2009年5月27日水曜日

共生菌を含めての命

こんにちは

コンビニ弁当などの保存料に「ソルビン酸」がよく使われています。
ソルビン酸を添加すると、48時間くらいは雑菌の繁殖が抑えられ、食品の鮮度を保つことができます。
なぜ雑菌は繁殖しないのでしょうか。
それは、ソルビン酸の分子の形を見ると分かります。

 ソルビン酸 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E9%85%B8

この形は乳酸ととてもよく似ています。

 乳酸
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B3%E9%85%B8

乳酸の左側に、ヒゲのようなものがくっついたのが、ソルビン酸の分子です。
右の方は乳酸と同じ形をしています。
雑菌はこの分子の形にだまされるんですね。

乳酸は雑菌の大好きな食べ物。
乳酸があるとぱくりと食べます。
ソルビン酸は乳酸とそっくりなので、だまされて食べてしまいます。
食べたものは当然消化して、雑菌自身の栄養となります。
ところがソルビン酸にはヒゲ構造が付いています。
そのため、消化ができないんです。
消化ができなければ栄養が不足しますから、繁殖もできなくなる。
つまり、食品の鮮度を保つことができる、というわけです。

ソルビン酸自身は無毒とされています。
ヒトの体細胞をシャーレで培養し、そこにソルビン酸を振りかけても、体細胞は死滅せず劣化もありません。
異常なく細胞分裂して増殖もしていきます。
なので、ソルビン酸は雑菌に特異的に効果のある、人体には無害な食品保存料として認可された添加物なのです。

でもちょっと待ってください。
ヒトの腸内には一人当たり100種類以上、100兆個以上の腸内細菌が生息しています。
成人の体細胞は約60兆個ですから、体細胞より多くの腸内細菌がいるのです。
ぼくらが排泄するうんこの重さの約半分が腸内細菌またはその死骸であると言われています。
この腸内細菌は、雑菌と同様な生物です。
ソルビン酸は、腸内細菌にも食べられ、腸内細菌の増殖も抑制してしまう恐れがあるのです。

腸内細菌は、ただヒトの腸の中に住んでいるわけではない、ということが近年の研究で分かってきています。
外部から悪い細菌が入ってきたときに、既に腸内にいる細菌が悪い細菌をブロックしている。
悪い細菌が繁殖しないように防御しているんです。
それどころか、腸内細菌はビタミンなど栄養素を生産して、それをぼくらは吸収して利用したりしているんです。
つまり、腸内細菌はヒトと「共生」しているのです。
ソルビン酸は、このような共生者である腸内細菌を弱める可能性もあるんです。

藤田紘一郎『ゼロ歳からの免疫力』集英社be文庫\600-にこう書いてありました。

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私はかつてアメリカで実験のためにコレラ菌を飲んだことがあるが、なんともなかった。
ところが腸内細菌を抗生物質で弱らせてからコレラ菌を飲んだら、ものすごい下痢になってしまったことがある。
専門家の間では「腸内細菌は臓器のひとつ」とさえ言われているほど、人が生きていくのに欠かせないわけだ。(35p)
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ぼくらの体は腸内細菌も含めて命を保っていると言えそうです。
その意味で、ぼくらの体の一部、命の一部なんです。
腸内細菌を大事にしないのは、ぼくら自身の命をいじめていることでもあるんです。

最近の新型インフルエンザ騒動で、感染者に若者が多いようです。
その一つの原因に、食生活の問題もあるんじゃないかって思っています。
コンビニ弁当やインスタント食品など、保存料がたくさん含まれている食品を頻繁に食べている。
それによって腸内細菌がいじめられ、元気がなくなっている。
そこにインフルエンザウイルスがやってきて、それに対抗できなくなっているんじゃないか。

腸内細菌はぼくらの臓器のひとつなんです。
大切にしなくちゃね。


ソルビン酸の防腐剤としての原理は、TBSラジオ「サイエンスサイトーク http://www.tbs.co.jp/radio/xitalk/ 」での、福岡伸一さんの放送で聞きました。

たまに風邪を引くのもよいことだ

こんにちは

新型インフルエンザ騒動も沈静化してきたようですね。
だいたいインフルエンザウイルスはRNAウイルスですから、新型に決まってますよ。
DNAと比べてRNAは容易に変異するので、すぐ別のウイルスへと変化してしまうのです。
インフルエンザの予防接種も毎年やらないと、しかも予想したウイルスとほぼ同じウイルスが流行しないと、効かないことからも分かります。

インフルエンザウイルスは、もともとは渡り鳥の腸の中に生息しています。
その年流行しそうなウイルスを予想し、予防接種のワクチンを製造するために、渡り鳥を捕獲して、保持するウイルスを調べたりするのです。
DNAウイルスは、どんな動物に感染するか決まっており、流行は限定的です。
インフルエンザウイルスは変異が速く、豚や人にも感染するように変わっていきます。
豚は家畜として人の居住域に近い場所で飼育されているので、豚インフルエンザも人へと感染を広げやすいわけです。

さて今回の騒動で、大阪、神戸など流行地ではマスク着用率が高まりました。
うがい、手洗いも励行されました。
確かにそれは間違いではありません。
でもそれよりも大切なことがあるんじゃないかって思うんです。

それは、自身の免疫力を高めること。
免疫力が高ければ、感染しにくいですし、発症しても重篤になることはありません。
免疫力を高めるにはどうすればよいのか。
マスク、うがい、手洗いじゃダメですよ。
それは、

 よい生活習慣

です。
早寝早起き、十分な休息、健康的な食事、精神的ストレスも少なく、よく笑う。
それが一番大切なんだと思います。

西原克成『呼吸力で病気に強くなる』イーストプレス¥1429-にこうありました。

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いまでも「免疫」とは、同じ感染症には二度とかからないという体のしくみであると一般に理解されています。
しかし、研究が進むにつれて、むしろ「二度なし」の病、つまり一度感染したら二度とかからないウイルスや細菌のほうが稀だということがわかってきたのです。(略)
そこで、最近では一度かかれば二度と流行病にかからないという意味合いの「免疫機構」という言葉より、二度目以降は軽くてすむ「生体防衛機構」という言葉のほうが、より実態に即しているという意見もあるくらいです。(181p)
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免疫には「獲得免疫」と「自然免疫」の二つがあることが、最近の研究で明らかになっています。
獲得免疫とは、はしかのように一度その病気にかかると二度と同じ病気にはかからなくなるものです。
自然免疫とは、体事態の防御機構であり、どんな細菌、ウイルスにも対抗できる力です。
それは白血球やリンパ球など免疫細胞の消化力です。
そして、自然免疫の方が人の健康に強く関係していることがわかってきたのです。

昔から「一病息災」と言われています。
ひとつの病気をすると、他の病気になりにくいということです。
ひとつ病気をすると体をいたわるようになるから、ということもあります。
それに加えて、ひとつ病気をすると体の中の自然免疫が活性化するからでもあるのです。
自然免疫が活性化しているので、他の病原菌、ウイルスが体に入ってきてもすぐに叩かれてしまう。
確かに、二つ以上の異なる感染症にかかることはあまりないようです。

野口整体の野口晴哉氏の著書に『風邪の効用』筑摩文庫があります。
この本には、時々風邪を引くことはよいことだ、風邪を引いたあとには体がシャンとする、と書いてあります。
それは風邪を引くことによって自然免疫力が賦活するからなんです。

2009年5月25日月曜日

体験こそ大切

こんにちは

またも出張中に届いた晶ちゃんからのメール。

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よっちゃん、おはよー!

昨日、お風呂に入ったとき、とっちゃんが「うんちでそう・・・」と言いました。
あわてて湯船からあげて「ここでしていいよ」といったら、ぷすん、とおならをしました。
「なーんだ、おならだったの」と再び湯船に入れたら、また「うんちでる」だって。
半信半疑で湯船からあげたら、今度は本当にムリムリムリーとバナナうんちを出しました。

「うんちでそう」という言葉が衝撃的でした。
「でるー」ではなく「でそう」という言葉が出てきたということに驚きました。感動しました。
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おーー、とっちゃんも成長してますねー。
いろんな体験を積みながら、脳が発達し、言葉も使えるようになる。
スバラシイ!

