2009年1月28日水曜日

コミュニケーションが個性を創る

こんにちは

ぼくは宴会の類が好きではありません。
特に同僚となど、いつも仕事でつきあっている人と宴会する意義がわからないから。
コミュニケーションのために、勤務時間外も一緒に飲みに行くことも必要。
これって「飲みニケーション」なんて言うんですか。
でも普段から長時間一緒に仕事をしているんです。
仕事の中で十分コミュニケーションしているはずだし、そうじゃなければ上手く仕事は回らないはずなんです。
わざわざ宴席をもうけなくちゃ十分コミュニケーションとれないとしたら、その方が問題だし、非効率、不合理だと思います。
「そんなんじゃ出世しないぞ」とご親切に言ってくださる方もいましたが、だってぼく出世したくないんだもーん。
あはははは。

でもときどきは家族以外の人とランチや夕食を共にすることもあります。
むしろ積極的にします。
普段あまり会えない人と会って、一緒に美味いものを食べながら話をするのは好きなんです。

先日、神戸で知り合いと夕食を一緒に食べる約束をしました。
待ち合わせ場所に行くと、その人と一緒に車いすの人が。
「ぜひ関口さんに紹介したかったんですよ!」とのこと。
紹介していただいたのは、上原大祐さん。
アイスレッジホッケーの日本代表選手です。

お店の席に着いてびっくり。
やっぱりがっしりとした筋肉もりもりの体をしています。
おもわず肩をペシペシ叩かせてもらっちゃいました。

ぼくはまったくアスリートの人と縁がありません。
アイスレッジホッケーでさえ、ぼくは知りませんでした。
ところが、ぼくとは縁のない世界の人と初めての食事なのに会話が弾みました。
1時間半程度の時間でしたが、とても楽しい時を過ごすことができました。

上原さんは超一流アスリートだけあって、とても個性的。
個性的な人は人をインスパイアしますね。
会話の中に「うんうん、それそれ!」がいっぱい出てきます。
ぼくも上原さんとの会話で、自分でも思ってもいなかったようなことをしゃべってしまいました。
たとえばこんなこと。

 コミュニケーションすると人は個性的になる
 コミュニケーションしないと人は個別的になる

個性的な人は変人で他人と話が合わないかと思ったら、さにあらん。
むしろ話のチャンネルを合わせるのが上手いんですね。
相手にチャンネルを合わせられるから、コミュニケーションが可能になり、会話が成立するんです。
コミュニケーションすることによって、お互いの違いも分かってくる。
その違いこそが「個性」なんですよね。
他人に了解される違いこそが個性であって、了解されないものは存在しないに等しい。
そしてその個性と個性がぶつかることによって、互いにインスパイアされ、個性に新たなものを付け加えていく。
だからコミュニケーションは面白いし、必要なものなんだと思います。

個性というと、誰とも違うものという面ばかり強調されがちです。
実はそうじゃない。
個性的な人は、かなり普遍的な人なんです。
むしろ多くの人と同じものを持っている。
誰とでもつながるチャンネルをたくさん持っていて、それを即座にチューニングできる。
誰とでもコミュニケーションでき、かつ、相手にインスパイアするものを与えられる。

だから、自室に引きこもって誰とも会話しないとか、限られた人としかコミュニケーションしないとか、いつも同じ同僚とばっかり飲みに行く(笑)とかでは、個別的にはなっても、個性的にはなれない。
限られたチャンネルしか持てず、限られた人としかチューニングが合わない。
同僚と飲みに行くと会社の愚痴とか他の同僚の悪口ばっかりしゃべっていたりしますが、それはちっとも個性的な会話じゃないですよねー。
あはははは。

2009年1月27日火曜日

友だちなんか一人いればいい

こんにちは

またも出張中の晶ちゃんからのメール。

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ゆうべ、寝る前、電気を消した後、はっちゃんが
「今日ね、幼稚園で、かなしいことがあったの。」
というので、聞いてみると、
「お外で遊んでいたら、みんないなくなっちゃったの。
みんな、はっちゃんのこと、だいっきらいなんだって。」
私は「?」と思ったけれど、
「そんなの信じられなーい。ママははっちゃんのこと
大好きだよー。よっちゃんもとっちゃんもおじいちゃまも
おばあちゃまも、はっちゃんのことが大好きだよー。」
と言ったら
「ありがと。」
と言って、その後、すーっと眠りました。
私はその後、気になってなかなか眠れなかったのですが、
「きらい、と言われると悲しい気持ちになる」ということを
感じるようになったのは、ひとつの成長かな、と思うことに
しました。しかも、ちゃんと母親に打ち明けるところが
かわいいですね。すごくうれしかったです。
この間の「死んじゃうのいやだー」といい、このことといい、
なんだか、はっちゃん、急成長していますね。
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面白いですねー。
誰もいなくなっちゃったのは、きっとお片付けの時間にはっちゃんだけ気がつかなかったのかもね。
だってはっちゃん、集中するとお漏らししちゃうくらいだもんね。
自分だけ気がつかなくて、ふと周りを見ると誰もいなくなっていたなーんてこと、ありそうです。

ぼくが帰宅してからもはっちゃんは同じことをぼくにも言いました。
けっこう、あっけらかんとした顔で。
だから、それほど意味はなくて、こういうことを言うのがブーム、ボキャブラリが増えて言ってみたくなっただけなのかもね。
様子は見つつ、見守っていきたいと思います。

そもそもぼくは、特に男の子は、みんなと、すべての人と仲良くする必要なんかない、と思っています。
男子たるもの、時には一定数の人から嫌われても、世のため人のために自ら思うことをやらなきゃいけないときもある。
多少の悪口、いじめにも耐えられなくちゃね。
だから、友だちもたくさんはいらないんです。
心の支えになる友だちが一人いれば十分。
それは、クラスメイトでもいいし、近所の子でもいいし、兄弟、家族でもいいし、おじさんおばさんでもいい。
孔子様など過去の偉人だっていいんです(あ、孔子様を友だち扱いしちゃうのは、ちょっとおこがましいか。。。)。

押井守『凡人として生きるということ』幻冬社新書\760-にこうありました。

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ある広告会社の調査によれば、「あなたは何人の友達がいますか?」と子供に聞くと、現在は昔よりかなり友達が増えているという。
少子化で自分の周囲にいる子供の数は相当減っているのに、友達の数は逆に増えている。
この珍現象はつまり、現在は動機なくして友人を作る時代になったということの表れなのだろう。
友達を作るのは何かを生み出したいからではなく、友達を作ることそのものに、若者が価値を置き始めているからなのだ。
手段が目的になったということである。
だから、友達を作ったからといって、その友達と何かを成し遂げようと考えているわけではない。
友達が多い人、というふうに周囲から見られることだけが自己目的化している、というわけだ。(131-132p)
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ぼくは、みんな仲良し教育が蔓延してしまったために、いじめも多くなったという仮説を持っています。
みんな仲良くするためには、異端者の存在は邪魔になってしまうから。
ちょっと変わった子は排除されがちになってしまう。
なので、排除されずに友だち仲間に入ったとしても、表面的なうわっつらの底の浅い友だちばかりになっている。
そんなの、本当の友だちじゃないって思うんです。
友だちは数じゃなくて、質、深みなんですよ。

押井さんはこうも言います。

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僕には友人と呼べる人はひとりもいない。
けれど、仕事仲間ならたくさんいる。
友人などほしいとも思わない。
仕事仲間がいれば、それで十分だ。(125p)
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すごいですねー。
友だちというと、公私の別なく長い関係を築くもの、という固定観念もありますよね。
そうじゃなく、そのときどき、時代によって、住む場所や仕事、自分のレベルによって、友だちだって入れ替わっていってもいいんじゃないか。
それが押井さんの言う「仕事仲間」なんだと思います。

ともかく、何らかの形で誰かと強いつながりは必要です。
誰ともつながっていないのは、寂しい人生です。
たぶん、耐えられない。
たとえ本の中の人物でもいいから、誰かと強く絆を持てる。
はっちゃんととっちゃんにも、そういう人間に育っていってほしいと思います。

2009年1月25日日曜日

足下を温めましょう

こんにちは

先週1週間はXFELサブ変電所の受電前検査立ち会いでした。
変電所は屋外。寒かったー。
寒さ対策のポイントは「足」なんですよ。

TVの健康番組で、冷え性について特集していたのを見たことがあります。
番組ではこんな実験をしていました。
二人の被験者の女性が登場しました。
ひとりは船頭さんの仕事をしていて、仕事で足腰の筋肉鍛えられている女性。
もう一人は事務職のOL。特にスポーツなどはしていない女性。
OLの女性は「冷え性」で困っているとのこと。
この二人の女性に、一緒に4℃の冷蔵室に入ってもらう実験です。

寒いと人間の体は自然にふるえます。
船頭の女性と、冷え性で寒がりのOLさん、どちらの体がふるえると思いますか。
普通考えたら、寒がりのOLさんですよね。
ところが、冷え性のOLさんはあまりふるえず、冷え性じゃない船頭さんの方が激しくふるえていました。
しかも脚がふるえていました。

人間の体温を維持しているかなりの部分を筋肉が受け持っています。
寒いときは筋肉がふるえて、体温を維持しようとするんですね。
筋肉が十分あれば、自然とふるえを起こして発熱するんです。
事務職のOLさんのように、十分な筋肉がないと寒くてもふるえることもできず、従って体は温まらない。
なのでどんどんどんどん体は冷えていってしまうのです。

冷え性の原因は、やはり筋肉不足。
特に腰から下の下半身の筋肉(腸腰筋と大臀筋)が足らないと冷え性になるそうです。
大きな筋肉は下半身に集中しています。
日頃から下半身の筋肉を鍛えておけば、冷え性にはならないのです。

