2010年8月31日火曜日

バカスキャンのススメ

こんにちは

「バカになれる男が勝つ」と言っても、本当のバカでは困りますよ。
”なれる”と言うところがミソで、時にはバカになってもやるべきことをやる勇気と技術が必要だ、ということです。
年がら年中バカではいけないんです。
それはバカに”なれる”のではなく、ただのバカってことですからね。

悪口を言う人がいます。
誰が悪い、あいつが悪い、こいつもヒドイ。
さっき悪口を言っていたその本人に、今度は他の人の悪口を言ったりしていてね。
するってーと何かい、君の周りは悪人だらけなのかい?
そう聞きたくなっちゃいます。

始末書が好きなおじさんがいます。
あの業者が下手こいた、それ始末書だ。
この業者がまた下手こいた、始末書を書け。
なぜかそのおじさんばかり始末書が貯まっていきます。
どうしておじさんの関係する業者さんは不始末ばかり起こすのかなー。

内田樹『ためらいの倫理学』冬弓舎\2000-にこうありました。

###
私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。
そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。(17p)
###

みんなの悪口を言い、みんなを悪者にしたい人は、自分は間違っていないと信じているんでしょう。
周りの人みーんな悪人で、自分だけが正しい。
そんなことってあるのでしょうか。
端から見れば、悪いのはお前じゃん、でしょう。

始末書を取りたがるおじさんは、失敗したのは自分ではないと思いこんでいるんでしょう。
失敗するのは業者さんで、なぜかオレが担当するとトラブルばかりだ、運が悪い。
そんなことってあるのでしょうか。
端から見れば、失敗の根本原因はおじさんなんじゃん、でしょう。

内田さんはこうも言います。

###
私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。
自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることがで
きているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。
自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。(32p)
###

つまり、バカな人ほど自分はバカじゃない、間違っていない、正しいんだと思っているんですよね。
あ~、恐。。。

自分の行動パターンが変わらなければ、対人関係も変わりません。
ある人とつきあって上手く行かなかったとき、それは相手が悪いからだと思ってしまえば、自分は変わるわけがありません。
行動パターンが変わらないから、新たな人間関係においてもまた上手く行かないのは当然。
上手く行かないのは他人のせいだと思っていますから、その人の悪口を言うことになる。
相変わらず自分は間違っていないと思い込んでいるから、また次の新たな人間関係も上手く行かない。
そしてまた悪口を言う。
悪口ばっかりの人はその悪循環にはまっているんですよ。

始末書おじさんも同じですね。
確かにトラブルを実際に起こしたのは業者さんです。
でも自分にも何かその原因があったのではないかと反省するかどうか。
たとえば指示が悪かったとかね。
自分への反省がなく、100%悪いのは業者さんだと思ってしまえば、自分は変わりません。
当然のように、別の業者さんに対しても、指示が悪いまま仕事をしてしまう。
よってまたトラブルが発生する。
悪循環です。

逆説的だけど、頭のよい人っていうのは、もしかしたら自分はバカかもしれない、間違っているかもしれないと常に考えている人なんです。
いつも自分のバカモードをスキャンして、バカなところを発見したらデバグしている。
だからますます頭がよくなるってわけです。
有能は人は「反省の塊」なんですよ。
反省し、改善するから、変わっていける。

バカな人は、自分が正しいと思っているから、デバグされることがない。
その結果、ずっとバカのままに留まってしまうのです。
反省しないからね。

反省とは、決して謝ったり、懺悔したりすることじゃないんです。
謝ったり、懺悔したりしてお終いにしちゃいけない。
自分を変えていくことが本当の反省なんですよ。
それには常に自分のバカモードをスキャンすること。
バカモードを発見したら、即デバグすることなんです。

2010年8月30日月曜日

実害がないなら気にしない

こんにちは

「あ、しまった!」
と思ったとたん、新幹線は相生の駅を発車してしまいました。
ぼくは月に2回ほど、新幹線に乗ってSPring8へ出張します。
最寄り駅は相生駅です。
ぼくは考え事をしたり、読書に集中してしまうと、その他のことが疎かになるんですよ。
街を歩いていて電信柱にぶつかったりすることもある。
電車も乗り過ごしてしまうこともたまにあるんです。

新幹線の場合、乗り過ごすとかなりの距離進んでしまうので、読書は下車駅のひとつ前でいったん中断するようにしています。
が、先週の出張ではつい読み続けちゃったんですよ、面白かったから。
気づいたときには遅く、岡山まで行く羽目になってしまいました。
こんなことは4~5年ぶりです。

4~5年前にも新幹線を岡山まで乗り過ごしたことがあり、約束の打ち合わせ時刻に間に合うように、岡山駅で到着していた上り列車まで走って乗り換えたことを思い出しました。
そのことをインターネット上のある教育関係の掲示板に投稿したところ、「関口はキセル乗車をしている」と言われ、へこみました。
その時も、乗り換えた新幹線の中で巡回に来た車掌さんに「間違えて乗り過ごしました」と説明し、「注意してくださいよ」と言われて下車駅まで戻ることを認めてもらえました。
乗り過ごしたのは事実であり、本来なら戻るための運賃も支払うのが原則ですが、車掌さんに認めてもらえたのです。
掲示板に書き込むときに、それは原則外だから車掌さんに迷惑がかかっても困りますから、そのことは書かなかったんですね。
そこを捕まれて「キセル」呼ばわりされてしまったわけです。

世の中には、他人を貶め、攻撃することによって自分を格上にしたいと思う人もいて、嫌になってしまいます。
特にネット内の匿名掲示板に蔓延しています。
それって下品ですよね。
下品なだけじゃなく、無意味だし損なことだと思います。
だって、いくら他人を貶め、攻撃したって、自分自身は変わっていないんですから。
何か努力して自分自身を高め、それによって格上になったわけじゃないんですから。

話を先週の乗り過ごしたことに戻して。
岡山駅に着いて、その日打ち合わせする人に予定より1時間くらい遅れる旨電話しました。
そして、駅構内にある精算所に行って、乗り過ごしてしまったことを駅員さんに伝えました。
駅員さんは、ぼくの切符に「誤乗」という印を押して、相生まで戻るには何時の列車に乗ればいいかまで教えてくれました。
特におとがめもなしです。
つまり、JRも故意ではなく悪意のないごくまれな誤乗車に対しては寛容なんですね。
キセルは、故意であり悪意もあり常習的に自己の利益のためにする犯罪ですから。
それと誤乗車は別物なんです。
安心して上り新幹線に乗り、相生まで戻ることができました。

ネットだけじゃなく、時にいわれない悪口を言われることもありますよね。
以前のぼくは、その度に落ち込んだり傷ついたりしていました。
誤解を解くために説明したり反論したり。
でもこれは無駄だって分かりました。
だって悪口を言う人のねらいはぼくと議論することじゃないんですから。
ただただぼくを傷つけへこますことが目的なんです。
そういうのに引っかかっては損だと気づいたんです。

悪口を言われて困ることは何か、って考えたんですよ。
どんな実害があるのかって。
そうしたらたいした損害はないんですよ。
自分や家族の生命を脅かされたり、財産を侵害されることもないんですよ、たいてい。
悪口が会社での評価や出世に響くこともない。
だいたいぼくは出世したくないわけだしー。あはははは。
残るは、気分が悪くなったり傷ついたりすることだけなんですよ。

気分が悪くなったり傷ついたりするって、自分の側の問題じゃないですか。
自分が勝手に気分を害したり傷ついたりしているだけなんです。
そしてそれこそが悪口を言う相手が望んでいること。
おめおめとその手に乗ってたまるか!ですよ。
だから、実害がない悪口は気にしないことに決めたんです。
反論もしない、ふ~んと軽く受け流す。
それが一番得なことだって分かったんです。
もちろんまだまだ修業が足らなくて、悪口を言われるとやっぱり気になりますよ、いまだに。
でも「気にしない、気にしない」と心の中でつぶやいて、やり過ごせるようになりました。

新渡戸稲造『自分をあと1メートル深く掘れ!』三笠書房¥1400-にこうありました。

###
「いい気味だ」などと言っている自分の将来がどうなるかを考えてみるとよい。
敵に降りかかってきた困難は、いつかは自分の上に来ないとも限らない。
たとえ自分に来なくとも、敵が困ることは少しも自分の利益とならない。
だから自分には喜ぶべき理由がない。(213p)
###