昨日、はっちゃんとっちゃんを連れて自転車でお買い物に行きました。
買い物が終わってスーパーから出たら雨が降っていました。
濡れて帰るのもいい体験だと考えて、レッツゴー。
びしょぬれになって家に帰り、そのままお風呂にザブーンです。
とても楽しかった。

和田秀樹/小山泰夫『わが子が輝くエリート教育』海竜社¥1400-にこうありました。

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ご両親が文化資本を蓄えている場合は、この点(大人が教育環境を用意してやらなければならないこと)を理解していますので、巷間言われる「お受験」に際しても、幼児教室や公開模試などに血道を上げることはありません。
家族でキャンプをしたり、代々木公園で自転車の補助輪なしに挑戦したりします。
そして名門校に難なく合格します。
公園デビューしてからの乳児の日課として望ましいのは、年齢を乗じたキロメートルの散歩です。
二歳ならば、毎日母親と一緒に二キロ散歩するわけですが、そういう子どもと、家の中でゴロゴロしていた子どもとでは、五歳になったとき、歴然とした違いが出てきます。
散歩の途中で出会うさまざまな出来事やアクシデントを通じた母親との会話によって、子どもは驚くほど成長します。(49p)
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ぼくも幼児教室併設の進学塾に勤めていたので分かりますが、幼児教室で教えられることって「うわべ」のことに過ぎないんですよ、幼児にとって。
そんなことを幼児教室で習って、上手くできなくて叱られている子どもって、かわいそうだなーって思っていました。
もう少し成長して小学高学年や中高生くらいになると、うわべのことでも実体験と同等に学べるようになりますが、幼児や小学生低学年では無理。
うわべはうわべにしか過ぎないので、習ったことを反復再生はできるんだけど、応用力は身に付かないんです。
だから実体験、それも愛する人、愛してくれる人と一緒にする体験が大事なんですね。

小学校入試をちょいと調べてみると、慶応、青学、学習院などは、ペーパー試験がないんです。
幼児にペーパー試験なんか課しても、実力は計れないことを知っているんですね。
さすが一流校です。
我が家でも、志望校が決まったらお受験前に過去問を何度か練習はするつもりですが、それ以上お受験塾へ通ったりはしないつもりです。
それよりも実体験。
特にお散歩重視で行きたいと思います。

2009年5月24日日曜日

9割は前準備

こんにちは

どんな仕事でもひとかどな人は、基礎がしっかりしていますよね。
基礎があれば、何かトラブルがあっても原理・原則にたち返って考えるから、問題解決も早くて確実。
自分にとっては新たな問題でも、たいていはこれまでに同じような問題があって、誰かがそれを解決したものだったりすることもあります。
それをすぐ調べて見つけられれば、解決もより近づきます。

ぼくが今やっているXFELプロジェクトで、主加速器を開発している研究者、新竹グループディレクターはすごいですよ。
問題にぶつかったら本屋に行く。立ち読みしに行くんです。
解決のヒントになりそうな本を探し出して、その場で読み込んじゃう。
「ああ、わかった!」と言って、自分の現場に戻っていく。
これもしっかりとした基礎があるからできること。

明治時代、開国したばかりの日本が素早く西洋文明を取り入れて国際社会に入って行けたのは、江戸時代の教育レベルが高かったからだそうです。
新しい政府や財閥系会社で中心的に働いたのは、武士だった人たちでした。
藩校で基礎を学んでいたため、新しい知識を取り入れることに苦はなかった。
何と、漢文の勉強をしていたので英語を身に付けるのも早かったそうです。
武士だった人に加えて、町人、農民レベルでも、寺子屋に通っていた人が多かったから、読み・書き・計算に通じており、十分な基礎があった。

子どもから「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」と質問されたら、どう答えますか?
ぼくは

 「基礎があれば何をやっても世の中を乗り切っていくことができるから」

と答えます。
「自分の人生を自分で切り開いていけるから」とも。
「基礎と情熱さえあれば、何だってできるんだ」とも。
「基礎がなければやりたいことは絶対にできないんだ」とも。
その基礎を合理的に学ぶ装置が学校なんだって。
それを活用しないのはもったいないって。

藤原和博さんのホームページの掲示板「よのなかフォーラム」にこんな投稿がありました。
教員志望の大学生が、アルバイト先の塾の生徒に「何で勉強するのか」と聞かれて困ってしまった。
それに対して、美容師さんの奥さんを持つ方からのコメント。
とてもいい話だったので、みなさんにも紹介しますね。

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> 生徒さんから「こんなん勉強して将来なんの訳にたつん?」と
>聞かれて困ってしまいました。
>その子は美容師になりたいらしいのです。
>「例えば社会だったら、時差の計算でも、海外旅行の時便利じゃ
>ない?」と言うと、「海外なんか行けへん」と言われてしまい、
>言葉を失ってしまいました。
>授業がおもしろくないからこんなことを言うのだろうし、
>私ももっと面白い授業ができるように頑張らないといけないと
>思うのですが・・・
>なんで勉強するのか、って説得力をもって言うにはどうしたら
>いいでしょう?

そうですね、勉強することに疑問を持っている生徒さんって、多くいらっしゃると思います。
それはそうと、その生徒さんの本音はどうなんでしょうか?ただ、勉強をするのが嫌で、そういういい訳をしている場合と、その子が言うとおりに美容師という夢と社会科授業のギャップに疑問を持っているのか。
そこを聞き出すのが先生の第1歩であると思いますが。

それはさておき、
実は、私の家内(私は二度目の結婚をしています)が美容師なので、この話しで会話してみました。
以下、その要約です。

美容師とは、まさしくお客様への接待業です。
もちろん、美容技術が大切であることは勿論ですが、それはだいたいどの美容師さんも同じだそうです。
それ以上に接待業として大切なのは、髪の毛をカットしたりパーマをかけている時のお客さんとの会話だそうです。
その時に、お客さんのいろんな話しを聞いてあげたり、ちょっとした会話をしてあげる。

そういう事でお客さんとの信頼関係が生まれて、リピーター客として定着してもらえるそうです。
だから、美容師作業とは一見なんら関係ない話しも、基本知識として知っておかないといけないそうです。

家内が以前、有楽町の美容室で働いていたとき、従業員全員が各自その日の朝刊の中から話題を持ち出し、数分のスピーチをしていたとの事です。
お客さんとの会話についていけないという事はビジネス上、やはり問題なんでしょうね。

ついでですが、美容師とはパーマ液などの薬剤を扱うために、科学の勉強や法律の勉強も必須項目なんですって。
仕事というのは、表面に見えていること以上の知識・経験が必要なんですよ。

私もよく後輩達に言うのですが、よのなかの仕事というのは、

  自分が本当にやりたいことは、1割。
  残りの9割はその1割を実行するための前準備なんだ

と。

どうやって、生徒さんにお話しするかも難しいとは思いますが、がんばってくださいね。

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いいですねー。
やりたいことをやれるために、9割の前準備。
それが基礎。
そのために勉強し続けなくちゃいけないんですね。

2009年5月23日土曜日

新型インフルエンザにも鼻呼吸

こんにちは

神戸に出張してきました。
新型インフルエンザ騒動で、神戸は閑散としていました。
道行く人ほぼすべて、マスク着用。
ちょっと異様な光景でした。

でも、マスク程度の目の粗さではウイルスまでシャットアウトはできないんですよ。
マスクの役割は病原体をシャットアウトするためというより、口や喉の乾きを防ぐことなのです。
口や喉の細胞表面が湿分で潤っている場合、その細胞表面の活性は正常になっているので、病原体の浸入を防ぐことができます。
細胞が乾燥してしまうと、細胞表面に微細なひび割れができたりして、そこから細胞液がしみ出し細菌の餌になり、細菌が増えてしまいます。
また、乾燥した細胞膜は正常な免役活性を持たず、ウイルスの侵入を許してしまいます。