ぼくは冷え性ではありません。
毎日10kmくらいは歩くようにして、足腰の筋肉を適度に鍛える努力をしています。
でもこう寒いと、筋肉からの発熱だけでは寒さを防げません。
そこで寒い外作業の時ぼくがやっているのは、足の裏にホッカイロを貼っておくこと。
つま先、足先は体積の割に表面積が大きいので、冷えやすい。
つま先が冷たくなると、とても不快です。
でも、足の裏、つま先までカバーできる範囲にホッカイロを貼ると、とても快適。
不思議なことに、つま先や足の裏が温かいと、全身温かく感じます。

事務所内で事務仕事をしているときでも、足の保温には気をつけています。
事務所の暖房は、天井面にエアコンが付いているため、暖かい空気は部屋の上の方にたまりがちです。
足下は意外と寒い。
実際に温度計測をしてみたら、設定温度20℃で、床上2mが26℃、1mが20℃、足下は16℃しかありませんでした。
冷えるわけです。
こういうときは、足温器や湯たんぽがいいですよ。
今は電子レンジで簡単に温められるゆたんぽ「ゆたぽん」があります。
なかなか便利です。

家でも足を暖めることはやっています。
布団に入っても足の先が冷たくなって眠れなくなっちゃう時もあります。
家では「足湯」がオススメ。
フットバスなんて健康器具も売ってますが、バケツで十分。
バケツの中に42~3℃くらいのお湯を入れ、足をつっこむだけ。
ポットにお湯を用意しておいて、バケツのお湯が冷たくなったら、熱い湯を足す。
10分くらいで体中ポカポカになります。
あとは足をよく拭いて、すぐ布団に入る。
ぐっすり眠れますよ!

2009年1月24日土曜日

残業の生理学

こんにちは

3月に埼玉県越谷市の科学館ミラクルというところでも出張授業をすることになりました。
市の広報誌に案内が載りました。
http://www.miracle.city.koshigaya.saitama.jp/eventguide.pdf
でも、このおじさんいったい誰?って感じですねー。
あはははは。
ともかく、参加者が集まってくれるといいですねー。
お近くの方、もしよろしければご参加下さいね。

神戸ポートアイランドに建設中の次世代スパコン施設に、ライブカメラを設置しました。
これから建物がだんだん出来てくる様子が見られると思います。
ときどき見ていただけたら嬉しいです。
http://www.nsc.riken.jp/index_j.html

さてさて、ぼくは早寝早起きを実践しています。
もともと体が弱いので、8時間以上横になって体を休めないと疲れがたまってしまうのです。
我が子と同じに、夜9時までに寝床に行って寝てしまいます。
そして朝は5時に起きる。

ぼくは夜がダメなんですよ。
今でこそほぼ毎日定時退勤ですが、以前は忙しいのと、まだ段取り力が悪かったので、なかなか仕事が片付かなかった。
残業も8時、9時、10時までやったこともあります。

でもねー、8時過ぎるとガクンと効率が落ちる。
効率が落ちるので、やってもやっても仕事は終わらないんです。
そしてへとへとになって、これ以上仕事を続ける気力が無くなってしまって退勤。
仕事が終わったから退勤するんじゃなくて、疲れて退勤ってことになる。
ホントは仕事を完成させるために残業したのにね。

そうして家に帰っても、寝るのは遅くなるわけです。
翌朝は定時までに出勤しなければならないので、睡眠時間を削ることになる。
ぎりぎりまで眠ってようやく起きる。疲れも抜けていないんです。
そうやって出勤してもなかなか調子が出ない。
当然、仕事もはかどらない。
だらだらと午前中を過ごすわけです。

午後になってようやく調子が出てくるんですが、午後は午後で打ち合わせとか会議が多くて、ちっとも作業をする時間がない。
結局やるべき仕事は終わらず、まただらだらと残業ってことになってしまう。
悪循環です。

安保徹『疲れをためない生き方』幸福の科学出版¥1300-にこうありました。

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体の自然なリズムから見れば、夕方以降も仕事をするのは、とても不自然な生活だと言えます。
本来、夕方以降は副交感神経優位になり、1日の疲れを洗い流す時間なのですが、ここでさらに働き続けると、1日の疲れを取ることができないばかりか、昼間よりもさらなる疲れを積み増すことになり、典型的な疲れをためる生き方になります。
そもそも夕方以降は、副交感神経優位になるので、集中力も落ち、体も動かず、仕事の効率はきわめて悪くなるはずです。
ですから、昼間よりもストレスがたまりやすくなっているでしょう。
このように、夕方以降は、仕事の能率が悪くなり、さらに仕事をすると健康を害する時間帯なのです。
よい仕事を長く続けて行くには、いかに、この時間に仕事をせず、休息を確保するかを考えなくてはいけません。(107p)
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人間はもともと昼行性の動物なんです。
夜活動するようにはできていない。
そんな生活を続けたら、必ず病気になっちゃう。
これじゃいけない、って思いました。
そこで思いついたのが、夜残業するのは止めて朝やること。

もちろん夜も少しは残業しないと追いつきませんでしたが、効率がガクンと落ちる8時以降は絶対に残業しないことにしたんです。
夜は7時を目安に仕事を切り上げ、退勤する。
職場と家が近いですから、これなら7時半頃に夕食を食べ、風呂に入り10時頃までには眠れる。

その代わり、終わらない仕事があったら翌朝早く出勤してやることにしたんです。
これはgoodでした。
よく眠ってスッキリした頭と体、はかどるのは当然です。
その上、誰もまだ出勤していない職場は静かで集中できます。
オマケに、電話がかかってくることもない。
とても効率的に仕事ができることがわかりました。
実感として、夜の残業の2~3倍の効率。
ジャカスカ仕事が片付いていきます。

大久保隆弘『早朝会議革命』日経BP¥1400-に、残業ゼロで有名な吉越浩一郎さんの言葉が載っていました。

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ドイツ本社もそうですが、外資系の会社では、トップも朝早くから始めて、社員も早朝系です。
残業してダラダラなんていうのは、なんの役にも立たないという考えです。
残業を3時間するなら、朝1時間早く来てやるほうが、よっぽどレベルが高いですね。(169p)
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今でもぼくは、ちょっと仕事が多い日は朝1~2時間早く出勤して、多い分をこなしています。
その方が断然効率がいいからです。
昔から「朝飯前」と言うように、朝ご飯を食べる前の時間までにやる方がラクに仕事は片付くんです。

そして、効率よくスタートを早くすれば、当然その日にやるべき仕事も終えることができる。
そうすれば気分もスッキリ、頭を空っぽにして家に帰れます。
仕事のことを気にしないで、家族との団らんを楽しむことができます。
悩みなくぐっすりと眠ることが出来、疲れもたまらない。
また朝もスッキリ早起きして、気分よく出勤です。
それが人間の生理にあった働き方なんだって、ぼくは思っています。

健康診断も過ぎたるは及ばざるがごとし

こんにちは

先日職場の健康診断がありました。
最近は、レントゲン検診を受診するかどうか、自分で選択できるようになってきましたね。
レントゲン、すなわちX線も「放射線」の一種ですから、被曝することにもなるからでしょう。
被爆すれば、何らかの悪い影響も受けてしまいます。
特に妊婦が被爆すると、胎児に影響が出やすい。
そんなこともあって、一律にレントゲン撮影を強制的にやることはしないで、各自の判断に任されるようになったのでしょうね。

日本人の自然放射線による被曝量は年1.5[mSv;ミリシーベルト]であり、世界平均の2[mSv]に比べると少ないそうです。
自然放射線は地球や宇宙からやってくる放射線です。
日本の大地は地質年代があたらしいため、古い地質のユーラシア大陸などと比べると出てくる放射線が少ない。
また、日本の家屋は木造なので、石造り、つまり大地を材料にしたヨーロッパなどの家に比べると、放射線被曝は少ないのです。
ところが、年平均総被曝量を比べると、世界平均は2.4[mSv]なのに対し、日本人は年3.75[mSv]。
日本人の方がたくさん被爆しているのです。
なぜなら、日本人は医療放射線として年間2.25[mSv]も被爆しているからなのです。(世界平均の医療放射線被曝量は0.4[mSv])。
平均値が高いということは、たくさんの人が医療放射線を浴びているとうことです。
すなわちそれは、治療のためではなく診断のために多くの人が被爆しているということなのです。
1回X線写真を撮ると2.5[mSv]も被爆してしまいます。
日本人全体の平均値2.25[mSv]とかなり近い数字ということは、かなりの数の国民が検診によって被爆していると考えられます。
放射線被爆を受ければ、その被曝量によって傷害を受けます。
多量の放射線を浴びれば、将来ガンを発症する可能性も高くなります。

放射線は細胞分裂の盛んな年齢ほど敏感に作用します。
放射線が遺伝子を傷つけるので、細胞分裂の時にうまく遺伝子をコピーできなくなるからです。
遺伝子にコピーミスが起こると、その細胞がガン細胞に変化したりするわけです。
だから、放射線によるガンの発生率は年齢が低いほど高いのです。
若い人ほど成長したり新陳代謝が盛んだったりと、細胞分裂も盛んだからです。

年齢を横軸にとりガン発生率を縦軸にとると、右下がりのカーブを描くグラフとなります。
一方、肺結核や心臓病などによる死亡率は40才前後から急激に上昇します。
よって、X線検診によって病気を早期に発見する「御利益」も40才前後から上昇することになります。
年齢を横軸に、X線検診による御利益を縦軸にとったグラフは、右上がりのカーブを描きます。