おお!逆もまた真ですね。
誰かが失敗すると、それを見て溜飲を下げ、喜ぶという心持ちもあります。
でも、誰かが失敗して自分の得になるかどうかというと、そんなことはない。
誰かの失敗を見て優越感を持つのも下品なことです。
だって、自分自身が努力して相手にうち勝ったわけじゃないからね。
これも自分自身の気分だけの問題なんです。
だから、実害がない悪口を気にしないのと同様に、実益のない優越感も気にしないのがいいのです。
誰かの失敗を見て優越感を持つのではなく、その失敗を自分のものと捉えて、その原因を考え自分は同じ失敗をしないように努力する。
それが実益を得る心構えだと思います。

2010年8月29日日曜日

幸せの作り方


こんにちは

今回は引用だけ。
それで十分。
桜井章一『壁をブチ破る最強の言葉』ゴマ文庫\533-から。

###
誰かの幸福を羨んだり、誰かに幸福にしてもらおう、などと思っているうちは、多分その人は幸福にはなれないでしょう。
羨むという心そのものが邪悪ですし、ましてや誰かに幸福にしてもらおうなどというのは、幸福にたかっているわけで、ハエと同じ。
人間として卑しいことです。
そんな人が幸福になれるわけがありません。(17p)
###

###
幸福は、誰かに求めるのでなく、誰かにあげるものです。
誰かにつくってあげるものです。
子どもがいたら、
(この子に幸福をつくってあげよう)
とか、友だちがいたら
(この人に幸福をあげよう)
とか、そういう意識がある人は、多かれ少なかれ幸福感があるはずです。(19p)
###

バカになれる男が勝つ!


こんにちは

先週末は電気設備学会全国大会がありました。
ぼくも主著で1本、共著で1本発表しました。
お題は、次世代スパコンの電源設備についてです。
論文はけっこうまじめに書きましたが、口演の方は学会発表としてはハチャメチャなものにした。
だってサイエンスはエンターテイメントですからねー。
面白い、というのが第一条件です。
まずは興味、関心を持ってもらうこと。
関心を持ってもらって、論文の方も読んでもらう。
そういう戦略なんです。

嬉しいことに、ぼくの発表が始まるときには会場にかなりの人が集まってくれました。
ほぼ満席状態。
以前一緒に仕事をした人から「お久しぶりです。聞かせてもらいますよ」なんて声をかけられたりね。
客が多いと燃えるのは、元ロケンローラーの性。
昨年の事業仕分けでのレンホウ女史の「2番じゃダメなんですか」をつかみにして、しゃべりまくりました。
なぜスパコンは必要なのかという話を中心に、そのために電源設備はどうあるべきか、実際にどうしたのか、そして技術立国日本はどうあるべきかなんて大風呂敷を広げたりして。
学会口演には珍しく爆笑してもらったりして、ぼくはもう大満足でしたー。

岡ノ谷一夫『言葉はなぜ生まれたのか』文藝春秋\1429-にこうありました。

###
しかし、発想を転換すると「複雑な歌をうたえるということは、それだけ余力がある証拠」という見方もできます。
頭脳がすぐれ、体力があり余っているからこそ、危険をおかしてバカげたことにエネルギーを使えるのです。(42p)
###

岡ノ谷さんは鳥のさえずりの中に文法があることを発見した研究者です。
鳥はなぜ美しく鳴くのか。
鳴けば敵に見つかる可能性が高くなります。
美しく複雑なさえずりをするためにそっちに気を取られて、敵が来たのを見落とす危険もある。
生存するためには不合理な行動です。
言ってみればバカ。
なぜ鳥は、オスはこんなバカな行動をするのか。
岡ノ谷さんの説にあるように、「余力」をそれで示しているんですね。
余力が、頭脳が優れ、体力があることを示し、それがメスに選ばれる原因になる。

ぼくの電気設備学会での発表も、バカげたことだと言えます。
全部の口演者リストを見ても、発注者の発表なんてぼく以外だれもいない。
設計会社、電機メーカー、施工会社ばかり。
何でよ?
何のメリットもないからに違いありません。
実際、ぼくが学会発表しても我が社の中ではちっとも偉くなれませんし、浮いてしまうだけです。
まーどうせ変わり者で通ってますから、へっちゃらなんですがねー。
あはははは。

それでもぼくはやるのはなぜか。
別にメスにモテたいからじゃないですよ。
バカをやりたいからです。
余力があるからバカができる、だけじゃなく、バカをやるから実力が伸びると信じているんです。
実力が伸びれば、必然的に余力も生まれます。
青色発光ダイオードを発明した中村修司さんは

 バカになれる男が勝つ!

と言っています。
バカになるとは、枠に収まらない、枠を突き破っていく、ということです。
枠からはみ出ず、やりたいこともやらずに一生を終えてもつまらないですよ。
たとえちょっとばっかり出世したとしてもね。
バカをやって、みんなから笑ってもらい、そしてちょびっと誰かの役に立つ。
そういう人生の方が、長い目で見てオトクなんじゃないか。
ぼくはそう思っているんです。


電気設備学会で発表した論文、口演のスライド、ご興味のある方にお送りします。
そんな「余力」のある方(=バカ)はご連絡下さい。
あははははは。

2010年8月25日水曜日

使えないものを後生大事にとっておくな


こんにちは

昨日はぼくの尊敬する野口芳宏さんの講演を聴きに土浦まで行ってきました。
友人の宮内さんの主催する会です。
お題は、国語授業と道徳教育。教師向けの講演会ですね。
野口さんはぼくの父と同じ昭和11年生まれですから、73才でしょうか。
初めてお会いした30年前と変わらず、張りのある声での講演でした。
何才になっても人から求められる人生っていいですね。

講演自体も大変楽しみましたが、野口さんの行動にシビレてしまったのでレポートしますね。
すごいなーって思ったこと。
ぼくはこういうささやかな行為にしびれちゃうんですよ。

会場にはホワイトボードが備え付けられていました。
ホワイトボードには水性ペンを使って書きますよね。
インクがなくなっていて書けないペンがあって、取り替えてもまた書けないペンで、いらいらしたことがあるでしょう。
何で書けないペンなのに置いてあるのよ!って。

昨日の会場にも書けないペンが置いてあったんですね。
キャップを外してホワイトボードに書こうとしても、薄くて書けない。
そういうとき、みなさんならどうしますか。
たぶん、またキャップをはめてそこに置く、それから違うペンを取るんじゃないかな。

ところが野口さんは、書けないペンはキャップを外したままにしたんです。
これはびっくりしました。
そして感心しました。うなってしまいました。
キャップを外しっぱなしにすることによって、使えないペンであることが明白になるからです。
またキャップをしてしまうと、使えるのか使えないのか分からなくなってしまう。
自分でもまたその使えないペンを使おうとしてしまったりね。
とてもイライラしますし、不合理です。

でも、キャップを外しっぱなしにすると「誰だ、キャップを外しっぱなしにしたのは!」と叱られてしまうこともあるかもしれません。
使えないペンなのに、そう叱られるのが嫌でまたキャップをしてしまうっていう人も多いかも。
そうして使えないペンはいつまでもそこに存在し続け、人々をイライラさせ続けてしまうんです。

でも野口さんは、そういう汚名を着せられてもかまわない、それよりも使えないペンを後生大事に取っておいてみんなに迷惑をかけるのはよくないことだ、という心持ちなんでしょうね。
だから堂々と使えないものは使えないとして、キャップを外しっぱなしにする。
素晴らしいと思います。
ぼくも真似しよっと!