既にインフルエンザに罹患した人は、マスクは有効です。
咳やくしゃみなどで、ウイルスの含まれた鼻水、唾液などを飛散させることを抑えることができるからです。
よって、他の人にインフルエンザをうつす可能性を低めることができる。

さてさて、鼻呼吸です。
鼻はすぐれたフィルターです。
技術士会の勉強会で国立感染症研究所 ( http://www.nih.go.jp/niid/index.html )に行ったとき教えてもらったことがあります。
ある濃度のインフルエンザウイルスが含まれた溶液を、鼻に垂らした時と口に垂らしたときとで、発病率がどのくらい違うか研究したんだそうです。
やはりというか、鼻の方が防護力が強いことが分かりました。
口に垂らした濃度の200倍もの溶液を鼻に垂らしても、発病することがなかったんです。
つまり、鼻は口の200倍のフィルター効果がある、ってことです。
鼻呼吸が大切なのがわかると思います。

今回の新型インフルエンザも、若者の罹患率が高いようです。
近頃の若者は、口をぽかーんと開いている子が多い。
こういう子は口呼吸してるんです。

今回のインフルエンザは、それほど毒性もなく、感染力も強くないようです。
早寝早起き、正しい食事、ストレスをためずに免疫力を保持すること。
そして鼻呼吸。
これで大丈夫だと思います!

2009年5月20日水曜日

へりくだらず、堂々と、しかし威張らずに

こんにちは

昔話につき合ってください。
ぼくが教員になって1年目のこと、観劇教室という行事がありました。
売れない劇団が地方の学校を巡回して廻っているんですね。
観劇代として、子どもひとり500円ずつ集めることになっていました。
「学校便り」で各家庭にお知らせされ、ある期日に子どもがお金を袋に入れて学校に持ってくる。
会計役は教頭先生がやることになっていました。

ぼくは素直な性格ですので、教室に子どもが持ってきたお金の袋を集め、クラス全員が持ってきていることを確認しました。
会計役は教頭なのだから、中身は開放せずそのまま教頭に渡しました。
お金は子どもの名前を記した封筒に入っていましたから、誰が持ってきたかそれで分かるはずです。

その日の放課後、ぼくが教室から職員室へ戻ると教頭に呼ばれました。

 教頭「あー、関口君、君のクラスのお金が¥500足りないんだけどね」
 ぼく「そうですか。誰の分が足らないのですか」
 教頭「いや、誰だかわからないけど足りないんだ」

分からないもへったくれもありません。
会計役なんだから、封筒とその中に入っているお金を確認すればいいはずです。
挙げ句の果てに教頭はこんなことを言う。

 教頭「足りないお金、君のポケットに入ってるんじゃないの」

なんてこと言うんだ、このオヤジ!!
封筒とお金を分離してしまったので、本当に足らなかったのか、足らなかったなら誰の封筒に入っていなかったのか、その時点ではもはや確認できませんでした。
ぼくはまだ世間に慣れていなかったので深く傷つき、その場で自分の財布から¥500を出して教頭に渡しました。
もしかするとぼくは半泣きしていたかもしれません(若いね、こりゃ)。

あとで他の先生に聞いたら、集めたお金は先ず担任が開封、確認して教頭の所へ持っていくのだそうです。
それならそうと最初に言ってくれればいいのに!
「会計役は私がやります」なんて言うから、お任せしちゃったぼくが悪いんですかね。

今考えると、これは単に<意地悪>の類だったんだと思います。
最近は誰かからイヤなことをされても、「これは意地悪なんだな」と思ってやり過ごすことができるようになりました。
そして、自分は意地悪なオヤジにはならないように注意しようと思うようにしています。
意地悪なオヤジって、下品でかっこ悪いもんね。

黒川伊保子『LOVE brain』PHP研究所\1350-にこうありました。

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男が公明正大であるためにも、女が上品であるためにも、まずは他人を下卑た欺きに陥れないことだ。
自分がしたことは、他人もすると考えるのがヒトの脳である。
自分の欺瞞と高慢の数だけ、私たちは後の人生で萎縮する。(47p)
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確かに、意地悪したり他人を欺いたりする人はどこにでもいますね。
そういう人は、自分がそうだから他人もそうだと思っている。
だから他人を信頼できないんです。
他人を信頼できなければ、自分も誰かから信頼されることもありません。
なので、威張ってみたり、どうでもいいことで怒ってみたり、自分の方が立場が上だというような態度に出るんでしょう。
あるいは、自分より明らかに上の立場の人に対しては、妙にへりくだってしまう。
下品です。

上品なふるまいとは、「へりくだらず、堂々と、しかし威張らずに」なんだそうです。
自分に実力があり、多くの人から信頼されていれば、堂々としていられます。
もちろん、へりくだる必要もない。
自分から威張らなくたって、みんなから健全な尊敬を得ることができます。
萎縮せず、伸び伸びとした人生を楽しむことができるんです。

2009年5月19日火曜日

喜んでくれる人がいるからこそプロ

こんにちは

最近、プロって何だろうなー、って考えることがよくあります。
その仕事で給料をもらっていれば、誰もがプロのはずです。
でも、こいつとてもプロとは呼べないな、と思う人もたくさんいます。
プロらしい人とそうじゃない人、その違いは何なのでしょうか。

写真家の秋山庄太郎さんはこう言っていたそうですす。

 女であれ、花であれ、山であれ、小枝であっても
 カメラのファインダーをのぞいて
 「ああきれいだ」と思った瞬間にシャッターを切る

美的感覚があって、美しい瞬間を逃さないだけの「技術」がある。
それがプロ。
でもそんなの当たり前ですね。
ここからがすごいんです。
秋山さんはさらにこう言います。

 これをカメラに収めて写真にしたら、
 これを見る人も、ああきれいだ、と
 思ってくれるだろう

つまり、常に「誰か」を意識して仕事をしているんですね。
写真を見てくれる人が喜んでくれるかどうか。
秋山さんが写真家としてプロでいられるのは、秋山さんの写真を楽しんでくれる人、喜んでくれる人が存在するからなんです。
そこが自己満足で終わるアマチュアとは違う。

給料をもらっていなくたって、家事だって育児だって介護だってプロであるべきです。
そう考えると、プロの仕事には「対象」がある。
それは、お客さんだったり、家族だったり、子どもだったり、老人だったり。

自分がすることに対して、喜んでくれる人がいる。
喜んでもらうにはどうしたらいいか常に意識して、自分の行動を律する。
お客さんが喜んでくれるにはどうしたらよいか。
家族が幸せに暮らすために、自分は何をすべきか。
子どもが真っ当に育つために、どうしていくのがよいか。
老人が快適に過ごすために、今何をしたらよいか。
いつもそういう誰かのことを考えて行動できる人がプロなんだと思います。

老人介護なんか顕著だと思いますが、下手な人に介護されると不快で不快で仕方ないと言います。
お世話されていても、ああ早く終わってくれないかな、と思う。
次は別の担当さんが来てくれないかな、とも思う。
口に出して言わないかもしれませんが、下手な介護につき合わされる老人はそう思うのだそうです。
下手な介護をする人は、相手のことを考えずに、自分のやらなきゃならないことだけを機械的にこなす。
相手の反応を確かめつつ、自分の仕事をしていくという態度に欠けているんですね。
そういう介護をされると、自分がモノ扱いされているようでとても不快になります。

喜んでくれれば、必ず「報酬」も着いてきます。
お金であったり、次の面白い仕事であったり、感謝の言葉であったり、報酬はいろいろでしょうが、必ず自分に返ってくるものがある。
そしてそれがまた、もっと喜んでもらうにはどうしたらいいか、という自分を成長させる原動力になっていく。

同じ金額のお金だって、ちっともよくないけど契約書に書いてある金額を渋々支払われるのと、ありがとうの言葉と一緒にいただけるお金では、その価値はまったく違うものだと思います。
その時は同額だったかもしれませんが、ちっともよくなければ次は減額、あるいはそこで縁が切れてしまうかもしれません。
喜んでもらえば、次もあるし、もしかしたら増額契約してくれるかもしれませんし、他の人に紹介してもらえる可能性もある。
ご縁が続いていきます。
つまり、プロの仕事は未来に向けてひろがっていく可能性を持っている。

ロケット博士の糸川英夫さんは、そのことをこう言います。

 プロは「相手」の信認の上に成り立つ
  (糸川英夫『モーツァルトと量子力学』PHP文庫)

相手に喜んでもらう。
それを常に意識して自分のやることを律していく。
そうすれば相手からの信認を得られ、プロに育っていけるんだと思っています。


秋山さんの言葉も糸川英夫『モーツァルトと量子力学』からの孫引きです。

知能指数とは何か

こんにちは

ぼくは頭がいい方です。
知能指数IQは200あります。
エヘン!