この2つのグラフからある年齢において、X線検診を受けた方が利益を得るか、やめた方がいいのかどうかの判断ができます。
神戸大学の中川氏(放射線環境科学)は

 「7歳以下はやめときなさい。
   男性は31歳、女性は39歳で不利益と利益がつりあう」

と言っています。
子どもは、骨折など治療の時にX線撮影することは仕方ありませんが、健康診断のために、どこも具合悪くないのにX線撮影することは、絶対にやめた方がいい。
事実、WHOは1974年に、小中学生の集団での胸部X線検診の廃止を勧告しました。
たしかに、ぼくが子どもの頃は全員が学校で胸部X線検診をした記憶がありますが、最近の学校では行っていないようです。
もう少し成長した若者も、健康で元気なら検診による被爆は避けておいた方がいい。
特に妊娠の可能性のある女性は十分気をつける。
日本人は健康診断が好きな国民です。
職場の定期健康診断だけでは飽きたらず、自分でも人間ドックを受診したりね。
それによって病気を早期に発見できるかもしれません。
でもリスクもある。
そのことは知っておいて、どっちが得か判断しながら健康診断を利用するようにしたいですね。


この話は、兵庫物理サークル会報「にわとりの卵」に載っていた神戸大学中川さんの講演をもとに、コラムにしてみました。

2009年1月19日月曜日

プロは礼儀正しい

こんにちは

ぼくはよく技術士会や電気技術者協会の会合に出席します。
ぼくも四捨五入で50歳にもなったとはいえ、これらの会合ではまだまだヒヨッコです。
先輩方に学ぶことだらけ。

技術士や電気主任技術者の方たちを見て感服するのは、礼儀正しい、ということ。
挨拶はしっかりしているし、細かなことかもしれませんが、靴を脱ぐ場所ではきちんとそろえ、椅子も立つときにはきちんとしまう。
教育哲学者森信三さんの言うところの、子どもに絶対身につけさせたい三つの躾

1.挨拶をきちんとせよ
2.返事はハイとはっきりきびきび
3.靴をそろえ、椅子をきちんと仕舞う

がバッチリ身に付いているんです。
さすがだと思います。
礼儀正しさは「プロの条件」と言っていいかもしれません。

長野慶太『部下は育てるな!取り替えろ!!』光文社¥952-にこうありました。

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オフィスの環境は一部の態度の悪い部下や、それと対立する上司の人間関係のようなことで汚染させてはいけないというのが、アメリカでの基本的な考え方だ。
そのような振る舞いは「アンプロフェッショナル」(unprofessional)と言われ、本人の能力評価を確実に低める。
そして、まさにアンプロフェッショナルな行動は立派な解雇事由となる。(43p)
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プロとは、約束を守り、生産性を高め、成果を上げる存在だと思っています。
それに反することはしない。
約束を守ること、生産性を高めること、成果を上げることを阻害するようなことはしないよう、自分を律することができるのが、本物のプロなんだと思います。
もちろん、プロなら能力も高いことも必須ですが、それだけではいけないんですね。
いくら能力が高くても、成果を出さない人、生産性を低めるようなことをする人は、プロじゃないんです。

その観点で見ると、セクハラやパワハラの意味もよく分かってきます。
セクハラもパワハラも、もちろんされる側の生産性を低めますが、それよりもその他周りの人たちの生産性を低め、成果を出しづらくしてしまうのです。
だって、自分のそばでセクハラやパワハラが行われていたら、やる気なくなりますからね。
それが自分へ直接的な被害を与えないとしても、そばで誰かがねっとりとしたことをしていたり、そばで誰かが過度に不必要なくらい怒鳴られたりしていたら、嫌な気分になり仕事もはかどらなくなってしまいます。

組織でやる仕事ではこのことは特に重要です。
セクハラ、パワハラをするされる人だけの問題ではなくなるからです。
組織全体の効率を悪くしてしまう。
それは企業など組織にとって害悪です。損失です。
セクハラ、パワハラをする人が、いくら能力が高い人であって、その人自身が多くの成果を上げているとしても、組織全体としてのアウトプットが少なくなってしまうのならダメなんです。

組織としての成果を上げ、生産性を高めるためには礼儀正しいことが必要なんだと思います。
もちろん今時自分一人だけでできる仕事なんかないわけですから、自営業だとしても同じでしょう。
能力があっても礼儀に欠ける人は、誰もプロとして認めてくれないのだとぼくは思います。

2009年1月17日土曜日

ウサギとカメの生理学

こんにちは

我が家で寺子屋を開催しています。
我が子はっちゃんと同年齢の子も呼んで、毎日1時間ほど。
図書館から紙芝居を借りてきて、毎日読んであげています。

昨日読んだのは「ウサギとカメ」。
ウサギとカメが徒競走する話です。
ウサギは走るのが速いけど、それに慢心して途中で昼寝をしてしまう。
その間にカメは遅くとも着実に走り続け、ウサギを追い抜いてゴールするって話。

この話は、ウサギのように慢心して怠けたりせずに、カメのようにのろくとも着実に努力すれば最後は報われる、という教訓として使われています。
が、ウサギは本当に怠けていたからカメに負けたと言えるのでしょうか。

ウサギとカメの違いは何か。
ウサギはほ乳類であり、恒温動物です。
カメは爬虫類で、変温動物。

カメなど変温動物の体温は、いつも外気や水と同じ温度だと思っている人が多いようですが、違います。
運動すれば、筋肉から発熱します。
確かに変温動物は体温が低いときは鈍いのですが、運動を続けて筋肉を動かすと体温が高くなります。
変温動物だって体温が上がると快調になってきて、速く走れるようになるのです。
最近の動物学の研究でも、泳ぎ続けるウミガメの体温はほぼ恒温であることがわかってきています。
だからカメは、走り続けることが必要な長距離走に向いている、と言えるかもしれません。

ところがカメは一休みしてしまうと、体が冷えてしまい、またのろのろと再スタートしなければならなくなってしまいます。
よって、カメは走り続けた方が有利なのです。

それに対してウサギは恒温動物です。
体温がいつも高く、常にウォーミングアップされていますから、すぐスタートすることができます。
スタート直後から、速いスピードで走ることが出来ます。
ところが、走り続けていると筋肉が発熱し、どんどん体温が上がってきます。
体温が上がりすぎてしまうと、逆に調子が悪くなってしまうのです。
風邪を引いて体温が高いとき、体がだるくなってしまうのを思い出してください。
だから、いつまでも走り続けることはできないのです。
ときどき休んでクールダウンする必要があります。

特に高温に弱いのは脳です。
脳がオーバーヒートしてしまうと、最後は壊れてしまいます。
産まれたばかりの赤ちゃんが病気になって40℃もの熱が出ると、脳が破壊されてしまうこともあるのです。
だから、脳のオーバーヒートは避けなければいけないのです。

脳の温度を下げるのに最適なのは、睡眠をとることです。
発熱源である筋肉を休ませ、体温を下げます。
マラソンランナーはレースの後に熟睡するのだそうです。
オーバーヒートを避けるために、脳は自ら睡眠を要求するのです。
だからウサギは途中で昼寝をせざるを得なかったのかもしれないのです。
別に怠け者だったから、昼寝をしたわけでもなかったのかもしれません。

考えてみるに、ウサギはカメより優っていることはたくさんあるわけです。
徒競走くらい、負けたっていいじゃないですか。
ウサギもカメもそれぞれ得意分野で実力を発揮すればいい。
徒競走で無理にがんばっちゃって、脳が壊れたり死んじゃったりしたらたまりません。

けっこうウサギは賢明だったのかもしれませんよ。


井上昌次郎『ヒトはなぜ眠るのか』ちくまプリマーブックス\1100-の158pあたりを参考に書きました。

目覚めの生理学

こんにちは
朝、なかなか起きられない人、いませんか。
ぼくも昔は起きられなかった。
今はけっこうスッキリと起きられるようになってきました。
いや、年取ったから早起きになったってわけじゃなく。

我が子たちを育てているので、育児書もよく読むようになりました。
乳幼児は「自然」ですから、なかなか思うとおりには動いてくれません。
でもそれを逆手にとって、自然に逆らわないように、乳幼児の生理にあったやり方をすると、スムーズに行くそうです。

たとえば、朝のお着替え。
朝ご飯を食べて、歯を磨いて、着替えて、出かける。普通はこの順序です。
保育園や幼稚園に行く時間が迫っているのに、遊んだりふざけたりしながらゆっくりメシを食ったりするんですよ、これが。
やっとメシを食ったと思ったら、まただらだら着替えをする。
すると、親としてはイライラする。
叱らなくちゃならなくなる。

そういうときは、順序を入れ替えるといいのだそうです。
昨夜の晩ご飯から朝までの時間は12時間くらい開いているわけですから、子どもはかなりお腹がぺこぺこな状態になっているのです。
子どもも早くご飯を食べたいのです。朝は体がそう欲求している。
そのときに、メシより先に着替えさせちゃうといい。
そう、ご飯を「おあずけ」するんです。
すると子どもはご飯を食べたいので、てきぱきと着替えをするようになる。
逆にご飯を先にしちゃうと、子どもはそれで満足してしまい、ゆったりとした気分になる。
そんなときに、せかされて着替えさせられても、するわけがないのです。
このように子どもの生理に沿ったやり方をすれば、イライラすることもなくなるのです。

もっと大きな子ども、小学生や中学生も同じです。
たとえば、朝登校した生徒にグランドを走らせたりする先生がいます。
朝から体力を着けようという趣旨なんだと思います。
でもほとんどの生徒は、だらだら走るんですよね。
だらだら走っても、体力は着きません。
それどころか、だらだら走っているのにもかかわらず、ねんざしたり転んだりして怪我する生徒が続出。
先生はイライラしっぱなしになってしまいます。