講演が終わったあとぼくは「みんなで集合写真を撮りましょう!」って呼びかけました。
野口さんのお話を聞くために、夏休みの暑い中一日かけて集まった仲間です。
その思い出を写真に残すのも楽しいことだと思います。
それに写真をフック(鉤)にして、写真を見る度に当日野口さんから聞いた話を思い出す、って効用もあるからね。

2010年8月24日火曜日

会話量一定の法則

こんにちは

昨日は労働組合の団体交渉でした。
団体交渉と言っても昨日のは「引き継ぎ断交」。
新しい労組執行委員が決まったので、経営者側への顔見せなんです。
ぼくは旧委員長ですので、もうお役ご免です。
ぼくは既にメインじゃなくなっているのです。
次期のことは次期執行委員にゆだねることにしています。
引き継ぐべきコトは引き継いだのだから、もうぼくの出番は終わってるんです。
だから出しゃばらない、しゃべりすぎないようにしようと思いました。
人間、節度が大切ですからな。

が、元来おしゃべりなぼくです。
しゃべるなと言われても、しゃべってしまう。
下手をすると本来メインとなるべき人を差し置いてしゃべりまくってしまうかもしれません。
それはいけませんよね。

その時思い出したのが「会話量一定の法則」です。
人間の1日にできる会話量というのは、ほぼ一定で、約1万語なんだそうです。
1万語しゃべると、もうそれ以上しゃべる気がなくなってしまう。
これだ!と思いました。

幸い団体交渉は夕刻からでした。
それまでにしゃべりまくって1万語消費してしまえばいい。
昨日は朝から工程会議などがびっしり詰まっていましたから、これ幸い。
もうフルスロットルでぺらぺらしゃべりまくりましたよー。
おかげで団体交渉の時には、もうしゃべるのはうんざり、という状態になりました。
交渉中何度かしゃべりたい欲求もありましたが、なんとか自分を抑えることができました。
次期委員長をメインとした団体交渉を実現できたんです。
よかった、よかった。

吉越浩一郎『残業ゼロの人生力』日本能率協会¥1400-にこう書いてありました。

###
もともと人間が話す言葉の量というのは決まっていて、仮にそれを一日一万語とすれば、夫は会社で九千九百語を話してしまいます。
ところが、昼間話し相手のいない妻は一万語がそっくりそのまま夜まで残っていて、それを帰宅した夫に向けてぶつけてくるので、夫は、家庭ではひたすら聞き役に回らざるを得ません。
ただ、問題は話すのと聞くのはシンクロしていて、聞くのも一万語が限界だという点。
すなわち妻が夫に向かって一万語しゃべっても、100語を越えると夫の耳は自動的に閉じてしまうのです。
だから、家庭では夫は無口で妻はよくしゃべり、しかも情報共有がまるでできないということになるという話を、何かで目にしたことがあります。(178p)
###

おお、なるほど。
逆もまた真なりですねー。
会話量が1万語に達していない人は、身体の中に言葉が充満している。
充満した言葉を開放したい、つまりしゃべりたい、誰かに話を聴いてほしい、という欲求が渦巻いているんです。
まさに「俺の話を聴け!」なんです。
話を聴いてくれる人がいないってことは、だからとても危険な状況なんです。

コミュニケーションの基本は言葉による会話です。
そう考えると、会話もある意味「資源」なんですね。
だから、大切に有効に使わなくちゃいけない。
どうでもいい雑談で無駄に消費してしまうのはダメなんです。
女房や家族とのコミュニケーションのためにも、残しておかなくちゃね。
だって、女房や家族とのコミュニケーションも、亭主にとって大切なことだからね。
まー、一万語のうち半分の5000語くらいは家族のために残しておくのがいいかもしれませんね。

2010年8月23日月曜日

コミュニケーション能力を磨け


こんにちは

我が家では、子どもが何か要求するときは「正しい言葉遣い」で言わせるようにしています(もちろん大人も)。
たとえばジュースが飲みたいとき、ただ「ジュース!」と言うのでは対応しません。
「ジュース下さい」と言ったら、「はい、どうぞ」と言って注いであげます。
もちろん「ありがとう」も必ず言わせます。

コミュニケーションの基本は「礼儀」なんだと思います。
何かをしてもらいたいときには、それなりの言葉遣いと態度が必要。
これはモノだけじゃなく、人から何かを教えてもらうときも基本になります。
礼儀のなっていない子は、誰からもまともに取り合ってもらえません。
礼儀正しくさえあれば、自分の欲しいものが手に入りやすくなり、自分の足りない能力を伸ばしていけるのです。
もちろん、自分の言い分を聞いてもらうためには、礼儀正しくないといけない。
不躾な態度と言葉遣いでは、例えそれが正しいことを言っていたとしても、誰も聞く耳を持ってもらえないのです。

つまり、礼儀がコミュニケーションの「始まり」なんですよ。
そこから良好にコミュニケーションが始まる。
始まれば、人とのやりとりが生まれます。
自分が認められ、また他人も認めていく。
認め認められがコミュニケーションそのものだと思います。

『週間アスキー'10.8.31』神足裕司「Scene2010」というエッセイに、「カネ、女、それは犯罪の動機ではない。殺人の動機は昔から俺の話を聴け、だ」とありました。
このエッセイは、秋葉原無差別殺人事件を取り上げています。
先日行われた裁判での犯人の言い分を聞いて、神足さんは「これはコミュニケーションの問題だ」と思ったそうなんです。
犯人には誰も自分の言い分を聞いてくれる人がいなかった。
親も友人も誰もかも。
自分の言い分を無理にでも聞かせるために、あんな事件を引き起こしてしまったのだと。

なぜ自分の言い分を聞いてくれないのか。
それはコミュニケーションのルールを知らなかったからです。
親からも教師からも誰からも教えてもらえなかったからです。
つまりコミュニケーションを始めるための礼儀がなかった。
ぼくはそう思います。

人間の怒りの大部分は、相手に過剰な期待をかけることから起こるものだと思います。
いつも不満を持ち怒っている人の特徴は「誰それはあれをやってくれない」と言っていることです。
相手に自分勝手に過剰な期待をかけ、それが満たされないと相手の責任にする。
自分では何もしないにも関わらずね。
自分でタネを蒔き、自分で怒りの芽を育てているんです。
まあ自作自演ですよね。
だから、期待をかけられた側はびっくりするわけです。
何でこいつこんなに怒ってるんだ?って。

コミュニケーションが始まれば、逆に相手の悪いところ、くだらないところもきちんと見えてきます。
その中で、適当にかわす技も身に付いてきます。
神足さんはエッセイの中でこう書いています。

###
少しコミュニケーションがあれば、”親”や”会社”が自分に悪意を持つほどヒマではないとわかるのだが。
親や社会など無能でつまらん、とわかれば怒りは自然に失せるのだが。
###

礼儀正しくあり、まともなコミュニケーションができていれば、相手に過剰な期待をかけることは失礼だし、自分勝手なことだとわかってきます。
どの程度甘えられて、どこからは自分でやらなくちゃいけないのか。
それが分かってくるんです。
それが分かってくると、不満を持つこともなくなってくる。
子ども時代はこういうことの訓練期間だとぼくは思うんです。
だから礼儀正しくあれ、人とのコミュニケーションをたくさん行え、なんです。

2010年8月19日木曜日

考えることを怠るな


こんにちは

「関口さん、このカードリーダ感度が悪いんだよ」
スパコン棟を見学にいらした科教協のみなさんを玄関でお見送りしたあと、そこにいた技術系トップの方に言われました。
スパコン棟はICカードによる入退管理システムを設置しています。
エントランス部分は駅の改札と同じようなフラッパーゲートを取り付けました。

我が社は社員証がスイカと同じフェリカカードになっていますので、これを認証カードとして使ってセキュリティシステムを構築しています。
ちなみにフェリカカードもソニーの開発品です。
CD(コンパクトディスク)もリチウムイオン電池もソニーの開発品です。
松下幸之助が「ソニーは日本の研究所だ」と言ったのは、本当ですね。

話を戻して、さっそくぼくのIDカードで試してみました。
動作は正常にしますが、確かに若干感度が悪いようです。
カードをしっかりとタッチさせないと感知しないんです。
これだと多人数が入館する朝の出勤時には困ることもあると思いました。
入館装置のところに渋滞が発生してしまいますからね。

アナログな機械なら自分でちょちょいと直してしまうところですが、精密機械なので自分ではいじれない。
すぐ施工を担当した方へ電子メールを入れました。
そんなに困ってはいないけど何かのついでに見て欲しいと。
さすが優秀な技術者君、すぐ返事が来ました。
返事が早いのは能力が高い証拠なんです。
返事をするってことは、即行動に移すってことです。
さっと考え、さっと行動を始める。
すぐ問題は解決するってわけです。
有能さは問題解決の速さで決まるんです。

> フラッパーゲートの件ですが、
> 8月6日(金)10:00~ 作業でお願いいたします。
> 作業内容
> ・フラッパーゲート内組込みカードリーダーを新品に交換します。
> また、カードリーダーの取付位置をカードをかざす面へ多少移動してみます。

この返事を読んで、ちょっとひっかかるところがありました。
新品に交換する、ってところ。
ぼくはこう返事を書きました。

 くれぐれも安易に「部品を交換してオッケー」みたいにはしないでください。
 現状をよく把握し、原因を特定して、対応をする。
 それが技術者の生きる道だと思います。
 もちろん限られた時間での対応ですから、原因を完全には特定できないかも
 しれません。
 それでも、原因は何か、ということを抜きにした修理は、長い目で見て
 お互い損なことだということはご認識いただくようお願いいたします。