なーんて言ったらどう思いますか。
さすがよっちゃん、スゲーでしょうか。
よっちゃん何バカなこと言ってんの、ちょっとおかしいんじゃないの?、でしょうか。

そもそも知能指数って何でしょうか。
知能指数の定義は、

 IQ=(精神年齢÷実年齢)×100

です。
精神年齢とは、ある年齢の普通の人だったらこのくらいのことが分かる、といったものです。

では、よっちゃんIQ200にあてはめてみましょう。
よっちゃん満47歳の精神年齢を、IQ200から逆算して求めてみると、

 よっちゃんの精神年齢=94歳

ということになります。
ってことはもしかしてつまり、ボケてる??
あはははは。

確かに年齢と共に磨かれる知性はありますが、一般的に知能は成人になってしまえばそれほど伸びるものではありません。
精神年齢は25歳くらいでほぼ飽和してしまいます。
すると、定義式をあてはめれば、実年齢が上がるに従ってIQはどんどん下がっていってしまうことになります。
だからといって、アタマが悪くなっていくわけではありませんよね。
ですから知能指数というものは、定義からして成人には適用できないものなんです。

時々、幼児教育の教室に「IQ180の天才児になれる」なんて宣伝を見かけます。これもあてになりません。
もともと知能テストは、発達に遅れのある子どもを早期に発見して、特別な支援教育をするために開発されたものです。
村上和雄『幸福の暗号』サンマーク出版¥1600-にこう書いてありました。

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一番最初にIQテストを発明したのはフランスのビネーなんですね。
彼がこれを発明した理由は学校の教育についていことができない、あるいは勉強が遅れてしまっているような人を客観的に発見して、補習を受けさせることによってみんなについていけるようにする指針として考え出したわけですよ。
ビネー自身はそれが知能を測るなんていっていない。
知能というものがあってそれを客観的に測れるなんて一言もいっていないし、むしろ「そういうふうに使ってはいけない」といっているんです。
ところがそれが、アメリカに輸入された途端にまちがった使われ方をするようになった。(109p)
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知能検査、知能指数は発達の遅れた子どもに対して意味を持つものなのです。
ですから、標準のIQ100を大きく越えた数字はあまり意味を持たないのです。
ただ単に、知能検査の測定限界を超えた数字が出た、ということに過ぎないのです。
IQ180と測定されたからって、天才児であるとはまったく言えません。

知能検査も繰り返し同じテストをすれば、習熟して点数が良くなるのはあたりまえです。
天才児養成をウリにしている幼児教室は、知能検査の特訓をしているだけなのです。
特訓すればIQ180を出す子だっているに決まっています。
それは、頭の良さとは何の関係もないことなのです。

世に言う「天才」というのは、<大人になってから何らかの偉業を成し遂げた人>のことを言うのです。
子どもがいくら知能指数が高くたって、子どもじゃ何も業績がないわけですから、天才とは言えませんよね。

2009年5月18日月曜日

英語は中学からでもいい

こんにちは

はっちゃんの小学校選びをしています。
カリキュラムも重要なポイント。
そこでの観点は、国語重視。
最近の私立小学校は英語をウリにしているところも多いのですが、それは邪道。
英語なんか中学からでも十分です。せいぜい小学校高学年からでいい。
それより幼少の頃は国語重視ですね。
だって国語は思考言語なんですから。

和田秀樹/小山泰夫『わが子が輝くエリート教育』海竜社¥1400-にこうありました。

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日本語すら未熟なところへ突然、英語の環境に放り込まれては、英語も日本語も中途半端になり、ろくにものを考えられない人間になりかねません。
思考言語が日本語である以上、日本語にしっかりと軸足を置き、あらゆる概念を使いこなす訓練を積みながら、社交上、困らないための「道具」として、副次的に外国語を学ぶのが理想なのです。(158p)
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バイリンガルはかっこいいんですが、弊害もあります。
中途半端なバイリンガルだと、英語も日本語も流ちょうなんですが、話す内容が幼稚になるんだって。
それは人間の思考言語はひとつしかキャパがないからなんです。
思考言語は母国語となるでしょうが、それがしっかりと身に付いていないと深く考えられなくなる。
なので、中途半端なバイリンガルの人の話は、幼稚になってしまうんだそうです。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にもこうありました。

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バイリンガルというのは、二つの国語を「母語のようなもの」として運用することのできる人であり、定義からして、どちらの言語をも文法規則というものを意識しないで使うことができる。
小学生まで日本にいて、日本語を文法規則を意識せずに使いこなし、中学から高校までアメリカにいて、やはり英語を文法規則を意識しないで使いこなせるようになって・・・という人の場合がそうである。
この人の場合、「言語の文法規則を体系的に学ぶ」ということをどちらの国においても学習していない。
その結果どういうことになるかというと、「流暢なのだけれど、微妙に不自然な言葉」をどちらの国語についても使うようになる。
そして、一番問題なのは、「微妙に不自然らしいことは、周りの人のちょっとしたリアクションから分かるのだけれど、どこがどういうふううにおかしいのか自分には説明できないし、周りの人も説明できない」ということである。(45p)
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バイリンガルは、ナンカ変な外人、になっちゃう恐れがあるんですね。
変な日本人にもなっちゃう。
これは長い人生、損失の方が大きいと思います。
たしかに幼少の頃から語学は訓練しないと、ネイティブのように発音できなくなるのは事実。
でもネイティブみたいに発音する意義がどれほどあるのか。

アメリカに移住した中国・韓国系アメリカ人の英語能力がどの程度か、移住した年齢との相関を調べた研究があります。
ネイティブを100として、
 移住した年齢;3~7才=ほぼ100
        8~10才=95
        11~15才=90
        16~39才=80
なんだそうです。
やはり幼少であるほど、ネイティブと同じ英語力を身につけられる。
でも、16才以上大人でも80点も身に付くんです。
80%もあれば、普通に生活し、仕事をして行くには十分だと思います。
まして日本人が旅行に行ったりビジネスで使う程度なら必要十分でしょう。
もちろん、細かなニュアンスやジョークが分からなかったりするかも知れません。
カタカナ発音でかっちょ悪いかもしれません。
でもそれよりも、ちゃんとした思考言語を持てない方がデメリットが大きい。

我が社の脳センターのセンター長に、ノーベル生理学賞の利根川進さんが着任しました。
着任講演会は英語で行われました。
これがまるでカタカナ英語なんです!
それでもMIT教授だったんですから、流ちょうな英語なんかくそ食らえですよ。
利根川さんも国語力はすごい。とてもおしゃべりなんです。
日比谷高校卒だしねー。

頭の良さとは国語力なり

こんにちは

とうとう先週、労組団体交渉にデビューしましたー。
これまでも労組執行委員の経験もありましたが、今度は委員長です。
やっぱりぼくがメインにしゃべらなくちゃね。
何をしゃべるか、断交前にレジメを作りました。
どういう論理で攻めれば説得的になるか考えながらの作業。
とても楽しかった。

そして今期初断交。
初めてなので理事長も出席。
我が社の理事長は、言わずと知れたノーベル化学賞の野依さんです。
子どもの頃のあだ名は「野豚」、教授になってからのあだ名は「鬼軍曹」。
とても精力的な方ですから、圧倒されないようにしなくちゃ。
でもたかだかぼくの2倍です(^^;)。<-4/14ごみメール参照。
そう思えば、それほど物怖じしなくてすみました。