これも生徒の生理に合っていないことをさせるから発生する問題なのです。
人間が目覚める順序は、医学的に決まっています。
それは、目->耳->鼻->舌->皮膚->筋肉の順なのです。
つまり、神経系が先。

筋肉を制御しているのは神経系です。
体は、筋肉だけでは動かないのです。
きちんと神経系が制御しなければ、筋肉は整った動きができない。
だから神経系を先に目覚めさせる必要があります。
神経系が十分目覚めていない朝に、いきなり運動をさせれば当然だらだらしちゃいますし、怪我の原因にもなるのです。

生徒に朝読書をさせている先生もいます。
これは子どもの生理に合致しています。
読書は目を使うからです。
最初に目覚めるべき目を、読書によって十分目覚めさせる。
そうすれば、神経系の目覚めが促されて、授業にもスムーズに集中していける。
先生もイライラしなくてすむのです。
さてさて、目覚めの順序が分かりました。
生理的に無理のない目覚め方があるってことです。

それにも増して大切なのは、十分な睡眠です。
必要十分な睡眠があれば、朝も自然にスッキリと目覚めることができます。
睡眠時間と体力には、明らかな相関があることが研究の結果分かっています。
睡眠時間が6時間を切ると、体力もがくんと落ちます。
やはり7~8時間眠るのは、必要なことなんです。
もちろん人によって必要な睡眠時間に多少の違いはあるかもしれません。
また、たまには睡眠を削ってもやらねばならないこともある。
そういうバリエーションはあってもいいでしょうが、基本は変わらないのだと思います。
体力が減退しっぱなしになるような、睡眠時間はやはりまずいのです。

さらに、体力と知的集中力も強い相関があることも研究の結果わかっているのです。
体力がないと、集中力が落ち、頭も働かないんですね。
よって確実に生産性が落ちる。
睡眠時間を削って勉強しても頭に入らないし、睡眠時間を削って残業してもいい仕事はできないんです。

ぼくは子どもが生まれてから、子どもが寝る時間に一緒に寝てしまうことにしました。
9時までにはお布団に入る。
ちょっと絵本を読んであげて子どもが眠ってしまってから、ぼくも1時間くらい寝っ転がりながら読書。
10時半頃には眠りについてしまいます。
そして翌朝は5時に起きる。
十分な睡眠をとったわけですから、だいたいは目覚ましが鳴る前に目が覚めます。
コーヒーを入れて、電子メールをチェックして、それに返信しているうちに、神経系が目覚めてきます。
そしてこのごみメールを書いて、頭を完全に覚醒させます。
それから歩いたり自転車に乗って出勤。筋肉も目覚める。
だから始業時間にはフルスロットルになれるってわけです!
そしてバリバリ仕事をこなして、早めに退勤。
家族との団らんを楽しんで、早めに寝る。
こういう好循環が出来ています。
まー、もちろん休みの日は8時頃までだらだら寝ていたりもするんですけどねー。

体が目覚める順序は、三木成夫『人間生命の誕生』109ページに書いてありました。

2009年1月14日水曜日

大人のための理系勉強法

こんにちは

友人(文系)から、数学や物理を分かるようになりたいんだけど、どうやって勉強したらいいのか、と質問されました。
ぼくの答えは以下。

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細々とした雑学ではなく、しっかりとした知識と技能を得るために最適なテキストは、学校で使う教科書です。
教科書は誤植もなく値段も安く最高のテキストなんです。特に数学は。
大きな本屋さんで聞けば、入手法を教えてくれます。
近所の中高生から譲ってもらってもいいです。
中学1年から始めましょう。
例題を理解して、練習問題をひとつずつ解いていく。
それを地道にコツコツこなしていってください。
毎日30分でいいですから、継続することです。
土日は休んでもいいけど。消防士さんだから土日は関係ないかもしれないけど、週に1,2日は勉強だって休日にした方がいいんです。
中1は3ヶ月、中2、中3は半年くらいかけるつもりで、じっくり取り組む。
だいたい1年半で中学卒業。
その後高校数学へと進むといいです。
高2レベルまで終わってから、物理をやるといいですよ。
数学が使えないで物理をやっても意味がないからね。
物理をやれるのは3年後ってことかな。
高校物理までマスターすると、その他の理系科目は恐ろしく簡単に理解できるようになりますよ。
それを楽しみにコツコツやってください。
学問に王道なしと言いますけど、全くその通りで、学問も愛と努力と忍耐なんです!
###

この友人からその後何も言ってきませんが、ということは友人ではなかったのかもしれませんねー、わはははは。
きっと、手っ取り早く勉強する方法を聞きたかったんですね。
でも残念ながらそんな方法はないのです。
学生の頃、ありあまる時間を使ってもなかなか厳しかった勉強です。
大人になっていくら経験値が上がっていると言っても、そう簡単にはマスターできるものではありません。
簡単に面白いと思える程度であれば、NHK教養番組でも見ればよろしい。
きっちりと実用レベルまで身につけようと思ったら、それなりに時間と労力はかかるのです。
そして、それをやるかどうか。
やれば絶対やった甲斐がありますよ。

教科書ではありませんが、次の本もいいです。

 吉田武『虚数の情緒 中学生からの全方位独学法』東海大学出版会\4300-

1000ページにも及ぶ大著ですが、学問とは何か、学ぶ意義は何かから始まり、数学や物理の話を中心にしながらも、文学、歴史、政治などにも話が及び、まさに全方位の本です。
そして最後は量子力学、量子脳裏論にまで到達する。
とりあえずでもいいので、ぜひ買っておくべき本です。

そして、まずは興味のあるところから拾い読みしてみる。
読んで理解できない部分があっても、それより前に必ず解説されています。
なので、この本以外必要なし!

もちろん、中学2年生レベルの国語読解力は必要です。
大人ならそれはokでしょう。
愛と努力と忍耐さえあれば、読み進めることが出来ると思います。
とは言っても、通読するには1年以上はかかることを覚悟する必要はあります。
だって、学問に王道はないんですから。

小学生以下のお子さんがいる家庭なら、買って本棚に入れておくだけでもいい。
子どもが中学生や高校生になったときに、手に取るかもしれません。
何よりこんないい本が家にあるというだけで、家の中が知的な雰囲気になるんですよ!

2009年1月13日火曜日

実用としての勉強

こんにちは

今年の目標「1級建築士」受験のための勉強も順調です。
基本書(基本となる教科書、今回の場合『一級建築士(受験)学科総合対策』霞ヶ関出版\3000-)をざっと通読し、試験範囲とそのレベルを確認し終えました。
ほぼ一月ほどで読了です。
1級建築士の基本書の厚さは、放射線主任者の時の半分しかない。
それにぼくにとって建築のことは<門前の小僧>なので、ザクザク読み進めることができましたよ。

もちろんすべて頭に入ったわけじゃありません。
何がどこに書いてあったかが分かる程度。
インデックスが頭に入ったってところでしょうか。
基本書の通読はその程度でいいんです。

これから過去問を解き始めます。
そのとき分からない、理解が足らない問題に出くわしたら、基本書を再読するのです。
インデックスが頭に入っているので、基本書のどこを読めばいいのかだいたい分かります。
そうやって問題を解きながら基本書を精読していく。
過去問を解きながら勉強するのは合理的なんです。

教科書だって重要なこともそうでもないこともいろいろ書いてあります。
どこが重要か、出題者はどこをポイントとしているのか、それは過去問に顕れています。
重要なポイントは、過去に何度も繰り返し出題されている。
そういうところをしっかり勉強すれば、確実に得点できるのです。

そして、重要ポイントは、過去に何度も繰り返し出題されているわけですから、実務上も重要なことなんです。
実務に活かすためには、重要ポイントはしっかりと身につけておくべきです。
資格のための勉強ではなく、将来の自分のために勉強する。
しっかりとした基礎力を身につけるために、資格試験を利用するのです。

以前書いた「試験を楽しもう」に対して、若い同僚からこういうコメントをもらいました。

> 今日の「試験を楽しもう」については、学校の試験が仕事の訓練になるというのは
> 確かに大切な視点だと思います。
> ただこれまた仕事と同様、能率を重視するあまりに学問本来の楽しみが奪われる危
> 険もはらんでいると思います。

「学問本来の楽しみ」なーんて言うヤツは、きっと勉強が嫌いなんでしょうねー。
あはははは。
ま、学問本来の本当の楽しみが分かるのは、大学院修士課程を終える頃なんだとぼくは思います。
学校の試験や資格試験は、学問の楽しみとはそれほど関係がありません。
むしろ無関係。
「実用のための勉強」だと思うからです。
効率的、合理的に仕事が出来るようになるのが目的。
ぼくが勉強しているのは、ラクに生きられるようになるから、と言ってもいい。

勉強をすると、世の中の見晴らしがよくなります。
何が正しくて何が間違いか、素早く判断できるようになります。
そうすると過ちを犯すリスクを低減することができます。
その意味で、無知蒙昧は不利なんですよ。

リスクが減れば、余裕も生まれます。
余裕が生まれれば、新たなことにもチャレンジすることもできる。
面白い仕事があったとき、余裕があれば真っ先に「それやりたい!」と手を挙げることができる。
もちろん、やりたいという気持ちだけではだめです。
やれるだけの能力があると、世の中が認めてくれないとね。
勉強して実績も積んでいれば、認めてくれる可能性は高くなるのは当然。