ちょっと厳しいですか(笑)。
今の日本はちょいと異常だと思っていて、モノの値段が極端に安い。
その代わり、人の値段が高いと誤認されている。
なので、なるべく人は使わずモノで解決しよう、その方が安上がりだと思われているんですよ。
だから修理も、不具合のある部分を交換してお終い、ということになってしまう。

もちろん今の精密機械は、プリント基板にすべてがセットされていたりして、基板ごと交換以外にやりようがないということも多いのは事実。
でもそれじゃあ技術者の腕は上がらないと思うんですよ。
技術というのはコストも重要な要件ですから、無制限に調査、検討はできないのは分かります。
でも部品交換をファーストチョイスにはしてもらいたくない。
時間とコストの許す範囲で、不具合原因を調査、検討し、原因を特定する努力もしてもらいたかったんです。
そうすることが技術者としての経験値を増やし、今の不具合を直すだけじゃなく、将来の不具合を防ぐ「素」になるんだと思います。
いつも言っていますが、経験を意図的にする、ってことです。

で、結果はどうだったか。
原因が分かりました。
技術系トップの方やぼくの所持しているICカードは数年前に製作された古いタイプのものだったことがわかりました。
フェリカカードは中にICという電子部品が入っており、そこにいろいろな情報を蓄えることができる製品です。
カード内部のICとカードリーダとで情報をやりとりすることによって、ドアを開放したりするわけです。
情報のやりとりは電波を使って行われます。
電波を送受信するために、カードの中には渦巻き状のアンテナが仕込まれているのです。
古いタイプのフェリカカードは、この渦巻きアンテナの巻数が6巻だったのです。
それに対して新しいタイプのカードは、アンテナの巻数が7巻に変わっています。
巻数が多い方が感度が高くなります。
設置したフラッパーゲートを試験調整したときは、新しいタイプのカードを使って行いました。
感度がいいですから、今のセンサー位置でも正常動作したわけです。
ところが古いタイプのカードはアンテナ巻数が少ないために感度が悪く、不具合となってしまったわけです。

原因が分かれば対策も分かる。
感度が悪いのだからセンサー位置を近づければ直ります。
フラッパーゲートに組み込まれたカードリーダ位置を検知部に近づけるよう改修してくれました。
それで万事解決!
カードリーダを交換することは必要ありませんでした。

森博嗣『創るセンス 工作の思考』集英社新書¥700-にこうありました。

###
既製の大量の部品から選ぶ、既製のソフトの上でカスタマイズする、ということが「技術」になってしまった。
知らず知らずのうちに、求めているものずばりではなく、近いもので満足するしかなくなっている。
「カスタマイズはできるが、かなりの無駄を含んだ製品」ばかりになった。(66p)
###

部品交換で何事も解決しようとすると、技術者も考えることをやめてしまいます。
確かに新品の完全動作品と交換してしまえば、あっという間に直ってしまいます。
それが時代の趨勢とはいえ、それはつまらないことだし、反って損なことだと思います。
社会全体にとっても、多くの無駄を含んだものになってしまう。

そもそも考えることをやめてしまえば、技術力は上がりませんし、そもそも技術者として面白みもない。
面白くない仕事は苦痛です。
苦痛なことをしている人の心は荒れていきます。
面白くない仕事をしている人ばかりの社会は、住み心地も悪いものになってしまうと思うんですよね。

だからできる範囲ででもいいから、部品交換、部品のカスタマイズから抜け出す。
考えながら直したり作ったりしていく。
これは技術の世界だけじゃなく、どんな仕事にも、家事でも育児でも同じなんだと思います。
既製品ばかりではなく、自分で考え、行動に移す。
そういう態度と習慣が楽しい人生を造り、社会を住みやすくしていくんだと思っています。


ところで、森博嗣『創るセンス 工作の思考』は技術者必読の本だと思います。
推理作家の森さんはもともと材料工学の研究者であり技術者でした。
森さんの技術に対する思想がこの本には書かれており、面白いですよ!

2010年8月18日水曜日

無茶はするな、無理をしろ


こんにちは

11月に試験のあるメンタルヘルスマネジメント検定の勉強を開始しました。
春にⅢ種とⅡ種に合格したので、今度はⅠ種(マスターコース)に挑戦です。
Ⅰ種マスターコースの対象者は、会社の経営者や労務管理者。
今やメンタルヘルスマネジメント抜きに会社経営はできないってことなんですね。

ちょこっと勉強を始めてみて、いきなりすごい事実を知りました。
日本の年間自殺者数は3万人を超えていますが、未遂者はこの4倍12万人もいるのだそうです。
つまり自殺したい、自殺しようとする人は毎年16万人。
実際に死んでしまうのが3万人なのだそうです。
びっくりするような人数です。
そんなに多くの人が死にたいと思って、自殺を試みているんです。

もっとショッキングだったのは、未遂者12万人のうちかなりの人が後遺症を残して生き残っていること。
飛び降り自殺を試みれば、未遂に終わっても複雑骨折など完全に治療できない障害が残ります。
首つり自殺を試みれば、脳への血流を遮断するわけですから、未遂に終わっても脳に強烈なダメージを与えてしまうのです。
植物状態になってしまう人も多いのです。
人生が辛くて自殺しようとして、もっと辛い状況になってしまう。
亡くなってしまう人も痛ましいですが、未遂で生き残る人もかなり痛ましいんです。

で、産業医学的には自殺の原因はメンタルヘルス問題であると理解されています。
そして勤労者のメンタルヘルス問題の原因は過重労働だと分かっているのです。
過重労働の中でもメンタルヘルスに及ぼす影響が強いのが、長時間労働だということも証明されていることなのです。
もちろんそれ以外の要因も多々あるのですが、先ずは長時間労働を減らすことがメンタルヘルス問題を減らすための第一歩であり、最重要課題なんです。

脳科学の最新成果を応用すれば、過重労働はワーキングメモリの使い方の問題になります。
ヒトの大脳前頭前野にあるワーキングメモリ。
そこを使ってヒトは思考していることが研究で分かってきました。
それはたった7つしかない。
この7つのメモリに記憶を入れたり出したり操作したりして、ヒトは思考しているのです。
ワーキングメモリ7つ全部に記憶が常駐してしまうと、それらを操作するスペースがなくなってしまい、考えることができなくなります。

忙しくて次から次へとやらねばならない仕事が押し寄せる。
たちまちワーキングメモリはいっぱいになってしまう。
考えることができなくなれば、意識はどんよりとしてしまいます。
パニックに陥り、押し寄せてくる仕事のどこから手を着けてよいかわからなくなります。
仕事ははかどらず、合理的な判断もできなくなり、ますます長時間労働しなければならなくなります。
過重労働、長時間労働はこのような脳の状態を生み出します。
そしていったん「死にたい」と思うと、もうその他の選択肢を考えることができず、それのみに囚われてしまうのです。

そこから抜け出すためには、時間の余裕が必要なんです。
ちょっと気を抜いてリラックスする。
頭に詰まった課題をいったん出して、頭を空にする。
ワーキングメモリに空きスペースができれば、正常に考えられ、課題を合理的に解決していく道筋がわかってきます。

もちろんたまに長時間残業することも必要でしょう。
頑張るときだって年に数回はあってもいい。
頑張って課題を達成して、成就感、達成感を味わうことも大切。
その方が腕も上がりますしね。
でも年がら年中長時間残業してはいけない。
ホッと一息つく時間もつくらなくちゃいけない。

ぼくの労組委員長としての問題意識もここにありました。
制度的にもたまに一息つく時間を生み出すようにしたいと思ったのです。
使用者が残業を命じるためには、いわゆる36協定という労使の合意がなくてはなりません。
この協定にはどんなときに何時間まで残業を命じていいか、明記されています。
そこにたくさん残業を命じるのは「連続2ヶ月まで」という条項を付け加えることができました。
2ヶ月頑張ったら次の1ヶ月はちょっとゆっくりしようよ、ということです。
プロジェクトマネージメントを研究しているトムマデルコによれば、根性もせいぜい2ヶ月、なんだそうです。
根性で頑張って成果が上がるのは1ヶ月、せいぜい2ヶ月間で、それを超えると効率がガクンと落ちて、頑張っても頑張っただけの成果が得られない。
そういう研究成果も取り入れたつもりです。

