に責任を持ち、情熱を灯し続けるために。

2009年9月1日火曜日

情熱


こんにちは

先週はすごくヘビーな出張をしちゃいました。
電気設備学会参加のため富山へ行き、自分の講演が終わったら即神戸へ向かい、スパコンの打ち合わせが終わってから播磨に向かい、XFELの打ち合わせ。
そして帰宅は夜中の12時過ぎ。
さすがに疲れましたよー。
どれもぼくのやりたい仕事です。
手なんか抜けませんぜー。

電気設備学会論文集をながめていたら、きんでんさんの広告が載っていました。
きんでんさんは、XFEL、スパコン、筑波特高変電所工事でお世話になっている施工会社さんです。
その広告の文面が気に入っちゃいました。

 チーム、きんでん。
  (施工力+技術力+現場力)×情熱

おーー、素晴らしい!
情熱がかけ算としてあるのがいいですね!

前々からぼくは、基礎と情熱があればなんだってできる、と言ってきました。
言うだけじゃなく実践してきました。
基礎と情熱の関係は、かけ算なんです。
基礎×情熱。
つまり、一方が0なら結果は0なんです。
基礎のない人は、たとえ情熱を持っていてもそれが空回りする。
情熱がない人は、たとえ基礎力があってもいい仕事はできないんです。
若い人は情熱があっても基礎力が足りない。
だから若い人は意図的に基礎力を身につけていく必要があるから、勉強しない若者はろくな人物になれません。
ベテランはそれなりに経験を積んで基礎力は身に付いているんですが、往々にして情熱に欠ける。
情熱の欠けたベテランは、やっぱりいい仕事はできないんです。

きんでんさんは、電設会社の基礎力を分解して(施工力+技術力+現場力)と示しているんですね。
そしてその後にかけ算で情熱を持ってきている。
ベテランの人だけじゃなく、大会社の人もしばしば情熱に欠けるところがありますから、大会社であるきんでんさんとしてはそれを戒める目的もあるのかもしれません。
熱の入ったアツイ仕事は見ただけでその熱が伝わってきます。
だからいい仕事は、基礎×情熱で造られるんです。

安藤忠雄『建築家安藤忠雄』新潮社¥1900-にこう書いてありました。

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打設後のコンクリートの離れをよくするための型枠の仕様など、試行錯誤の中で、一歩一歩、技術を蓄えていったが、経験を積むうちにはっきりしたのは、結局、一番大切なのは、現場で働く人間の”気持ち”だということだった。
型枠に流し込まれるドロドロとした砂と砂利とセメントの混合物。
それがびっしりと編み込まれた鉄筋の間をすりぬけて、型枠の隅々まで行き渡るまで、監督も職人も、木槌と竹棒をもって走り回る。
そこでの彼らの目的意識の高さ、つまり”いいコンクリートを打ちたい”という思いが、そのまま仕上がりに表れるのだ。(156p)
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安藤さんの設計のひとつの特徴は、コンクリート打ちっ放しの仕上げです。
普通の建物はコンクリートを打設した後に、タイルを貼ったり、モルタルで上塗りしたりして、仕上げ、化粧を施します。
安藤さんの設計では、そういう化粧はしないんです。
だから、いいコンクリートを打たなくちゃいけない。
ところでコンクリートは建物の構造にもなっている重要なもの。
後で化粧すればいいやと思ってしまうと、いいコンクリートは打てません。
それは建物の基本性能である構造をもダメにしてしまうのです。
安藤さんは、いろいろ技術と経験も積み上げてきた。
つまり、基礎ですね。
でもそれだけではいいコンクリートを打てないことが分かった。
現場で働く人間の気持ちが一番大事だと分かったんです。
つまり、情熱ですね。

さてさて、無謀な出張もぼくの情熱の顕れです。
もちろんぼく自身がやりたいからやっているわけですが、この情熱を一緒に仕事をしている仲間にも伝えたいとも思っているのです。
情熱は伝染するんです。
発注者であるぼくが情熱もなくだらりんと仕事をしていたんじゃ、スタッフだってだらりんとしてしまう。
それじゃいい仕事になりませんから。

子どものくしゃみ

こんにちは

急に秋らしい陽気になりましたね。
気温も下がって、もう裸のままお昼寝なんかできませんよ。
とっちゃんもちょっと風邪気味みたいで、しょっちゅうくしゃみをしています。
くしゃみをする度に、鼻水がたくさん出て、顔中鼻水だらけ。
どうして子どもってくしゃみをすると鼻水がたくさん出るんでしょうね。

NHKテキスト『馬場悠男/「顔」って何だろう?』¥650-にそのひみつが書いてありました。

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クシャミという現象は、鼻の中の異物と余分な鼻汁(鼻水)を体外に吹っ飛ばしてしまおうとする生体としての自然な防御反応です。
普通の動物は、気管の入り口である喉頭が直接鼻につながっているので、口を閉じてパッと息を出せば、異物や鼻水を吹っ飛ばせるのです。
赤ちゃんの場合にはまさにそれをやるので、クシャミをすると異物と鼻汁が鼻からドッと出てくる。
それで鼻の周りはベチャッとはなるけれども、本来の目的を達成しているわけです。
ところが大人の場合は、喉頭が下がったために鼻からでも口からでもクシャミが出せます。
その際に、ちょっと色気が出たり体裁を考えたりする人は、鼻から出るとみっともないので、クシャミが鼻の方に行かないようにする。
つまり、軟口蓋(鼻腔と口腔を区切っている口蓋。口蓋垂、いわゆる「喉チンコ」が垂れ下がっている部分)を上に上げて鼻の方にいく道を塞いで、息を全部口から吐いてクシャミをする。
鼻の異物を吹っ飛ばそうというのに、鼻に息が行かないようにしてしまう。
その代わり、鼻の異物や鼻汁を出すために、鼻をかむことをしているわけです。(80-81p)
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なるほど、なるほど、子どものくしゃみの方が動物として正常なんですね。
鼻がむずむずするってことは、鼻の中に異物があるわけです。
異物ってのは、たとえば風邪のばい菌だったりもする。
その異物を鼻水と一緒に体外に出す。
それがくしゃみの本来の役割なんですね。
それが証拠に、子どもはハクションと言いません。
口を閉じたままクシュンと鼻から空気を出します。

大人になるにつれ、おしゃべりが上手になるのですが、それがために喉と咽がつながってしまう。
で、鼻がむずむずしてくしゃみをしても、ハクションと声だけは盛大ですが、ちっとも鼻から異物を出せなくなる。
それで仕方なく鼻をかむ。
大人は無駄なことをしているようにも思えてきますよ。

さてさて、今日からはっちゃんは幼稚園2学期です。
いよいよとっちゃんの入園試験もこの秋にあります。
楽しい2学期にしたいですねー。