何より早く退勤できます。
早く家に帰って家族との団らんを楽しめる。
仕事上の悩みも不安もなく、夜もぐっすりと眠れる。
そして翌朝、また元気に出勤できるんです。

勝間和代『勝間和代の日本を変えよう』毎日新聞社\1500-にこう書いてありました。

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気がつくと課せられるバカみたいな長時間労働、死ぬほどの残業から逃れるためには、生産性を上げなければならない。
そのためには勉強をしなければならない、ITも使いこなさなければならない、ということが身に染みているのです。
勉強のための勉強ではなく、最終的には仕事のための勉強でもない。
仕事以外の人生時間をつくるための勉強です。(30p)
###

なるほどなるほど。
ワークライフバランスのための勉強ってことですね。
人生をすべて仕事に捧げてしまわないために、効率的、合理的に働かないとなりません。
そのための勉強。
学校の勉強だって、資格試験の勉強だって、最終的にはこれなんでしょうね。

ラクに働き、ワークもライフもバランスのよい人生を自ら造っていく。
ライフを充実させることによってワークも充実させる。
ワークが充実すれば、ライフも充実する。
この良循環を創り出すってわけです。

2009年1月12日月曜日

やっぱり礼儀が大事

こんにちは

3月に越谷科学館ミラクル( http://www.miracle.city.koshigaya.saitama.jp/ )で出張授業をすることになりました。
昨日、ちょこっと遊びに行ってきました。
場所の確認と科学館の様子をたしかめるために。
ちょうど新年イベントでプロの方の実験ショーもやるよていだったので、プロの技を見ておこうと思いました。

最初、はっちゃんとぼくと二人で行こうと思っていました。
元貨物線だった武蔵野線にも乗るので、電車好きのはっちゃんに貨物列車も見せることができるかもしれないって思って。
晶ちゃんに「越谷に行ってくるよ」と伝えると、「私も行きたい!越谷に大きなショッピングモールが出来たので行きたい!」というので、家族で出かけることに。
大きなショッピングモールとは、越谷レイクタウン( http://www.aeon-laketown.jp/ )。
レイクってどんな湖かと思って地図を見たら、調整池。
この調整池近辺を今さかんに再開発しているんですね。
駅まで新しく作っちゃったんです。

で、みんなでレイクタウンへのミニ旅行となりました。
レイクタウンはものすごい混雑。
ここでお昼ご飯を食べようと思っていたんですが、フードコートなど座る場所がないくらい混雑。
仕方なくマックでフライドポテトだけ買って、それをお昼ご飯にしちゃいました。

お昼のあと、晶ちゃんはまだレイクタウンで買い物をしたいと言うので、最初からそのつもりだったらしいのですが、はっちゃんとぼくだけで科学館へ向かいました。
科学館はレイクタウン駅の隣、南越谷駅から徒歩10分。
実験ショーの時間ぎりぎりに到着。
でもはっちゃんはまだおとなしく座っていられるわけがありません。
5分も見ないうちに、「遊び場に行こう!」です。

科学館の中には幼児も遊べる場所があって、1時間ほど遊びました。
科学館の事務室にも立ち寄って、出張授業の担当の先生や館長さんにもご挨拶。
はっちゃんもきちんと挨拶できましたよ。
ジュースもごちそうになって「ありがとうございました。ごちそうさまでした」と言えました。
偉い偉い。

松永暢史『女の子を伸ばす母親は、ここが違う!』扶桑社\1200-にこうありました。

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血を分けた家族ならまだしも、他人から大切に扱ってもらえるようになると言うと、困難な道のように聞こえるかもしれません。しかし、これは意外に簡単なことなのです。
それは、「しっかりとマナーを教え、気持ちよく応対できるいい子にしつけること」。(18p)

世界中の人が博愛精神に満ちあふれているならいざ知らず、「行儀の悪い子」はそうでない子に比べて粗末に扱われる場面が多くなるのは、どうしようもない現実だといえます。(19p)

多くの子どもを指導していると、たまに行儀の悪い子に出会います。
あいさつができない、友だちに対するような言葉遣いしかできない、人にものを教わる態度を知らない・・・
そんな子に出会ったとき、まず思うのは「親が分かっていないんだな、かわいそうに」ということ。
行儀というものは、家庭でしか教えられないというのに、それを教わらなかった子どもは、本当にかわいそうだと思います。
とくにピアノなど芸術系の教室を運営している先生には、「行儀の悪い子、礼儀をわきまえない子には、必要以上のことを教えない」という傾向があります。
あふれるほどの才能があれば話は別ですが、そうではない場合、もう一歩踏み込んで深く教えるかどうかは、子どものふるまいにかんにかかっていると言ってよいでしょう。(88p)
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やっぱりみんなからかわいがられるためには、礼儀が大事なんですよね。
礼儀がなっていない子は、粗末に扱われます。
これは大人になっても同じ。
不躾な態度の若者は、先輩、上司にかわいがってもらえない。
かわいがってもらえないとは、仕事のやり方、ノウハウも教えてもらえないってことです。
それはすごく損ですよねー。

もちろん四六時中礼儀正しくするのは窮屈です。
伸び伸びするときも必要です。
でもTPOをわきまえて、適切に行動する。
どういうときに礼儀正しくするべきか、感じ取ることも大切ですね。
はっちゃんとっちゃんも、礼儀正しく躾けて行こうと思っています。

2009年1月10日土曜日

いじめの定義をまちがえるな

こんにちは

最近、「いじめ」という言葉を間違って使っている人が多いんじゃないかって思います。
無定義に安易に使っているというか。
それが、いじめ問題を複雑にこんがらせている原因だと思います。

一度ちゃんと辞書を引いてみましょう。
辞書的な意味で「いじめ」とは、

 自分より弱い立場にある者を、肉体的・精神的に苦しめること(大辞林)

です。
これをあいまいに解釈する人が多すぎます。

たとえば、金銭を巻き上げられたときもそれを「いじめ」と言ってしまう。
学校で多いですね。
でも他人の金銭を巻き上げるのは「いじめ」の領域を越えています。
それは「犯罪」と言う方が正しい。
犯罪であるのにそれを「いじめ」と言ってしまうと、なんだか犯罪性が薄れてしまいます。
事実を矮小化しているように思える。
それが加害者側にある種の安心感を与えてしまうのではないか。

子どもには犯罪は犯罪だとはっきり言ってやった方が教育的だと思うのです。
「いじめ」なんて言っちゃうから、ことの深刻さが十分認識されないんじゃないか。
学校の先生は法律の訓練をあまりしていないのでしょうか、法に触れるような犯罪性の強いものでも、普通のいじめと同じように扱ってしまっているように思います。
刑法に触れるようなものには毅然と立ち向かい、それが例え学校内でなされたことでも警察に通報するくらいの強い決断が必要だと思います。

子どもの頃の犯罪は、罪に問われない、と誤解している人も多い。
子どもだろうと大人だろうと、同じことをすれば同じ罪なんです。
ただし、子どもの場合は判断力が不十分だとか将来があるからだとかの理由によって、罰は軽減される。
罪と罰を混同してはいけないんです。

もうひとつ、重要なことがあります。
辞書に書いてあったいじめの定義を思い出してください。
いじめは「弱いものいじめ」限定なんです。
田下昌明『一に抱っこ、二に抱っこ、三、四がなくて五に笑顔』高木書房¥1200-にこうありました。

###
いじめという言葉は、本来、弱い者いじめからきています。
私たちは子どもの頃、「弱い者いじめをしてはいけない」と習いました。
「いじめをしてはならない」とは習いませんでした。
つまり、強い者が弱い者に対して、精神的、肉体的な暴力を加えることをいじめといいます。
卑怯な行為ですので、それは許せないということです。
弱い者同士、強い者同士の場合は喧嘩です。
ですから、いじめの根本的な問題は、「弱い者いじめ」です。
このところをはっきりさせていないことが、いじめ問題を複雑にしています。
ですから、「自分は強いのか、弱いのか」、その判断ができるように、大人が子どもにその年代に応じて教えておく必要があります。
それが分かれば、自分はある点で強いそれなのに弱い者をいじめるとなると、それは卑怯だということが分かります。
例えば運動会で一等をとった者には、きちんと一等賞をやる。
そのことによって自分はその分野では強いということを認識できるようになります。
同時にそれをみんなも認めたことになります。
ここのところろをやらないと、いじめという言葉が一人歩きしてしまって、いじめの定義が発生しなくなり、いつまでもいじめがなくならないということになります。(132-133p)
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そうなんです。
いけないこと、卑怯なことは「弱いものいじめ」なんです。
何でもかんでも「いじめ」としてしまうと、あらゆる諍いや暴力も否定してしまうことになります。
弱いもの同士、強いもの同士のけんかなら、子どものうちに大いにやるべきです。
弱いものが強いものへ挑んでいくなんてことだって、やるべき経験だと思います。
こういう「健全」な諍い、暴力も否定してしまうから、子どもが本来的に持つ攻撃性を発揮する場がなくなってしまうのです。
そのためその暴力性が潜伏し、陰湿ないじめへと変貌してしまうのだと思います。

弱いもの同士、強いもの同士のけんかや、弱いものが強いものへ挑んでいくことを通じて、自分がどこが強くてどこが弱いのかも分かってきます。
もちろん誰が弱いのかもわかり、その子にたいしても優しくなれる。
健全なけんかを通じて、卑怯ことはどういうことなのか、卑怯なのは誰なのかも分かってくるんだと思うのです。

2009年1月9日金曜日

ベストエフォートで行こう!