理事長はお忙しい方なので、具体的な交渉は労務担当理事へ引き継いで退席です。
以降は労務担当理事と労務関係の部課長さんと交渉。
労務担当理事、つまり平理事は、ぼくの1.5倍です(^^;)。<-4/14ごみメール参照。
まるでリラックスして交渉できちゃいましたよー。
あはははは。

とはいえ、さすがに我が社の若手No.1理事ですから、よくしゃべる。
ぼくもがんばったんですが、やっぱり理事の方がたくさんしゃべりましたね。
理事:ぼく:その他=5:4:1くらいでしたか。
さすがぼくの1.5倍だけはあります!
ぼくもまずまず善戦したと思いますよ。

理事長にしても理事にしても、話がめちゃくちゃ上手いです。
おしゃべりで話す量もすごいんですが、内容もあり、論理も整然としている。
話すことをそのまま筆記しても、十分読むに耐える文章になるくらいです。
頭がいいって思いますよ。

今野浩『金融工学の20年』東洋経済新報社¥1600-に、経済学者で超整理法で有名な野口悠紀雄さんのエピソードが書いてありました。
今野さんは高校、大学で野口さんと同級生なのだそうです。大学はもちろん東大工学部。

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野口氏は、われわれの世代を代表するスーパースターである。
日比谷高校時代は、つねに400人の中で一番の成績を収め、特に国語の能力では日比谷100年の歴史の中でも、谷崎潤一郎、江藤淳につぐナンバー・スリーと謳われた。
国語の能力がすぐれているということは、ほんとうの意味で頭が良いということだ。
そのうえ「超」勤勉ときている。(144p)
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母国語とは「思考言語」でもあるんですよね。
だから頭をよくするためには、思考言語を鍛える必要がある。
それも自覚的に。
母国語だと思うと、ある程度は自然にしゃべれちゃうから、あえて鍛える必要がないように思えてしまう。
ところがどっこい、国語こそ頭の良さなんですね。
思考言語は意図的に鍛えていかなくちゃいけなんです。
たくさん本を読み、多くの人と議論し、いっぱい文章を書く。

労組執行委員長の仕事も、その意味でいいチャンス。
頭のいい人たちと丁々発止の実戦を経験することができるんですから。
こりゃー鍛えられますよ。
ぼくは理研労第90期の執行委員長です。
ということは、長い理研の歴史の中で。これまで執行委員長はたったの90人。
めったにできる仕事ではありません。
誰もができる仕事ではありません。
いい経験をさせてもらっています。
ありがたい、ありがたい。

2009年5月16日土曜日

まずは体を鍛える

こんにちは

トランポリンを購入してよかったですよ。
はっちゃんもとっちゃんも夢中です。
一人で跳ぶのは好きじゃないんですが、ぼくが手を持って跳ねるのをせがみます。
手を持って高く高く跳ぶんです。
はっちゃんなんか、天井ぎりぎりの高さまで飛び上がります。
我が家の天井は普通の住宅としては天井を高く設計したんですが、それがよかった。
男の子ですから、高く跳べればとても嬉しい。
何度も何度もやります。
ぼくもへとへと。中年だからね。
あはははは。

いくらぼくが手を添えていると言っても、子どもの方も自分の手をグイッと踏ん張らないと高く跳べません。
手と腕をグイッと踏ん張るためには、胸の筋肉、腹筋、背筋に力を入れる必要がある。
もちろん、けっこう激しい運動ですから心臓も肺も鍛えられます。
楽しみながら自然と体を鍛えることができるんです。
はっちゃんなど、幼児のくせに胸板がっしり、見ただけではわかりませんが触ってみると腹筋もしっかりあって、中央が割れているんです。

慶應義塾の創始者である福沢諭吉は「獣身人心」を教育の理念とし、その伝統は今でも慶応幼稚舎にも受け継がれているそうです。
孫引きですが、『福翁自伝』に次のように書いてあるそうです。

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子どもの教育法については、私はもっぱら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。
まず獣身を成して後に人心を養うというのが私の主義であるから、生まれて三歳、五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習いをさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。
それまではただ暴れ次第に暴れさせて、ただ衣食にはよく気を付けてやり、また子どもながらも鄙劣なことをしたり賤しい言葉を真似たりすればこれを咎めるのみ、その外は一切投げやりにして自由自在にしておくその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。
すなわちこれがまず獣身を成すの法にして、幸いに犬猫のように成長して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコデ初めて教育の門に入れて、本当に毎日、時を定めて修業をさせる。
なおその時にも身体のことは決して等閑にしない。
世間の父母はややもすると勉強勉強と言って、子どもが静かにし読書すればこれを誉める者が多いが、私方の子どもは読書勉強してついぞ誉められたことはないのみか、私は反対にこれを止めている。
(和田秀樹/小山泰夫『わが子が輝くエリート教育』海竜社¥1400-、143-144p)
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確かに、9才、小学4年生くらいまでは、あまり勉強には向いていないんです。
ぼくの教師時代の経験からもそう思います。
9才くらいまでは、遊び、それも体を使った遊びをふんだんにした方がいい。
それは体を鍛えるというだけでなく、体を動かすことを通して脳神経の接続をする。

最新の脳科学でも、思考は運動の応用であることが分かっています。
筋肉は神経が接続することによって動かされています。
思考するとは、神経が筋肉ではなく、また他の神経細胞へ接続することによってなされるわけです。
その意味で「応用」なのです。

神経が他の神経に接続できるようになるには、やはり基本となる筋肉の制御をきちんとできるようにする必要があるんです。
筋肉への神経の接続ができるようになってはじめて、神経から他の神経への接続もできるようになる。
それが、8才、9才、10才ころなんです。
いわゆる「9才の壁」を乗り越えられるかどうかは、それまで存分に体を使って遊んだかどうかで決まるんです。
昔から、小学2年生から4年生にかけては「ギャングエイジ」なんて呼ばれています。
それは、まるでギャングのように、福沢諭吉流に言えば獣身のように、暴れまくる時期なんです。
この時期に十分暴れまくれれば、10才を過ぎる頃から勉強へとシフトしていける体勢が整うんですね。

だからこの時期に塾に通わせて勉強させたって無駄。
だって子どもの発達生理に合ってないんだから。
もちろん現代では犬猫のようにだけ育てるわけにはいかないでしょう。
基礎となる読み書き計算くらいは身につけさせていく必要はある。
でも応用的な勉強まで手を出す必要はないし、反って害があるんです。

今、はっちゃんの入学する小学校選びをしています。
選ぶ観点は、4年生くらいまでは勉強よりも体験重視、体重視、遊び重視の教育をしてくれるところ。
中学受験を売りにして、スパルタ教育をするような学校は嫌なんです。
先日の私立学校フェアでもらった資料を読みながら、じっくりと楽しみながら検討している最中です。

負けてもいい

こんにちは

出張中のぼくに、晶ちゃんからメールが届きました。

 そうそう、杉坂先生が「昨日、溌貴君が教室で椅子取りゲームを
 したとき、回が進むにつれて緊張したようで、いつの間にか
 しょんぼりして教室から出て行ってしまったんです。もしかして
 溌貴君はゲームとかあまり好きじゃないんでしょうか?」ですって。
 「はい、あまり好きではないと思います」と答えましたが、
 たぶん、負けず嫌いだから、ゲームでも真剣になりすぎてしまって
 負けが見えてくるといやになってしまうんだと、私は思うのです。
 まっすぐで純粋な気持ちはいつまでも持ち続けてほしいのですが、
 倒れても負けない、何度でも起きあがれる力をつけてほしいです。
 今こそ、たくましく成長するチャンスかもしれません。
 なんだか、とても楽しみになってきました。

まー、椅子とりゲームなんかに勝つ必要もないとぼくは思っています。
ひとつの椅子をみんなで取り合うなんて、ちょっと下品な遊びだとも思います。
人を押しのけてまで自分が椅子を取るなんて、お上品なはっちゃんは耐えられなかったのでしょう。
って、考えすぎ??
あはははは。