今村暁『子供の成績を決める習慣教育』PHP文庫¥533-にこうありました。

###
私は、「無茶」をさせることはよくないと思っていますが、その子なりに「無理」をさせることは必要なことだと思っています。
「無茶」というのは、365日毎日、夜12時過ぎまで勉強させるようなことです。
ときどき12時過ぎまで勉強させるのは、「無茶」なことではありません。(195p)
###

子どもの勉強も同じなんですね。
時に「無理」させることは子どもの成長を促すけれど、いっつもさせちゃいけない。
それは「無茶」なんです。
無茶は疲労感だけ与えます。
だって終わりの来ない地獄だからね。
今村さんは同書でこう書いてもいます。

###
ルーティンワークだけをしていて一日8時間会社にいても、達成感はわいてきませんし、残業を4時間して、12時間働いても達成感などは生まれてきません。
それよりも、「今日は、5時までにこの書類を仕上げて、定時に帰る」と決めて仕事をしたほうが、仕上がったときに達成感を持てるはずです。
つまり、時間の長さではなく、量によって達成感は生まれるものであり、あるいは、時間の短さによって達成感は生まれるのです。(82p)
###

ただ長く働くだけでは達成感、やり遂げたことによる爽快感を味わうことはできません。
ただただ疲れるだけ。
疲れれば効率は悪くなります。
効率が悪ければ、モチベーションは下がり、能力は上がりません。
達成感を得るためには、逆に短時間集中した方がいいんです。

朝、今日一日でこなす仕事量を見積もる。
やり終える時刻目標を設定する。
大まかに時間配分する。
あとはひたすらやる。
ひとつひとつやり遂げていく。

ほぼ目標を達成できたら嬉しいですよー。
達成感が持てます。
でも目標を達成できないときもあるかもしれません。
結果的に残業したっていいんです。
それによって自分の今の実力が分かります。
次からの目標設定をそれによって修正する。
達成できるようになったら、徐々に目標レベルを上げていく。
腕が上がったことが実感できるようになり、さらに嬉しくなります。
嬉しくなればもっと頑張ろうという気になります。
よい循環が生まれます。

仕事の効率が上がってくると、与えられた仕事を勤務時間内に終わらせることができるばかりじゃなく、もっと早く終わらせることができるようになります。
余った時間は自分のもの。
新たな仕事を見つけたり、今の仕事を改善したり、そういう新しい発展的な仕事をすることだってできます。
自分しかできない仕事、オンリーワンですね。
オンリーワンの仕事は楽しいですよ~。
短時間労働こそ、人を成長させ、人生を充実させるものなんだと思っています。
ぜひお試しを!


マニアの理科教師たちの研究団体である科教協全国大会が兵庫県で開催され、オプション企画でみなさんをCDBとスパコン施設へご案内しました。
ご自慢のスパコン空調設備を熱を入れて説明しちゃいました。
これもぼくのオンリーワンの仕事のひとつだと思っています。

2010年8月16日月曜日

ヒートアイランドの本当の理由

こんにちは

今年の夏は暑いですねー。
でも異常気象なんかじゃありませんよ。
ましてや地球温暖化の影響でもありません。
正常な範囲だというのが、天気予報士の方や気象学者さんの見解です。
普通の人は覚えていてもせいぜい去年の夏のことだけ。
去年と比べて、異常だ、正常だと言っているのだそうです。

思い出してみると去年は「冷夏」でした。
8月になってもなかなか暑くならず、ビールの売り上げが落ちたなんて話もありましたね。
お米の作況指数も98と、例年より採れなかった。
確かに去年の夏と比べると暑すぎて異常気象のように思えてしまいます。
でも去年だって暑くならないで異常気象だって言っていたんです。
それも一昨年の夏と比べてでしょう。

異常気象、地球温暖化の影響でないとしても、都会の夏は暑いです。
舗装された地面からの照り返しが強く、ベビーカーに乗った赤ちゃんが熱中症になってしまう事故も。
ベビーカーを立って押すお母さんの場所の気温より、ベビーカーの位置(地上50cmくらい)の気温は5℃近くも高くなっているそうです。
ご注意下さいね。

さてさて、都会の暑さは「ヒートアイランド現象」と呼ばれています。
ヒートアイランド現象の原因は、舗装した地盤が多く水の蒸発がないので、土のようにそこに含まれた水分が蒸発することによって気化熱を奪って気温を下げるということがない、ということもあります。
ビルや家庭で使うエアコン室外機から大量の廃熱が出される、ということもあります。
でもそれよりも、都市部では「空気の対流が起こりにくい」というのが主原因なんです。

熱の伝わり方には三つあります。中学校の理科の時間に習ったと思います。
放射、伝導、対流ですね。
放射は、温度の高い物質は赤外線という光を放射しています。
この光のエネルギーによって熱を伝えます。
伝導は、隣り合った物質同士、温度の高い物質の方が熱振動が激しいので、その振動を温度の低い物質へと伝わります。
対流は、空気や水のような流体が重力のある場所で起こります。
温度の高くなった流体の一部が熱膨張によって密度が小さくなり、浮力が働いて上昇していきます。
上昇していく流体の部分は、熱を抱えたまま上昇していきますから、大量の熱を運んでいけるのです。
空気の場合、放射も伝導も対流も起こりますが、一番大量に短い時間に熱を伝えるのは対流によってなのです。

上昇した空気の代わりに、周りから温度の低い空気が吹き込んできます。
さわやかなそよ風ですね。
そよ風が温度の低い空気を運んでくると共に、身体から吹き出す汗を蒸発させる。
太陽がギラギラ照りつけていても、対流が起こればさわやかに過ごすことができるのです。
ですから対流が起こらないと熱がこもり、地表近くの気温を上げ、不快になってしまいます。

なぜ都会では対流が起こりにくいのでしょうか。
地表近くで温度が上がって膨張した空気は、上昇していきます。
上昇していくためには、その上部にあった空気を押しのけていかなくてはなりません。
押しのけるためには、周りの空気より密度が低い、すなわち温度が高くなければなりません。
そうじゃないと浮力が働きませんからね。
上昇していく空気の塊は、上昇するに従って断熱膨張していき、その温度が下がっていきます。
上昇していくごとに周りの空気との温度差があれば、上昇し続けていけます。
でも周りの空気と同じ温度と同じになってしまったら、そこで上昇は止まります。
周りの空気と同じ温度では浮力が働かず、上昇気流は生まれないのです。

実は都会の空、数km上空には、細かいチリが滞留しています。
都会の空がスカッと真っ青ではなく、白っぽく見えるのは、このチリのせいです。
このチリが太陽の光を受けて温められているのです。
上昇してきた空気の塊は、このチリのある場所まで来ると自分より周りの空気の温度の方が高くなってしまうので、そこで上昇は停止します。
さらに後から上昇してきた空気の塊も、それ以上上昇できなくなりますから、熱を持った空気の塊がどんどんとそこに溜まっていくのです。
どんどんと溜まり続けた空気はやがて地表面まで到達します。
するとそれ以上上昇気流は起こらず、地表面は太陽から照らされて温度が上がる一方になってしまうというわけです。

さらに東京など、臨海部に高層マンションがたくさん建てられています。
夏の日中は、陸地で上昇した空気の代わりに海の上にあった空気が流れ込んでくるものです。
いわゆる海風ですね。
でも、高層マンションがたくさんあると、そこで風の流れが遮られます。
上昇気流が起こるためには、上昇していく空気の代わりにそれを置き換える空気が流れ込んでこなくてはダメです。
海から流れ込んでくる空気を遮る建物があるために、余計に対流が起こらなくなってしまっているのです。


ヒートアイランド現象の主原因については、槌田敦さんの本に書いてあったと記憶しています。

2010年8月15日日曜日

子育ては親育て


こんにちは

今村暁『子供の成績を決める習慣教育』PHP文庫¥533-に、子どもがやる気を出す七つの要素ってのが書いてありました。

1、「小さな達成感」を体感している
2、「がんばり」を「認めてもらっている」
3、「責任感」を持っている
4、「成長」を感じられる
5、「安心」を感じている
6、「親との信頼関係」が築かれている
7、「報酬」がある(70p)

子どものやる気はこれらの掛け算なんだそうです。
だから日々、これらの中のひとつでも発見し、具体的に褒める。
それぞれちょびっとずつでもよくなるようにする。
たった1%ずつでも、7つかけ算すれば7%アップになります。
10%ずつなら、7つかけ算するとほぼ2倍アップにもなっちゃうんです。