こんにちは

年明け早々、今日からSPring8に出張です。
3月末に完成するXFEL建屋工事も、今日明日が打ち合わせは最終。
しっかりディレクションしてこなくちゃ。

ぼくは自分自身を「実務者」だと規定しています。
実務者は「即断即決」でなくちゃいけないと思います。
迷ったりせず、今の状況、今のデータで、稚拙でもいいから決めてしまう。
そして行動するんです。
迷っていると動き出せません。
動かないと、よくて現状維持、たいては悪くなるだけです。
だからたとえ完璧でなくても即断してしまう。
動き出してそれがまずければ、修正すればいいんです。
まずいことが分かるだけでも進歩。
修正も即断即決なら傷は浅いわけです。

いきなりですが、福沢諭吉『学問のすすめ』から引用です。

###
理想だけが高尚で、行動力のない人間は、他人に嫌われて孤立することがある。
こういう人間が、他人と行動力を比較すれば、もちろん他人にはかなわない。
だが自分の理想に照らして、他人の行動を見れば、そこに自然秘かな軽蔑の念がわくのを禁じ得ない。
ところが、みだりに他人を軽蔑すれば、必ず他人からも軽蔑されるものだ。(略)
おごり高ぶって嫌われる者、人に勝つことだけを望んで嫌われる者、人に多くを望みすぎて嫌われる者、人の悪口を言って嫌われる者--どれをとっても、他人との比較を誤った者ばかりだ。
ひとりよがりの高尚な理想を基準にして、他人の行動を評価するばかりか、そこに勝手な空想を持ち込むために、人に嫌われるもとをつくるのである。
そして最後には、自分から人を遠ざけ、孤立無援の苦境に陥ってしまうのである。(檜谷昭彦現代語訳『学問のすすめ』三笠書房\1300-、195p)
###

思わず笑っちゃいましたよ、福沢先生。
100年以上経った今でもこういう輩は結構いますよ。
自分では何も行動していないのに、他人が一生懸命やっていることを「大したことをやっていない」「その程度しかできないのか」と腐すヤツ。
自分のやることは棚に上げているくせに、自分の理想と照らし合わせて他人の仕事を評価しているんですね。

自分は何も行動していないので、評価不能な状態です。
そういう「安全地帯」にいるから、酷評も可能なんですよね。
それだけ言うなら「じゃあ、おまえもやってみろよ」と言いたくもなります。

そういうヤツはなぜ行動しないのか。
なぜそういう高尚な理想を実現するために、一歩を踏み出そうとしないのか。
その理由を聞くと、今はまだ条件が整っていない、社会の側に障壁がある、あいつがいるから何もできない、e.t.c.なんて言うわけです。
まー、言い訳の類でしょう。
その理想主義、完璧主義は怠惰の裏返しなんだとぼくは思っちゃいます。

確かに、条件が整っていなかったり、障壁があったり、イヤなヤツがいるのかもしれませんよ。
だからといって、全然何もできないということもないと思うんです。
たとえ30%でも、10%でも、5%でも、1%でも、やれることはないのかどうか。

行動力のある人だって、同じように条件が整っていなかったり、障壁があったりしているのです。
それでも今できることを探してやっている。
それはとても理想通りではないわけです。
それを評して「理想にはほど遠い」と言っても、当たり前のことなんですよ。
だって、理想と比べてたとえ30%でも、10%でも、5%でも、1%でも、やれることをやっているんですから。

理想と比べたら大したことはできないかもしれないけど、今の自分にできる範囲で最大限やれることを実行する。
理想通りにはできないからと言って、何もしないのではなく、ちょっとでも前に進もうとする。
そして少しずつでも理想へと近づいていく。
そういう生き方を「ベストエフォートな生き方」と呼びたい。
それが「実務者」の行動指針なんだと、ぼくは思うのです。

自分を演出しよう

こんにちは

去年はいい年でした。
理事長表彰ももらっちゃったし、男女共同参画委員長賞もいただきました。男
女共同参画委員長でもある副理事長にも大変お世話になったので、年末にぼくの青春の味日高昆布をちょびっとお福分けしました。
そしたらお返しにと、虎屋の高級羊羹をいただいちゃいました。
「今年も東奔西走の活躍を楽しみにしていますよ」なーんてお言葉も頂戴。
嬉しいですねー。

昨日、1月分の出張届けを上司に提出しました。
面白い仕事をやってる最中だったので、ちゃちゃっと書いて提出。
そしたら、日付を間違っていたり、出張先の漢字の変換ミスがあったりで、突き返されちゃいました。
まったくぼくって細かなところに気が回らないんだよね。。。

ところでサラリーマンなら、上司が無能に思えるって経験を持つ人は多いと思います。
なんでこんな無能な奴がオレの上司なんだ?って。
もちろんぼくの今の上司のように尊敬に値する上司もいるけど、嫌なことをするのは決まって無能な上司。
なぜこんなことになってしまうのか?!

組織には「ピーターの法則」が働いてしまいます。
どんな組織でもピーターの法則が成立してしまう。
ピーターの法則とは、一言でいうと、 あらゆる組織は無能化するという法則。
組織というものは、時が経つのに従ってすべてのポストはその責任を全うできない無能な人たちばかりになってしまう、というのです。

会社の社員を例に取りましょう。
平社員で優秀な人は係長に、係長で優秀な人は課長に、課長で優秀な人は部長へと昇進します。
そうすると必然的に、昇進したとたんにダメになってしまう人も出てきてしまいます。
平社員で優秀だった人は、例えば客あたりがいいために営業成績がよかったり、手先が器用なため加工機械の操作がうまかったりしたわけです。
その人が昇進して係長になったとすると、直接お客さんと接することは少なくなったり、実際に機械の操作をしなくなったりするわけです。
マネージメントとか事務作業とかもやらなくちゃいけなくなる。
現場にいるからこそ生きたスキルが、昇進すると使えなくなっちゃうんですね。
平社員と係長では当然求められるスキルが異なるわけですから。

係長となっても優秀さを発揮できた人は、課長に昇進します。
課長に求められるスキルも、係長とは違ったものが必要で、係長の時に身につけたスキルがそのまま使えるわけじゃない。
課長となっても有能であれば部長に昇進しますが、また同じことが待っています。

こうして、いずれはどこかの職位に昇進したときその職責を全うできなくなって、すなわち「無能」の烙印を押されて、昇進はそこでストップせざるを得ない。
各層のポストを占めるのは、その職位で無能となった人たちだらけになり、組織は沈滞していく。

ピーターさんはアメリカ人ですから、アメリカの会社や役所を観察してピーターの法則を見つけたのでしょう。
アメリカの組織は実力主義、成果主義です。実力主義の組織ほど、ピーターの法則にからめとられる恐れが大きいということです。

そこで、ピーターさんは「創造的無能のススメ」を提案しています。
自分にとって十分に実力が発揮できるポジションに留まり、昇進させられないようにしよう、ということです。
昇進させるにはちょっと?と思わせる欠点を、自ら演出する。
例えば、会社の付き合いはすべて断る、時々身勝手に休暇をとる、などなど。
適度に「変人」となることで、創造的無能を演出するといいのだと。

ぼくは今のポジションが、自分では楽しく仕事ができるし、実力も発揮できると思っています。
それに今のポジションでまだまだやりたいことがたくさんあります。
今のポジションにぼくを置いておいた方が、職場にとってもメリットが大きいはずです。
そのためにも、創造的無能を演出して、変人でいようと思っています。

というわけで、細かなミスをするのもぼくの演出なんです。
それによって、「関口はまったく細かいことまで気が回らないヤツだよなー。昇格させるのはまだ無理だな」と上司にも思ってもらう。そ
れによって今の自由闊達に活躍できるポジションを確保し続けるのです。

え?演出じゃなくてホントに気が回らないだけでしょ、だって??
あははは、そうかもしれませんねー。
でも自分の短所も上手く活用する。それが人生ってモンです!!わはははは。

ピーターの法則については、藤原和博『プライド--処世術2--』新潮社\1300-に書いてありました。

2009年1月6日火曜日

残業するほど暇じゃない

こんにちは

ぼくは職場の衛生管理者も拝命しています。
そのため安全衛生情報にも触れる機会が多い。
自ら求めるだけでは得られないような情報・知識が向こうからやってきます。
やっぱり法的資格者として選任されていれば、それに関した情報はパッと目に入ります。
強制的に自分に興味関心を呼び起こす、すなわちアンテナが張られるんですね。
また、職場内で普段はあまり付き合うことのない多くの人と知り合うこともできます。
そこで得られた情報・知識・人脈を次の仕事へフィードバックすることもできる。
これは役得です。
確かにこのような本来業務以外の仕事をやることは、ちょっと大変だしめんどう。
でも多少の大変さや面倒くささを補ってあまりある価値があると思います。

労働安全衛生に関する雑誌(こういう専門誌があるんです!)をパラパラと見ていたら、こんな情報がぼくのアンテナに引っかかりました。
「同一時間の残業でも、賃金を支払われる残業より、サービス残業の労働災害の発生率は高くなる」
ほほー。
同じ時間残業してもそれに対して報酬が支払われるかどうかで、肉体や精神に対するダメージが違うんですね。

最近はコンプライアンス流行ですから、多くの会社で労働基準法の適用が厳しくなっています。
法に定められた残業時間数を超えた超過労働は、原則的に厳禁。でもその時間では個々人に与えられた仕事量を処理することができない。
ではどうするかというと、「運用」で法令を守るわけです。
帳簿上は法令を守るんだけど、実態は違反する。
すなわちサービス残業です。