安田佳生『下を向いて生きよう』さんマーク出版\1200-にこうありました。

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自分の幸せに関わっている部分では、努力をして階段を上っていくことは大切だが、自分の幸せに関わっていない部分では、負けてもいいというのが私の持論だ。
周りと比べて、すべてにおいて勝つ必要はない。
自分が幸せであるために必要なところで勝てば、人は十分に幸せになれるのだから。(62p)
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ぼくも同感ですし、ぼく自身そう生きているんです。
何でもかんでも努力したら、何でもかんでも勝とうとしたら、疲れちゃいますよ。
自分というリソースも有限なんです。
自分の資源を最大限活かそうと思ったら、がんばりどころと、手を抜くところ、適当でもいいところを色分けしなくちゃね。

大人はこういういい加減さが分かっているはずなんですが、つい子どもには「がんばれ、がんばれ」と言ってしまう。
子どもだって有限なのは変わりませんから、そうなんでもかんでもがんばれるわけじゃない。
でも親や先生にがんばれと言われると、がんばらざるを得なくなってしまう。
自分の意に沿わないこともがんばらなくちゃならないって、ちょっと不幸です。

そりゃあ子どもですから、何にがんばるべきかわからず、低きに流れてしまうこともあるでしょう。
そこいらは親や先生が見極める必要はあります。
でも時に、たまに負けたっていいんだよ、○○君に勝ちを譲ってあげてもいいんじゃない、なんて言うことも、親や教師には必要だって思っています。

もちろん負けっ放しではダメで、ここぞと言うときには勝つことも必要。
勝てる勝負は捨ててはいけない。
でも、時には負けるってことも、人間の幅を広くするものだと思っています。

2009年5月14日木曜日

才能なんか関係ない

こんにちは

時々、若い技術者君たちに資格試験の勉強を教えることがあります。
教え方のうまい(^^;)ぼくが教えてるのに、勉強を続けられなくてリタイヤしちゃう青年もいます。
それも勉強を始めてひと月も経たないうちにギブアップ。

そういう青年が言うことは、いつも決まっています。

 オレには才能がないんだ

才能なんて、ひと月やふた月その勉強をやっただけで分かるようなものではありませんよ。
あきらめが早すぎます。
そんなときは、吉本康永『ぐうぜん東大に合格させる法』三五館\1100-に書いてあった次の話をしてあげたりします。

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自分の子供に数学の才能がないと嘆く親がいる。
私はそういう時に次のような例を挙げる。
中学、高校と数学がダントツにできた生徒が、大学の理学部の数学科に入り、四年間勉強をし、さらに修士課程に進んだ段階で、「俺は数学の才能がないのかなあ」とひそかに悩むのが、本当の数学の才能の問題だということなのだ。
受験数学に才能は関係ない。
これはすべての塾講師、予備校講師が公言していることだ。(171p)
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たかが資格試験の勉強で、才能の有無なんて関係ありません。
一定の努力ができ、ある程度の根気があって、小学校程度の読み書き計算ができる人なら誰だって合格できるのです。
たぶんこのことは、最難関の国家試験である司法試験だって同じだと思います。
法律の才能なんかなくても、並大抵の努力ではだめかもしれませんが、努力と根気の継続ができるなら、誰でも合格できるものだと思います。
(じゃあよっちゃん、やってみな、って??)
つまりリタイヤしちゃう青年は、才能がないのではなく、一定の努力ができない、ある程度の根気がないのが原因なんです。

ただし、才能は必要ないかもしれないけど、適性は必要かもね、と言ったりもします。
適性がない、すなわち、今の仕事が好きじゃない、面白くないからモチベーションが上がらない。
なら、わざわざ資格を取ってまで上級技術者を目指す必要はありません。
自分のもっと活かせる他の道を探した方がいい。
嫌ならこんな所でウジウジしていないで、すぱっとやめちゃって別の道を探すっていうのも人生だ。

でも30歳をすぎた青年君には、こんなことを言ったりもします。
たしかに、才能もないかもしれない、適性もないかもしれない。
かくいうぼくも、この仕事の才能があるかどうか分からないし、実を言えばそれほど好きじゃない。
でもこの仕事で食っているのは事実。
どうせなら、家族にいい暮らしもしてもらいたいし、女房子どもから尊敬もされたい。
いい給料ももらいたいよ。
そして少しでも楽しく仕事したいしね。
でももうこの年齢になったら他の道を探すのも難しいし、家族を路頭に迷わせるわけにもいかない。
じゃあ、この道で生きていくしかないじゃないか。
人生には、そういう「ふんぎり」や「あきらめ」も必要だと思うんだ。

そういう話しをして、再度モチベーションを持ってもらえたらと思います。
それでも、もう勉強会に来なくなっちゃう青年もいるんですけどね。

谷川浩二『集中力』角川oneテーマ21¥600-から引用します。

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「どうすれば、将棋が強くなれますか?」とは、もっともよく聞かれる質問である。
実は、この質問には肝心な言葉が隠されている。
それは「努力しないで」という言葉である。
つまり、「どうすれば努力しないで将棋が強くなれますか」と聞きたいのだ。
(略)
しかし、才能という言葉は、あるレベルまでいってからのことで、それまでは継続的な努力によってのみ上達や向上がある。(50p)
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谷川さんも努力抜きの才能の開花はない、と言い切っています。
ぼくの教えている資格試験の勉強については、一定の努力と言っても、たかだか毎日2時間の勉強時間を確保し、それを半年続ける程度です。
踏ん切りさえ付けば、やれないことはないんです。
才能がない、とすぐに自分に見切りをつけちゃうのはもったいないことだと思います。

2009年5月13日水曜日

卑怯とは何か

こんにちは

今一緒に仕事をしている会社の部長さんからこんなメールが届きました。

  いつもお世話になります。
  ひとつご相談があります。
  標記の日に、弊社監理部門の研修会が予定され、
  東京、大阪、名古屋の該当者が東京に集合し、
  2日間の合同研修となります。
  今回、御社担当の○○が対象者になっており、
  キャリアアップのために受講をさせたく思いますがよろしいでしょうか。
  実は小職はこの研修会世話役のため、同様に定例には出席できません。
  重ね重ねご無理を言いますが、何卒ご検討いただきたく存じます。

こういう相談には、ぼくは激しく反論します。
「標記の日」とは、現場での定例打ち合わせのある日です。
つまり「先約」のある日。
もちろん、こういう日にだって部下を研修に出すことはいいことだと思いますよ。
長い目で見たら、担当者がしっかり勉強してきてくれれて、ぼくらの仕事をより良くしていってくれると思います。
ぼくも認めたいと思います。
でも、この文面だけでは認めがたい。
なぜか。

それは、「自社の都合」しか言っていないからです。
当方に対する配慮が述べられていない。
先約を反故にすることに対する、フォローが述べられていない。
その分の仕事をどこでどうフォローするのか。
代理の者を立てる、別の日に業務を行って予定された打ち合わせの準備を滞りなく行う、など。
きちんとフォローするので、約束の日に別の業務に行かせたい、と言って欲しいのです。
それがなけりゃ、ちょっと上司失格と言わざるを得ませんよね。

ぼくは「卑怯」をこう定義しています。

 「自分の不都合を他人に押しつけること」

もともとこれは藤原正彦さんが言っていたことだと記憶しています。
この定義に照らし合わすと、上の部長さんの物言いは確実に卑怯だと思います。

鍵山秀三郎『凡事徹底』致知出版\1000-にこうありました。

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合理化、大変素晴らしい話です。
合理化して体力をつけて最後まで生き抜こうとおっしゃる方々の合理化というのはどういうことかと見ていますと、ほとんどの人の合理化というのは、自分にとって不都合なことを人に押しつけることです。
自分の会社にとって不都合なことを他人や他者に転嫁することが合理化だと思っている経営者が非常に多く、一部上場会社でもそうです。
いま、合理化するということの中身は全部これです。
しかし、これは大変怖いことです。
自分にとって不都合なことは他人にとっても不都合なのです。
他人にとって不都合であるということに対する思いやりがないのです。
思いやりに欠けた行為をすることによって、そのときは合理的になったと思ったことが、必ずそれ以上の不合理になって返ってくるんです。(43-44p)
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卑怯なことをすると、そのときはよくても、あとでそれ以上悪いことになって返ってくる。
あるいは、その場は良くても、思いもしなかったところでその影響が出てしまう。
卑怯とはそういうものだと思います。