観点、視点を持って、意図的に経験をさせる。
たとえば、今日はがんばりを認めてやろう、だからこれをがんばらせよう。
今日は責任感をもってもらおう、そのためにこのお手伝いをさせてみよう。
1週間がんばれたら、ちょっとお小遣いをあげて、勤勉と報酬がきちんとリンクしていることを示す。

同書によると、子どもを褒めると子どもが成長するだけじゃなくて、親の方にもメリットがあるんだそうです。

###
実は子どもをほめていると、もう一つ大きな効果があるのです。
それは、子どもをほめているうちに、親自身の長所が伸びてくるというオマケです。
子供をほめ、子どもの長所を口に出しているうちに自然と、自分自身の自己像が変わっていくから不思議です。(100p)
###

なるほどー。
子どものよいところを伸ばそうとすれば、必然的に親自身も同じようにしなくちゃね。
見本、手本を示さないとね。
子どもに勤勉を求めといて、親はだらけるわけにはいきませんから。
我が家なんか、「お父さん、がんばったね!」なーんて、子どもから逆に褒めてもらっちゃったりしますからねー。
子育ては親育て、ってホントですよねー。

2010年8月14日土曜日

アカデミック・ハイ


こんにちは

先週姫路で行った夏休み子ども向けサイエンスカフェ。
サイエンスカフェはりまのメンバーであり、理研での同僚でもあるづかちゃんから感想をもらいました。

 土曜は本当にありがとうございました~!
 遠路はるばる、時間を削って、、、恐れ入ります。
 子どもたちが楽しそうに実験していたのがうれしかったです。

 あと、子どもから出た質問で「電気はいつからあるのですか?」の問いには
 感心してしまいました。
 電気ってものはずっと存在していたのに、人がそれに気付いて利用できるまでには
 ずいぶん時間がかかったんだなー、今も我々が気付いてないだけで、
 今後利用できるものというものはいっぱいあるかもしれなんだなー、科学って
 スゴイなぁと改めて気付きました。
 こちらもいつも勉強になります。またよろしくお願いしますね!!
 ありがとうございました。

嬉しいですねー。
それにしても「電気はいつからあるか」というのは素晴らしい質問ですね。
子どもにしかできない質問だと思います。
その時ぼくはこう答えました。

 電気の素の電子自体は、宇宙が始まってすぐからあった。
 宇宙は137億年前にビッグバンから始まったと言われている。
 137億年前からたったの3分後にはすでにあったんだ。
 でも電子を人間が見つけて、利用するようになったのは
 たかだか100年前くらいからだ。

家に帰って再度調べてみたら、電子は宇宙開闢後たったの10^-36秒後にはできていたんですね。
電気の実用的な利用はファラデー以降でしょうから、19世紀半ばですか。
電子そのものの発見は、1897年にJ.J.トムソンですから、まあ100年前ですね。
電子自体の制御は真空管の発明を待たなければなりませんから、二極管フレミング(1904年)、三極管リー・ド・フォレスト(1906年)ですから、やっぱり100年くらいですね。
なんと熱電子の発見者はエジソンなんですね。
エジソンは熱電子を「エジソン効果」として特許を取りましたが、それを使った実用品を発明することはできなかったようです。
特許ではなく論文にしたのなら、エジソンも博士号を授与され、もしかしたらノーベル賞ももらえたかもしれませんね。

子どもから子どもらしい根源的な質問されると、こうして復習する機会ももらえるんで嬉しいですね。
大人もより深く勉強できるし、ハッとするような発見があります。
こういうのを内田樹さんは「アカデミック・ハイ」と呼んでいます。

###
知的高揚感と言ってもいいですかれど。何かのきっかけで脳が「ぐいいん」と加速を始めて、それまでばらばらだったジグソーパズルのピースがぴたぴたと決まるときのように、脳がかっと熱くなる感じって、ありますでしょう。(略)ぼくはそれを「アカデミック・ハイ」と呼んだりしていますけれど、それをちょっとだけでも、若い人に自分の身体を通じて実感してほしいんです。
(内田樹/石川康『若者よ、マルクスを読もう』かもがわ出版\1500-、37p)
###

科学に限らないけど、分かりたいと思うことがある。
分かろうと思って、努力をする。
その結果、分かるようになったときの気分の良さは、何ものにも代えられないものです。
高みに登ったような晴れ晴れとした気分、霧が晴れ渡ってぱーっと見晴らしがよくなる気分。

サイエンスカフェの後の懇親会で、ぼくはこんなことも言いました。
ぼくはアルバイトや教育実習も含めれば幼稚園から予備校生まで教えていきました。
その時の経験から言うと、できない子ほどすぐ分かりたがる。
すぐ分からないと先へ進めない。進もうとしないんです。
学問、勉強って、そんなインスタントなものじゃないんです。
分からないというちょっと不快感を抱えつつ、前に進むってのが肝心。
その努力ができるかどうかですね。
それができるから、アカデミック・ハイも体験できるわけです。
すぐ分かるようなものにたいした価値はないんです。

ぼくの授業の特徴は、完全には分からせない、なんです。
分かった気にさせない。
そんなに簡単に分かってたまるか!なんです。
面白かったけど、なんだかちょっともやもやする。
そうやって子どもの中に、分かりたいという気持ちを植え付ける。
自分でももっと勉強してみたい、と思わせる。
多くの子にアカデミック・ハイを味わってもらいたいですねー。


サイエンスカフェの会場は姫路城のそばでした。
「ついで主義」のぼくは、炎天下の中しばらく散策。
楽しい、楽しい。

2010年8月10日火曜日

変人で行こう!


こんにちは

「関口さん、早く課長になりなさいよ。関口さんなら部長にもなれる!」
退職するお姉さまからそう言われました。
いつまでもぼくが出世しないので、励ましてくれたんですね。
ありがたいことです。
でもぼくは世俗的な意味で出世したいと思っていないんです。
だって部長や課長って楽しそうじゃないんだもん。あはははは。
楽しそうに仕事をしている部課長ってホント少ないですねー。
役員にまでしてくれるならともかく(笑)、部長、課長くらいじゃやりたくないなー。
現場で楽しく第一線に立って仕事をするために、既に十分出世してますし。
お給料だってほどほどにいただいていて、これ以上いらないってくらい大満足なんです。

ぼくは自他共に認める変わり者であることは確かです。
でもそれは自覚的に「演じている」ってこともあるんですよ。

サラリーマンなら、上司が無能に思えるって経験を持つ人は多いと思います。
なんでこんな無能な奴がオレの上司なんだ?って。
もちろんぼくの今の上司のように尊敬に値する上司もいるけど、嫌なことをするのは決まって無能な上司。
なぜこんなことになってしまうのか?!

組織には「ピーターの法則」が働いてしまいます。
ピーターの法則とは、一言でいうと、

 あらゆる組織は無能化する

という法則。
組織というものは、時が経つのに従ってすべてのポストはその責任を全うできない無能な人たちばかりになってしまう、というのです。

会社の社員を例に取りましょう。
平社員で優秀な人は係長に、係長で優秀な人は課長に、課長で優秀な人は部長へと昇進します。
そうすると必然的に、昇進したとたんにダメになってしまう人も出てきてしまいます。
平社員で優秀だった人は、例えば客あたりがいいために営業成績がよかったり、手先が器用なため加工機械の操作がうまかったりしたわけです。
その人が昇進して係長になったとすると、直接お客さんと接することは少なくなったり、実際に機械の操作をしなくなったりするわけです。
マネージメントとか事務作業とか、それまで有能さを発揮していたことじゃないことをやらなくちゃいけなくなる。
現場にいるからこそ生きたスキルが、昇進すると使えなくなっちゃうんですね。

平社員と係長では当然求められるスキルが異なるわけです。
それでも係長となってもどうにか優秀さを発揮できた人は、課長に昇進します。
課長に求められるスキルも、係長とは違ったものが必要で、係長の時に身につけたスキルがそのまま使えるわけではありません。
課長となってもなんとかそれなりに有能さを発揮できれば部長に昇進しますが、また同じことが待っています。

こうして、いずれはどこかの職位に昇進したときその職責を全うできなくなって、すなわち「無能」の烙印を押されて、昇進はそこでストップせざるを得ない。
無能の烙印を押されてへらへら笑っていられる人なんかいませんよ。
当然、どんよりと暗い顔になってしまうのは必然なんです。
各層のポストを占めるのは、その職位で無能となった人たちだらけになり、組織は沈滞していく。
それがピーターの法則なのです。