なぜサービス残業だと心身に対するダメージが大きくなってしまうのでしょうか。
それは「緊張感」の違いでしょう。
賃金が支払われると思ったらダラダラはできません。
残業代に見合った仕事の仕方をしないと、上司から文句言われたりするし、自分としてもみっともない。
だから合理的にテキパキと短時間でこなそうとするはずです。
ところが賃金が支払われないとしたら、どうしてもダラダラしちゃいますよね、普通の人間は。
どうせタダ仕事なんだから、多少だらだらやってても上司は文句は言えまい。
オレはタダで仕事をやってやってるんだ、文句あっか!
そういう「甘え」が出ちゃうんですよ。
ひどい人になると、缶ビールなんかコンビニで買って来ちゃって、飲みながら仕事をしたりね。
これじゃー体に悪いですよ。
報酬と仕事のリンクが断ち切られると、こういうことになりがちなんですね。

最近は「裁量労働制」の雇用契約の人も増えてきました。
これは、時間管理はしないけど、所定の労働時間働いたと「みなす」という雇用形態です。
裁量労働制の人も、ダラダラしがちです。
報酬と仕事のリンクが切れちゃう人もいます。
そうすると労働時間が無制限に長くなってしまい、労働災害への道をまっしぐらということにもなりかねません。
裁量労働制の人だって、報酬と仕事はリンクさせておく必要があります。

報酬が労働時間によらず一定だからといって、長時間働くことは損なことです。
だって、報酬が一定なら短時間に仕事をこなせばその分時給換算での報酬は増えるからです。
時給換算での報酬が増えるということは、労働者としての価値が増すということです。
価値が増せば、次の契約の時に報酬を上げていくこともできる。
もちろん、健康も確保しながら。

長野慶太『部下は育てるな!取り替えろ!!』光文社¥952-から引用します。

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ホワイトカラーの場合、仕事は終わらないのが普通だ。
いちいちキリなんかつかないのである。
キリをつけるのは自分だ。(52p)
###

昔から「タダほど高いものはない」って言います。
サービス残業で労働災害になっちゃ、自分も損ですし、会社にも多大な損害を与えます。
だから、サービス残業はしないさせない、ようにしなくてはいけないと思います。
そのために、ちゃんと報酬と仕事がリンクするようなメリハリのある仕事の仕方をしないといけませんね。

何より、自分の価値を高めるような働き方をしなければいけないと思います。
仕事は時間じゃないんです。アウトプット量です。
短時間にできるだけ多くのアウトプットができる方がいいのです。
労働災害は長時間の労働時間で発生します。
決して、たくさんのアウトプットによって発生することはないんです。
がむしゃらに集中して脳が発熱するくらい8時間働く人より、だらだらと毎日12時間労働の人の方が、労働災害になりやすいんです。

だから、集中して短時間にこなしていく。
そのためには、自分でどこまでやれば合格点を採れるのか、キリを付ける必要がある。
キリを付けるには、知識と経験が必要。
短時間に合理的に働くために、意図的に経験を積み、判断の基準となる知識を学んでいく必要があるんだと思っています。

2009年1月5日月曜日

お年玉は半分使う

こんにちは

お正月、はっちゃんとっちゃんもいっちょまえにお年玉をもらいましたよ。
それぞれ総額1万円くらいになりました。
お年玉などお小遣いをもらったとき、それをどう使うかは以下の方針にしていこうと思っています。

 50%を好きなものを買う
 45%を貯金
 5%を寄付

これはワタミの社長渡辺さんの本に書いてあったことの真似です。
渡辺家でもこうしているそうです。
いいことは真似しなくちゃね。

ぼくが子どもの頃は、お年玉ほぼ全額を親に没収され、貯金されてしまいました。
それはそれで子どもの未来のためにいいことなのかもしれませんが、ちょっとつまらない。
その上、せっかくもらったお年玉への感謝の気持ちも持ちづらい。
だからといって全額使ってしまうのも、計画なさ過ぎ。
普段欲しいと思っていてもお金が足りなくて買えなかったものを、このチャンスに買うのも嬉しいことです。
そのことによって「おじいちゃんからお年玉をもらえたからこれを買うことが出来たんだ」という感謝の気持ちも生まれると思います。
買ったものをおじいちゃんに見せに行って、一緒に遊んだりするのも楽しいですしね。

だから、半分は使ってもいいことにしようと思っています。
残り半分は貯金。

はっちゃんとっちゃんにもお年玉半分、5000円までだったら何を買ってもいいことにしました。
まあ、はっちゃん4歳でもまだ5000円がどのくらいの価値のあるお金か分からないかもしれません。
一緒におもちゃ売り場に行って、欲しいものを選んだとき、それが予算内で買えるのかどうか教えてあげる必要はまだありますね。

で、さすがはっちゃんはすでに目星を付けていたらしく、近所のスーパーコモディイイダのおもちゃ売り場ですぐ選びました。
プラレールJR東日本新幹線セット\4300-です。
まだちょっぴり残額があったので、ジュースの自動販売機のおもちゃ\800-も買いました。
ちょっぴり5000円を超過してしまいましたが、それもご愛敬でしょう。

とっちゃんはというと、まだまだ物欲がないらしく、シマチュウのおもちゃ売り場でコンクリートミキサー車\600-を買いました。
それだけで満足みたいです。

ゆくゆくは、加えてちょっぴり寄付もしていきたいです。
お年玉をもらえるのだって、自分や家族だけのおかげではありません。
世の中の多くの人のおかげでもある。
そのことも意識してもらいたいので寄付も大事だと思います。
今のところ寄付は実行していませんが、子どもたちの精神の発達具合を見ながら実践していこうと思っています。

2009年1月4日日曜日

忍耐とは何か

こんにちは

ぼくは毎年、「字たくさん」の年賀状を作っています。
初めて受け取る人はびっくりするみたい。
でも年賀状だってコミュニケーションのひとつ。
ただ定型の印刷物の年賀状なんか受け取っても、あまり嬉しくもない。
それより、ちょっと面白いなって思ってもらいたい。
そこから対話が始まるなんてこともあるかもしれないしね。

こういう「字たくさん」の年賀状は、ぼくの尊敬する小学校教師である向山洋一さんのマネなんです。
ぼくも向山さんから初めて年賀状をもらったときはびっくりしましたよ。
こういうのもありかー!って発見もありました。
以来、真似しているんです。
いいことは真似しなくちゃね。

で、今年の年賀状はこんなのです。

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あけましておめでとうございます。
おかげさまで今年も家族そろって元気に新年を迎えることができました。
はっちゃんは4歳、昨年4月から幼稚園年少組でがんばりました。
とっちゃんはまもなく2歳、言葉も増え元気に走り回っています。
晶ちゃんもでっかいとっちゃんにおっぱいをいっぱい飲ませながら、母親業奮闘中です。

昨年末、春立小学校時代の教え子の結婚式に家族で呼んでもらいました。
乾杯のスピーチもやらせてもらい、「いい家族を築くには愛だけではいけません。努力と忍耐も大切です」と はなむけの言葉を贈りました。

確かにどんな場合でも人生には忍耐が必要です。
忍耐とはただ我慢するということではなく、今自分にできることをひとつひとつこなしていくということだと思います。
人生、なかなか自分の思うとおりにはいかないのが現実です。
でもそうだからといってそれに甘んじ、我慢するのではなく、コツコツと理想に向かって一歩ずつ、少しずつでも実践していく。
これが忍耐なんだと思うのです。
忍耐力こそ人生を切りひらく要なんだと、この歳になってようやく分かってきました。

哲学者森信三氏もあるべき父親像のひとつとして、

  父親はまず一事を通して
     我が子に忍耐力を育てる躾をすべきである

と言っています。
父親として妻や子どもに示すべき一事は、やはりいい仕事をすることだと思います。
それも楽しんで快活にしている姿を見せる。

今年はX線自由電子レーザー施設の建物が完成します。
次世代スーパーコンピュータ施設の工事も佳境を迎えます。
どちらも大プロジェクトであり、一筋縄ではいかないかもしれません。
それでも忍耐をもって一歩ずつ着実かつ確実に進めていきたいと思っています。
にこやかに楽しんで。

今年もよろしくお願いします。
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ところで、「忍耐」と似た意味の言葉に「我慢」があります。
この二つはどこがどう違うのでしょうか。
ぼくは次のように定義しています。 

 忍耐;成功への過程
 我慢;破滅への道

最近、子どもだけじゃなく大人でも「キレる」人が増えてきました。
こういう人は我慢が足りないのだと思っている人が多い。
でも違うんですよ。
キレる人は、けっこう我慢しているんです。

忠臣蔵というお話があります。四十七士の討ち入りの話ですね。
お殿様である浅野内匠頭は我慢強いですよー。
吉良上野介に「バカだ」「常識がない」「田舎者」と蔑まれても、我慢に我慢を重ねる。
そしてとうとう我慢の限界に達してしまい、ぶち切れて、殿中での刃傷沙汰を起こしてしまいます。

ぼくは浅野内匠頭は我慢強いけど、忍耐力はないなーって思います。
なぜぶち切れる前に、何とかしようとしなかったのでしょうか。
少しでも作法を覚えていく、仕事で成果を出していくなどして、たとえ吉良氏にバカにされても、他の人から認めてもらう努力はできなかったのでしょうか。
我慢し続けた結果が、切腹、お家取りつぶしなんです。
破滅です。家臣にとっては迷惑な話です。

最近のキレる人も同じような気がしています。
どんな理不尽なことでも我慢してしまう。
自分を押さえ込んでしまうことを第一にしている。
その我慢が許容限度を超えて溢れ出してしまい、キレてしまうようなんです。
ここまでオレは我慢したんだからキレるのも当然だ、オレをここまで我慢させたお前を成敗してくれる!という、まるで浅野内匠頭だね。
もちろん、許容限度、キャパシティも恐ろしく小さく、浅いのも原因なんですがね。