卑怯なことをしないためには、やはり「思いやり」なんです。
相手に対する思いやり、すなわちフォローです。
鍵山さんはこうも言います。

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自社にとって不都合なことを他者に転嫁しているとどうなるかというと、社員は間違いなくすさんでいきます。
思いやりのない集団になって、だんだん心がすさんでいきます。
私は何が嫌いかといって、すさんだ心ほど嫌いなものはありません。
ですから、少々お金を犠牲にしようが何をしようが、心のすさまない会社にしようと思って今日までやってきました。(50p)
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上の部長さんの部下もそうでしょう。
ぼくら顧客に対することだけじゃなく、自分の部下に対しても同じです。
フォローがなければ心おきなく研修に出かけられなくなります。
現場を気にしつつ勉強なんかできるものじゃありません。
上司がフォローしてくれなければ、自分でその穴を埋めないとならなくなる。
そのための時間をどうやりくりするか、結構大変なんです。
そしてその分の給料が出ないとなると、必ず心がすさみます。
心がすさめば、いい仕事なんかできなくなってしまうのです。

代理を立てるにしても、他の日に業務をするにしてもコストがかかります。
そのコストを負担してでも部下を研修に出す。
顧客への迷惑も最小限にする。
そうやってコストパフォーマンスを最大点に近づける。
これが卑怯者ではないマネージメントだとぼくは思うんだけどね。

2009年5月12日火曜日

物施->顔施->心施

こんにちは

こういう面白いホームページがあります。
http://www.globalrichlist.com/
自分の年収を書き入れると、自分が世界の中でどのくらい金持ちかを表示してくれます。
試しにぼくの年収を書き入れてみたら、世界の中では驚くほど金持ちの部類に入ってしまうようです。
というより、世界の中には貧しい人たちがものすごく多い、ということなんでしょう。

このホームページでは、

 あなたの1時間分のサラリーでいいから寄付をしてください。
 それがたくさんの貧しい人を幸せにしていきます。

と言っています。

ワタミの社長の渡辺さんは、お子さんたちにこう教えているそうです。

 誰かからお年玉などお小遣いをもらったら、
  半分は自分の好きなことに使いなさい
   45%は貯金しなさい
    5%は寄付をしなさい

子どもの金銭教育という観点からも、自分の得たお金の内いくらかは貧しい人のために使うことを教えていくことは大切だと思います。
逆に言えば、貧しい人に寄付ができるくらいの経済的、心理的余裕を持つことが大切。

大越俊夫『自学力を育てる教育革命』日新報道\1300-にアサヒビール会長の樋口廣太郎さんの講演録が載っていました。
樋口さんは子どもの頃、おばあさんからこう教えられたそうです。
京都生まれらしいお話です。

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目に見える物の施しは「物施(ぶっせ)」と言います。
その次に、言葉による施し「言施(げんせ)」がある。
「がんばりなさい」とか「今日は良い天気ですね」などと言って、相手を元気づける言葉です。
私は祖母から「一番下の施しは子どもの時にしなさい」と言われました。
言葉で言うにはあなたはまだその力もなければ、言葉も持っていないから、ということなのです。
その次に来るのが「顔施(がんせ)」。
いつも、相手に心地好い笑顔を向けていくことです。
これは顔や表情の施しです。
最後は心の施し「心施(しんせ)」なんです。つまり親切です。
京都の商家は、必ずそれを子どもに教えたものです。
つまり、何に対しても「ありがとうございます」と言えることです。
森羅万象に対して感謝の念を持つことで、自分が一つの力をもらうということです。
こういうことを学ぶことが、家庭教育の原点なのではないかと思います。(27-28p)
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一番下のレベルの施しは、ものやお金による施し「物施」なんですね。
まず最初に「物施」からはじめないといけない。特に子どもは。
いきなり心の施し「心施」のレベルにはなれないんだと思います。
物施から始めてそれを続けていく内に、言施が身につき、顔施という顔つきになり、心施に到達できるのでしょう。
「お金じゃないよ心だよ」なんて言っている人は、ホントはケチなだけなのかも。

ぼくはコンビニやスーパーで、おつりに小銭をもらうとレジに置いてある寄付箱に入れたりします。
ヤフーで募金のお知らせがあったら、ちょっと募金したりもしています。
でももっと意識して寄付をしていきたいなって思いました。
それは自分の心のレベルを上げることにもなりますから。

2009年5月11日月曜日

よい自己チュー、悪い自己チュー

こんにちは

時々、こいつすげー自己チューだなー、って思う奴がいます。
自分のことばかり主張して、うっとうしい。
もうどっかへ行ってくれ!って思っちゃいます。

こういう自己チュー野郎をよく観察してみて、面白いことを発見しました。
奴は意外と「他人のことを気にしている」んです。
逆説的なんですが、こういううっとうしい自己チュー野郎はちても他人のことをすごく気にしている。
なぜなら、何でも他人にやらせよう、自分の思うとおりにやらせよう、としているからです。
実はこれがうっとうしさの原因なんです。

人は自分に被害が及ばないのなら、他人が何をやろうとあまり気にならないものです。
ところが自分の意に沿わないことを他人から強要されると、とても嫌。
自己チュー野郎は、こういう嫌なことをするんです。
それも自分のためにそれをやらせようとする。
自分のやるべきこと、自分でもできるようなことまで、誰かにやらせようとする。
だからうっとうしい。

うっとうしいから当然、誰もそいつの意のままになんかしません。
自己チュー野郎は、それで怒ったり、いらついたり、なげいたり、落ち込んだりしている。
「○○がちっともやってくれない」「△△は非協力的だ」。
上手くいかないのは他人のせいだ、と言うわけです。
あー、うっとうしい!

『徒然草』の中に、こんな段がありました。

  万のことは頼むべからず。
  おろかなる人は、深くものを頼む故に、恨み怒ることあり

何百年も昔から、自己チュー野郎はいるんですねー。
おろかです。
だって、他人に期待するって自分が勝手に期待しているわけじゃないですか。
他人がその期待に応えないからといって恨み怒る。
その恨み怒りは、自分でタネをまいているだけなわけです。
それで落胆したり、不安になったりしている。
それって不幸な生き方ですよね。
こういうのを世間一般では「被害妄想」と言うんです。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にこうありました。

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コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。(181p)
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世の中には、やっぱり自分の思うとおりのことをしているのに、さわやかな人もいますよ。
自分の思い通りにやっているという意味では、自己チューです。
でもこっちの自己チューは、ちっともうっとうしくない。
なぜなら、他人に期待していない。
自分のやりたいことのために、自分のやるべきこと、自分でできることを淡々とやっている。
当然、誰にも被害は及びません。
誰にも期待していないにも関わらず、案外いろんな人が手伝っている。一緒にやっている。
自己チュー君が面白そうなこと、自分や会社、社会にとってもいいことをしているなら、一緒にやりたくなるわけです。
自然と人が集まり、楽しくみんなでやることになるわけです。
そしてますます思い通りのことが実現していくのです。

加減を知る

こんにちは

前便で「ほどほどが大事」と書きました。
ほどほどとは、まったく主張するなということではなく、主張すべきことは主張するけど、頃合いを見て引け、ということです。
まー、言うはやすし行うは難し、ですがね。
要するに、加減を知る、ということです。
加減とは、読んで字のごとし「加えたり、減じたり」です。
加えることも必要だし、減らすことも必要。