ピーターさんはアメリカ人ですから、アメリカの会社や役所を観察してピーターの法則を見つけたのでしょう。
アメリカの組織は実力主義、成果主義です。
実力主義の組織ほど、ピーターの法則にからめとられる恐れが大きいということです。

そこで、ピーターさんは「創造的無能のススメ」を提案しています。
自分にとって十分に実力が発揮できるポジションに留まり、昇進させられないようにしよう、ということです。
昇進させるにはちょっと?と思わせる欠点を、自ら演出する。
例えば、会社の付き合いはすべて断る、時々身勝手に休暇をとる、などなど。
適度に「変人」となることで、創造的無能を演出するといいのだと。

ぼくは今のポジションが、自分では楽しく仕事ができるし、実力も発揮できると思っています。
それに今のポジションでまだまだやりたいことがたくさんあります。
今のポジションにぼくを置いておいた方が、我が社にとってもメリットが大きいはずです。
そのためにも、創造的無能を演出して、変人でいようと思っています。

『変わった人たちの気になる日常-世界最初の奇人研究-』草思社\1800-に<奇人の特長>が書いてありました。

・非同調的、すなわち一般の社会規範に従わない。
・創造的。
・好奇心に強く駆り立てられる。
・理想主義的。世界をより良いものにし、世の人々をより幸福にしたいと思っている。
・一つあるいはそれ以上(普通は五つか六つ)の趣味に没頭している。
・自分が風変わりであることを幼い頃から自覚している。
・知的。
・自分は正しくて世間こそが歩調を乱しているのだと信じ込み、自説に固執し、ずけずけとものを言う。
・競争心がなく、社会からの励ましや力添えを必要としない。
・食生活や生活様式が変わっている。
・他人の意見や交友には取り立てて興味を示さない。
・お茶目なユーモアのセンスを持っている。
・幸せな人生を送っている。 

                    e.t.c.

やっぱり変人奇人はハッピーな人生を送れるんですよ!
あなたも変人を目指してみませんか?


姫路でお子さん向けのサイエンスカフェを開催しました。
10円玉と1円玉で電池を作ってLEDを光らせる、という実験をしました。
おやつにはドライアイスシャーベットを作ってみんなで食べました。
みんなとても熱中していましたよ。
こんなことができるのも「変人」だから!
わはははは。

2010年8月9日月曜日

キャッチボールをしよう!


こんにちは

我が子たちは男の子なので、男の子らしく育てたいと思っています。
養老孟司さんは「男は男に育てなければ男に育たない」と言っています。
だから意図的に育てないといけない。
それには、男の子らしい遊びをふんだんにやることだと思っています。

今は、おすもうごっこですね。
夜寝る前、20分ぐらいお布団の上で汗だくになって遊ぶ。
時に思いっきりくすぐったりして。
おすもうごっこをたっぷりやると、電気を消せばすぐ寝ちゃいます。

小学生くらいになったら、キャッチボールをやりたいと思っています。
キャッチボールも男の子の定番の遊びですよね。
桜井章一/甲野善紀『賢い身体バカな身体』講談社¥1400-にこう書いてありました。

###
桜井 公園でもキャッチボール禁止というんだから、びっくりします。
少年時代にキャッチボールもしなくて何をするんですか。
キャッチボールっていうのは、大人になっていくための一種の儀式の意味合いもあると思うんです。
それはたんに球を投げるだけではなく、相手とのコミュニケーションを学ぶ場でもあると思う。
どんな珠を投げれば相手は捕りやすいか、へんなところへ投げて相手が捕れないような球は放らないとか、そこで人間関係のあり方も学ぶんですよ。
キャッチボールは人間関係の基本なんです。
相手がミットを構えているところに言葉を投げる、それを受けてまた相手がとりやすいところへ言葉を放り返す。
ところが、みんなキャッチボールが下手でどうしようもない。
暴投をしょっちゅうしてケンカになったり、仕事のトラブルになったりするわけです。(152p)
###

なるほど、なるほど。
人間の思考回路は、具体的身体技能を通して開発されるものだと思います。
言葉によるコミュニケーションも、身体を使った遊び、キャッチボールなどのアナロジーなんですね。
ボールを投げたり受けたりしながら、相手との間合いを体に染み込ませるわけです。
それが言葉によるやりとりの時にも応用される。
だからキャッチボールをたっぷり十分やった子は、コミュニケーションも上手くなる。
キャッチボールにはそういう効能がある。
ぜひぜひやりたいですねー。

幸い我が家の前は私道で行き止まり。
車の通行はほとんどありません。
キャッチボールするには最適です!

2010年8月8日日曜日

人生を強くする


こんにちは

先月末に労働組合の引き継ぎ大会が開催され、2期に渡って務めてきた執行委員長を次の方へと引き継ぐことができました。
正直言ってホッとしました。
頑張りすぎずラクしすぎずをモットーに、ぼくのできる範囲でベストエフォートで続けてきた仕事ですが、それなりに苦労もありましたから、退任してずいぶんと気が楽になりましたよ。
でも苦労だけじゃなくて、やらなかったらできなかった経験もでき、職場の中のいろいろな問題、いろいろな立場の人たちのことも知ることができ、視野も広がりました。
役員の方とも議論することもでき、おしゃべりもより上手くなった気がしています。あははは。
やってよかったですね。

委員長を退任するに当たって、ある提案を大会で諮ってみました。
ぼくは、仕事というものは「未来へのギフトである」と思っています。
今目の前にある仕事を片付けるだけじゃなく、ぼくの仕事を受け取る人がラクチンになるようなこと。
未来の人には、未来の自分自身も含まれます。
「この仕事のおかげで助かった」と思ってもらうような仕事が、本当の仕事だと思うんです。

新たな提案をするにしても、やっぱり信用、信頼は必要です。
実績と言ってもいいですね。
そういうものもないのに、何か提案したって通るわけはありません。
多くの人に「あ、この人の言うことなら賛成してみようか」と思ってもらわなくちゃ。
ぼくは労組委員長としての1年半の実績に、それなりに自負を持っています。
かなりの数の組合員の人たちにも、それを認めてもらっているという感触もありました。
未来へのギフトをしたかったんですよ。

実は委員長を仰せつかる前から考えていたことなんです。
でも委員長になったばかりで提案したって通るわけはないですよね。
なので現行の制度の中で地道にやってきたつもりです。

話を戻して、ぼくの提案はこんなのでした。
それは、任期制職員の方の組合費を定額、500円ワンコインにする、というもの。
別にふざけているわけではありません。
世の中を見渡してみると、不安定で弱い立場の人ほど仲間と集う場が少ない、団結することができないように思えるのです。
不利益を受けても、自分一人で解決するしかない。
自分一人で解決できることなんてめったにありませんし、普通の人の法的知識にも限界がありますし、もちろん個人で弁護士さんなどに相談するにもお金がかかりますから、結局は泣き寝入りするしかないのです。
そういう人たちの集う場としての労組の役割もあるんだと思ったのです。

労組は憲法で認められた労働三権を行使する実体です。
組合員であるだけで、法的にずいぶんと守られるのです。
労働法も、そもそもは弱い立場である労働者を守るために立法されたものです。
もちろん不利益を受けたときだけじゃなく、労組はひとつのコミュニティにとしても機能しますから、職場は離れていても同じような立場の人同士が交流する場にもなる。
普段から交流しているから、いざというときに団結もできるわけです。
弱い立場である任期制職員の人たちが集える場にしていかなくちゃいけないと、ぼくは思ったのです。
今の労組に欠けていることは、弱い立場の人たちが集いにくい、ということだと強く感じていたのです。
それを改善したかった。

労組に加入しようと思っても、組合費がいくらなのかわからないと不安です。
組合費と言えども、負担が大きければ入れません。
特に任期制の人には、賃金が低く抑えられている職種も多いですから。
コストに見合ったメリットがないとダメなんです。
そこで500円、ワンコインという提案にしたのです。
定額なのでわかりやすい、500円だからたとえ直接的なメリットがなくても加入してもいいと思える。
いやいや、直接的なメリットだってありますよ。
組合員だというだけで、「信用」も大きくなるんです。
サラリーマンの世の中での信用は、多くは勤続年数を担保にしています。
勤続年数が長いと、その人を信用するような仕組みになっている。
クレジットカードの発行、ローンを組む、保険に入る、アパートを借りるe.t.c.
みんな勤続年数で計られちゃう。
任期制の人は当然ながら勤務年数は少ないですから、不利な条件になります。
労組組合員になればそれだけで世間的な信用が与えられ、労働金庫や全労済などで低利のローンを組んだり、安い保険に入ることができる。
組合費500円以上のメリットを即得ることができるんです。