なのでぼくは、我慢はよくない、と思っているのです。
我慢するだけでは現実は何も変わらないのです。たとえ完璧でなくても、少しでもいいから改善していく。
そういう方法はないかどうか考え、行動していく。
それが「忍耐」なんだと思うのです。
忍耐強く続けていくことで、現実はちょっとずつでも変わっていくのです。
そのことによって、自分の許容限度、キャパシティも大きく深くもなっていく。
そしていつかは、成功へとつながっていくんだと思うのです。

前便で、忍耐力を育てるには楽器の習得がいい、と書きました。
五嶋節『天才の育て方』講談社現代新書\700-にも同じことが書いてありました。

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ときどき、うちの子どもは忍耐力がなくて、我慢することができないから、ピアノでも、ヴァイオリンでも、途中でほっぽり出してしまう・・・と嘆かれる親御さんの言葉を聞くことがあります。
子どもによって多少の差はあっても、小さい頃から忍耐力や我慢を身につけている子どもなんて、いるのでしょうか。
子どもは誰でも、すぐに飽きやすく、同じことの繰り返しを一番嫌うもの。
それが、子どもというものです。
なのに、忍耐力がなかったから、ヴァイオリンやピアノを続けられなかったというのは、本末転倒です。(113p)
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忍耐力というのははじめから備わっているものじゃないんですね。
何か一事を通して少しずつ身につけていくもの。
ひとつのことに打ち込んで、できない、うまくいかない、どうやればいいんだろう、と思いつつ続けていく。
工夫も積み重ねる。
できない、うまくいかないからといって、途中であきらめたり投げ出さないことです。

楽器の練習は、同じことを何度も何度もバカみたいに繰り返すことによってしか上達することはありません。しつこくしつこく。
そして、少しできるようになった、うまくいった、ぼくってなかなかやるじゃん、というところまで到達する。そういう経験を通して、忍耐力は身に付いていくものなんだと思います。

子どもならピアノや楽器の練習を通して、学生なら受験勉強も忍耐力のいい訓練になります。
大人なら仕事を通して、家事、育児だって、忍耐力を鍛えられます。
忍耐力が身に付けばつくほど、あらゆることがうまくいくようになるんだと信じています。
だって、何事も成功するまで続ければ必ず成功するんだからね、あたりまえだけど。
途中であきらめちゃうから、失敗に終わるんです。

今日でお正月休みも終わり。
ぼくの今年のキーワードは「忍耐」と決めましたよ。
しつこくねちねちとやり続けていく所存ですので、ご期待下さい!
うひひひひひ。

2009年1月3日土曜日

性格は変えられる

こんにちは

この間、デパートに買い物に行きました。
晶ちゃんが買い物をしている間、はっちゃんとっちゃんと屋上で暇つぶし。
屋上にはペットショップがあり、犬などを見ようと入ってみました。

スピッツという種類の犬が売っていましたが、何か変なんです。
スピッツに対するぼくのイメージは、キャンキャンうるさい犬、というものでした。
ところがペットショップにいたスピッツはあまり鳴かず、おとなしいのです。

家に帰ってインターネットでちょっと調べてみました。
現代の日本の住宅事情に対応するために、マンションやアパートでも飼いやすいように、品種改良によっておとなしいスピッツを作りだしたんだそうです。
品種改良といっても遺伝子操作みたいな高級な技術ではなくて、比較的おとなしい犬同志を交配してもっとおとなしい子犬を産ませ、それをまた交配していくという、古典的な品種改良法でだそうです。
こうして人為的におとなしいスピッツに改良されたのです。

<性格>というものを、「その個体のある程度の期間継続する行動様式」と定義すると、上記スピッツの例は<性格は遺伝する>ことを示しています。
その意味で人間の性格だって遺伝します。
ただし、人間の場合は「学習」ができるため遺伝的に性格がすべて決まってしまうわけではありませんが、素質・要因は確かに遺伝します。
例えば、外向的な性格か内向的な性格かに関しては、50%~60%は遺伝によって決まっているという研究があるそうです。
つまり、外向的な親からは外向的な子どもが生まれやすく、内向的な親の子は内向的になりやすいということです。

自分の子どもを見て「なんかイヤなところが似ちゃったな」と思ったことはありませんか。
人間は遺伝だけではなく学習によっても性格を作っていける動物です。
自分でイヤだと思う性格は、自分で矯正してきたのかもしれません。
あるいは、親や学校で矯正されてきたのかもしれません。
ところが、子どもはまだ「素」のままなのです。
親のイヤな性格はちゃんと遺伝しちゃっているんです。
一生懸命直した性格は、生まれてから学習によって直したんですから、当然遺伝はしない。
だから「似なくてもいいところが似ちゃって。。。」ということになるわけです。

2学期末、幼稚園の個人面談がありました。
幼稚園の先生によるとはっちゃんは、

 ちょっと叱られるとすぐ泣く
 自分から遊びの輪に入らない

のだそうです。
要するに、気が弱くてシャイ。
「もう少しタフになってほしいですね」とか。

ぼくもそう思いますけど、幼児にタフになって欲しいってどうやって?とも思います。
そもそも、ぼくも晶ちゃんも気が弱い。
はっちゃんが気が弱いのは遺伝ですから、仕方ないことです。

それに、気が弱いことは短所だけではありません。
長所でもある。
叱られて泣くのは、叱られたことが理解できたからです。
幼児の頃から叱られても平然としていられるとしたら、それは善悪の区別もつかない鈍感な子どもであるということです。

シャイであるのも、慎重であることでもある。
何も考えずに他の子の遊びに参加するようでは、悪い仲間に加えられちゃう危険もある。
一歩引く態度だって重要です。

性格は根本のところは遺伝で変えることはできません。
でも性格は「その個体のある程度の期間継続する行動様式」なのですから、自らの努力で変えてもいけるものなんです。
行動を変えていけばいいからです。
ぼくは今でこそ図々しいヤツとみんなから思われています。
でもそれは何とかその弱点を克服したいと努力を続けた結果で、自分の思うこと、正しいことを堂々と主張できるよう行動してきたからです。
それには40年以上もかかってしまいました。

はっちゃんも自分の長所と短所を見極めて、これから少しずついいところは伸ばし、よくないところは矯正していってほしいと思います。

2009年1月2日金曜日

礼儀とはルーチンワークである

こんにちは

我が子はっちゃんも4歳になったので、これからは徐々に厳しく躾けていこうと思っています。
3歳まではたっぷりアマアマに育ててきましたしね。
一度にあれこれやるとパンクしますから、ごくごく基本的なことをひとつずつ徹底していく。
まずは教育哲学者の森信三氏の提唱する「躾の三原則」から始めていこうと思っています。

1.挨拶をきちんとせよ
2.返事はハイとはっきりきびきび
3.靴をそろえ、椅子をきちんと仕舞う

ごくごく平凡な躾です。
でも大人でも(大人だから?)できるようでできないですよねー。

最近の若い人を見ていて気になるのは、まあぼくも若い頃はそうだったかもしれないんだけど、お礼も挨拶も返事もやればできるはずなのに、必要なときなのにしないときがあるんだよね。
どういうときにしないのか、その傾向をじっくりと観察してみました。
わかりました。
機嫌の悪いときはしない。
そういうはっきりした傾向があります。

若者たちは、自分が機嫌悪いとき、気分が優れないとき、疲れているとき、悲しいときなどなど、お礼も挨拶も返事もしなくてもいいと思っているらしい。
オレ様優先なんだよね。
おもしろい、おもしろい。

あ、おもしろがってちゃいけませんね。
それって損なことだと思います。
若いうちならそれもまあ可愛いとも言えるんですが、ある程度の年齢になってもそれじゃあ下品なんです。

内田樹/名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』新潮新書\680-から引用します。

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「しつけ」って言い換えればルーティンということでしょう、要するに。
ある布にこうやって折り目つけることが必要なら毎日同じことをやってると、必ずここにいつの間にか折り目が出来るんです。
折り目正しいと言うけども、折らなきゃダメなんです。
何度も何度もこうやって。(内田、196p)

ルーティンというのは植木鉢の土の部分なんです。
土の部分っていうのは、同じことを繰り返していくと練れてきて。
そうすると初めてそこから木が生えてくるんです。
これがないと何も生えやしないんです。
ところがみんな土壌を作らないで花だけ咲かせようとする。
そんなの無理ですよ。(内田、199p)
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躾や礼儀って、自分がどんな状況でもコンスタントにやれるものなんです。
やれなきゃいけないものなんです。
なぜならそれは、「相手への配慮」が基本だからです。
自分が機嫌が悪いときは相手に配慮しない、というわけにはいかないものだからです。

風邪をひいて具合が悪いときでも、知っている人にあったら挨拶する。
プライベートで悲しいことがあっても、上司に呼ばれたらきちんと返事をする。
逆境の中にあっても、靴はそろえ、椅子は仕舞う。
それが「折り目正しい」ことであり、礼儀なんです。
そうできるようにすることが「躾」なんだと思うんです。
そしてそうできるから、周りの人も認めてくれ、やがては自分へとよいことが帰ってくる。
あいつ、大変な状況なのによくやっていて、けなげなヤツだなー、って思ってもらえる。
躾は、身が美しいと書くとおり、周りの人に<品>を感じさせるものなんです。

躾はどれも、平凡なことかもしれません。
でもそれを、いついかなる時でもできるように身につけるのは大変なこと。
平凡こそ素晴らしく、なかなか得難いものなんだと思います。
平凡なんだけどなかなか身に付かなく、いったん身に付くと人生のアドバンテージになるんだと思っています。