こういう提案をするというので、大会にはこれまでになく多くの人が参加してくれました。
大会での議論も活発になされました。
いつもの「この提案に対してご意見ありませんか」「特にありません」シャンシャンではありません。
ワクワクしましたよ。
当然、反対意見もたくさん出ましたよ。
それに対して意を尽くしてぼくも説明しました。
最初は懐疑的だった雰囲気も、徐々に理解してもらえた、理解はできなくても実験的にやってみてもいいんじゃないか、といった方向へと進んでいきました。

そして採決です。
議長が「賛成の人は挙手をお願いします」と言いました。
たくさんの手が挙がりました。
続けて「反対の人は挙手願います」と議長。
数人だけが挙手。
そして「保留の方挙手をお願いします」。
これも数人。
「やったー!成立だー」と思いました。
ところが、議長はこう宣言しました。
「保留が大多数となったため、本義案は保留とします」
ええええ~~~~??

なぜかと言えば、大会に出席できない人は委任状を提出しています。
委任状はほとんどが「議事は大会議長に委任する」となっています。
で、大会議長は保留に投票したのです。
なので、委任状分の人数が大会議長と同じく保留であるということになってしまったのです。
保留は実質的に否決と同じです。
ありゃー、残念。。。

今村暁『子供の成績を決める習慣教育』PHP文庫¥533-から引用します。

###
子どもが本当に学力を高めて成長するためには、私が「キムタガ」と呼ぶ「気にする」「無理する」「対立を恐れない」「我慢する」の四つの習慣が必要だと考えています。
この言葉は東川鷹年先生という私の恩師から教わりました。(146p)
###

「キムタガ」は子どもだけじゃなく、大人の人生も強くしてくれますね。
いろいろなことを気にして、何か改善できることはないかと、常に探し回る。
改善するために、自分のできる範囲でちょっと無理してみる。
何かを変えるのですから、当然対立も起こる。
でもそれを恐れていては現状を変えることなんかできません。
とは言え、やれば必ずできるものでもない。
むしろうまくいかない場合の方が多いでしょう。
そういうときは我慢するしかない。
我慢はするけど諦めない。
次のチャンスをねらうんです。

ワンコイン組合費は今回は残念ながら実現できませんでした。
まだまだぼくの実績と信用が足らなかったということだと思います。
でもまたチャンスはあるでしょう。
その時まで、地道にコツコツとやっていこうと思います。
委員長は退任しましたが、今度は科学技術系研究所の労組を束ねる科学技術産業労働協議会という組織の副議長を仰せつかりました。
任期は2年。
この仕事をやることによって、他の研究所の状況もわかってくるでしょう。
それを活かして、また挑戦したいなーと思っています。


姫路で開催された加速器学会に参加してきました。
楽しい、楽しい!

2010年8月2日月曜日

木が大きくなる条件


こんにちは

我が家の庭には果樹を植えています。
我が子たちが生まれた年に植えた記念樹です。
サクランボ、スモモ、イチジク、姫リンゴ、杏などなど。
長男が生まれた年に植えた木は、すでに5年経ちましたので、かなり大きくなりましたよ。
そして今年はこれらの木はたくさん実を付けました。
特に肥料もあげていませんが、グングン大きく成長しています。

SPring8やスパコン施設にも仕事で行きます。
これらの場所は木があまり育ちません。
SPring8は山を削ったり、土を盛ったりして造成した土地です。
スパコン施設もポートアイランドにあり、六甲山の土を削って埋め立てた土地。
どちらも人工地盤なんです。
造成したり埋め立てたりする土は、白っぽく硬くてゴツゴツしたような土。
そこへ木を植えても、育つわけがありませんよ。

天然の地盤面は、黒っぽく柔らかな土で覆われています。
この土は「表土」と呼ばれていて、石や砂ばかりではなく、植物や微生物が腐植したものがたくさん混じっています。
水もたっぷり含みつつ、水はけもよい。
当然、肥料となる成分も含まれている。
木が育つのは当然です。

なので、造成地や埋め立て地に木を植える場合、植える場所の周辺に「客土」します。
客土とは、他の土地から表土を運んできて、埋め立て地の土と置き換えることです。
こうすれば、植えた木も表土の中で育つことができるってわけです。

客土をしても、SPring8やスパコン施設に植えた木はあまり大きく育ちません。
スプリンクラーなどで乾燥しないように水まきもしているんですが、育たないのです。
SPring8の場合、野生の鹿が来て若芽を食べちゃうってこともありますがね。
ある程度の大きさに育つと成長が止まり、そればかりではなく徐々に枯れ始めてしまうのです。

天然の地盤の場合、地面の下には「伏流水」が流れています。
いわゆる地下水ですね。
伏流水はミネラルも豊富で、有機分もたっぷり溶け込んでいるのです。
木はこの伏流水を目指して根を伸ばしていきます。
そして根が伏流水に達したとき、永久的に水と養分を確保できるようになるのです。
よって木は太陽の光を浴びてグングンと大きく成長していけるわけです。

造成地や埋め立て地のような人工地盤には、この伏流水がないのです。
木が根を伸ばしても、伏流水へ到達することができない。
たとえ乾燥しないように水をまいてもダメなんです。
客土に含まれている肥料分もやがては使い果たします。
最後は枯れていくしかないのです。
なので、水だけでなく肥料も定期的にやり続ける必要もあるのです。


我が家で育てた苗をスパコン施設に植えました。
やせた土地でも比較的育ちやすい、ローズマリーとチェリーセージ。
上手く育つかな。
少しずつ増やしていって、ハーブ園のようにするのもぼくの夢。

褒めて育てろ!


こんにちは

親の欲目かもしれませんが、我が子たち、ホントにいい表情をしています。
かしこそうで、生気にあふれ、自信に満ちている。
そしてフレンドリー。
脳は表情に表れますからね。

育てる上で注意していることは、マメに褒めていること。
年齢にしたらよくできたなーと思ったら、「スバラシイ」「よくできた」「役に立つ」と言ってあげる。
もちろん悪いことやいけないことをしたら叱りますよ。
でも小学校入学前の年代なら、9褒めて、1叱るくらいの割合がいいと思います。

今村暁『子供の成績を決める習慣教育』PHP文庫¥533-にこうありました。

###
子供の表情や立ち振る舞いを見ていると、「よくほめられる」と感じている子どものほうが、穏やかで安心した表情をしています。
そしてがんばりがきくのです。(78p)
###

ぼくの教師時代の経験から言うと、勉強のできる子はよく褒められてきた子どもです。
できない子は褒められてきていないから、最初から萎縮しちゃってる。
なぜできないかというと、勉強に限らず何かをするときに、何の練習も無しに、やり方も十分教えられずに、やらされるからです。
当然、うまくできないですよね。
うまくできなくて、叱られて育ってきた子なんです。

できる子は、何かをするときに、きちんと手順を踏んで教えてもらっています。
教えてもらって、何回か練習して、コンスタントにできるようになる。
もちろんきちんとできれば、褒めてもらえる。
自信もつくのも当然ですね。

そして自信を持った子は、初めてやること、難しいことにも挑戦していけるんです。
やり方を教えてもらい、何回か練習すれば必ずできるようになる、とわかっているから。
逆に、萎縮しちゃって自信のない子は「また失敗するんじゃないか」と最初から思ってしまう。
なので挑戦する気が起きず、がんばろうともしない。

それが子どもの表情に表れます。
自信のある子は、穏やかで安心した子どもらしいかわいらしい表情になる。
萎縮しちゃった子どもは、他人の表情をうかがい、それでいて相手の顔をしっかりと見ることができず、暗い表情をしています。あまり可愛くないし。

ぼくはプラグマティスト(実利主義)ですので、褒めて育てた方がオトクだと思っています。
褒めるためには、きちんと教えること。
褒めるためには、何回か練習させること。
そして上手くできるようになったら、きちんと褒めること。

それが強い心を育て、成長してからも挑戦を忘れず、困難も乗り越え、逆境にも耐えられるようになるんだと思います。
明るい表情で、活き活きとした子どもに育ってほしいですね。