では、加減を知るためにはどんな訓練がいいかというと、それは料理。
料理はプロトコル(段取り、手順)の訓練になるだけじゃなく、火加減、煮加減、焼き加減、味加減と、加減のオンパレード。
加減を知るためにもってこいなんです。
塩辛い味が好きだと言っても、塩を入れすぎたらやっぱり食えないわけです。
薄味がいいと言っても、あまりに調味料を入れなかったら、ぼやけた味になってしまって美味しくない。
ガツンと入れるものは入れなくちゃ、美味しい料理はできない。
さりとて入れすぎたら食えなくなる。
途中途中味見をしながら、判断していく必要があるんです。

森信三『人生二度なし』致知出版¥1600-に「知恵とは加減を知ることである」とありました。

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総じて料理というものは、物の加減、すなわち程度を問題とする事柄だともいえるわけであります。
つまり煮加減、塩加減など、すべてが程度ということでありまして、それを誤らぬということは、確かに一つの知恵といってよいわけです。(76p)
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料理をすることによって、加減を知る。すべてが「程度」であることを知る。
それは人生へも応用可能。
いや、人生こそ加減であり、程度なんだと分かる。
それが分かる人物こそ知恵のある者ということになるわけです。

はっちゃんとっちゃんにも料理を教えていきたいですねー。

2009年5月10日日曜日

お受験コトハジメ

こんにちは

今日、池袋西武百貨店で「私立小学校フェア」というのが開催されているっていうんで、晶ちゃんと二人で行ってみました。
とりあえず、我が家から通学可能な学校の資料をもらおうってことで。

会場に着くと、スーツ姿のご両親に連れられた、これまたスーツ姿のお子さま。
全くの普段着、ぼくなんかいつもの首タオルで行ってしまったぼくらは、ちょっと焦りましたよー。
会場入り口には、各校の制服の展示に引き続き、西武百貨店のお受験ルックコーナー。
お母様向けのスーツの展示の前で、晶ちゃんの目がキラリと光りました。
ひぇ~。

あるお受験塾が主催だったので、お子さま向けの教材コーナーもあったり、その教材の体験コーナーもあったり。
お受験クラスもあった進学塾の勤務経験があり、小学校受験はお受験塾に行って対策しても合否にはほとんど関係ないとわかっていても、こういう雰囲気に絡め取られちゃいそうでしたよ。

子どもはかわいければ受かるんです。
礼儀正しくて活発で快活であればね。
子どもはそうなんですが、親の方はちゃんとしてなくちゃならないらしい。
藤原和博他『笑える子ども。』ぴあ¥800-で、小山泰生(幼児教育者、小学校受験コンサルタント)さんはこう言っています。

  親の振る舞いにも「ほどほど」というのがやっぱりありまして、
  それぐらい名門の小学校になりますと面接がウルサイ(重要視される)んですが、
  その面接は変な親を取らないためにやってるんですね。
  変な親っていうのは何かっていうと、しょっちゅうやってきていろいろ学校に
  文句を言うような親は変な親ですから、「ほどほど」がわかっていない親なんですね。(23p)

  慶応幼稚舎なんか2000人も受けるというばかげた話になる。
  10倍を超えるという、15倍とかって15人に1人しか受からないわけですから、
  子どもにいくつかの質問をした程度で優劣を正確に選べるわけがないので、
  なら親を選ぶ方が早いという話です。(24p)

まー、子どもはまだ幼児ですからね。
未知数な部分が多いわけです。
数時間の試験時間だけで、その子の実力がすぐ分かるわけがない。
そもそも幼児はまだ実力なんか開発されていないのです。

なら、親を見た方が即分かっちゃうんです。
この親に育てられている子なら大丈夫だろう、とか、ダメじゃんとか。
そしてその一番の観点は「ほどほど」が分かっているかどうか。

一流私立だって完璧ではありません。
文句を言いたいことだってあるかもしれません。
でもそこで「モンスターペアレンツ」になってしまうような親じゃダメなんです。
自分の主張ばかり強行に言いつのると、反って教育効果を下げてしまうのです。
その子自身ばかりだけじゃなく、クラスメイトたちの教育効果も下げる。
そこが分かる親じゃなくちゃ、その子を入学させるわけにはいかないわけです。

「ほどほど」が分かる親かどうか。加減を知っている人間かどうか。
そういう親の子であれば、子どもだってそうなんですから。
それはお受験塾では対策できないことです。
普段からの「生き方」なんですよねー。
そういうのって、10分くらいの親の面接で分かっちゃうんですよねー。

何校かの資料をいただいてきました。
志望校を決めたら、この学校に子どもを通わせるにふさわしい親となるよう、ぼくも晶ちゃんも精進していこうと思いました。
それがお受験対策になるんだと思っています。

2009年5月9日土曜日

ペンは力なり

こんにちは

ぼくは毎朝のようにごみメールを書いていますが、仕事でも議事録を書いたりすることが好きです。
チャンスがあれば率先して書かせてもらっています。
それは、文章を書くのが好きだからというわけじゃなく、議事録を書くってことは力、パワーでもあると考えているからです。

議事録だって打ち合わせたことすべてを網羅して書くことは不可能です。
またすべてを書けたとしても、どうでもいい不必要な話もそこにはあって、記録として煩雑になってしまう。
だから必ず取捨選択が必要になるわけです。

その取捨選択の権利は、先ず議事録を書く人間に与えられるのです。
これは有利ですよー。
自分にとって都合のいい話はしっかりと書き、都合の悪い話はさらっと書くことだってできる。
もちろんウソにならない範囲でですがね。

なぜ議事録を書くかといえば、後々の利害関係のトラブルをなくすためです。
トラブルはたいてい「言った、言わない」だったりします。
口約束ほどあてにならないものはないですからね。
だから打ち合わせた内容を文書にして、お互い確認しておくわけです。
その時、議事録を書く側にイニシャティブがあるんですよ。
書くのが面倒なんて言っている人は、ビジネスに負けちゃいますぞ。

議事録のうちもっとも利害に関係するものは、「契約書」です。
ぼくも昔、契約書を作るのは業者さんの方、と思っていました。
契約書を作るのは技術と経験が必要だから、普通の人には作れないものです。
そもそも面倒くさい。
で、一般人は業者さんの作る契約書にそのままはんこを押してしまうのが普通でしょう。
でもそれは恐ろしいことでもあるんですよ。

ぼくの今勤めている理研は、国の出先機関みたいなところです。
何かを購入したり、工事を発注するときは、当然ながら業者さんと契約書を取り交わします。
で、理研に就職したばかりの時、ビックリしたんです。
業者さんではなく、理研側が契約書を作成しているんです。
発注者つまり、客の方が契約書を作るなんてめんどうな作業をしているわけです。
そんなの業者さんにやらせればいいのに、と思いました。

なぜわざわざ面倒なことをしているのか。
ぼく自身、仕事の中で契約書(設計図や仕様書)を作成しているうちに、分かりました。

もちろん契約専門の部署があって、技術と経験もあるからだということもあるでしょう。
でも何より、自分にとって「有利にコトを進められる」ってことが、発注者側が契約書を作る一番の理由なんだと分かりました。
相手任せの契約書では、損してしまうことだってありますからね。
そう考えると、やっぱり「書く側」がイニシャティブを握れることが、世の中多いって分かります。

森信三『新たなる人間の学』実践人の家\1800-にこうありました。

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文章が書けて、自分の考えを自由に発表できると言うことは、将来自分の道を開いてゆく上で、ひじょうに有力な一つの武器となる。(49p)
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ぼくは私生活でもそのことを意識しています。
自分の家を建てたとき、契約書自体は工務店さんが作ったものを使いました。
でも、それをざっと読んだだけでハンコを押すなんて、恐くてとてもできませんでした。数千万円の人生最大の買い物をするんですから。
契約書内容を吟味するために、一度全文を書き写して自分にとって不利な記載がないかどうかチェックしたんです。
書き写すと考えます。記憶にも残ります。
施工中も契約書の記載事項を思い出して、その範囲で施工者に必要な要求もしていけたと思います。
おかげでお金をかけた甲斐のある、いい家が建ちました。
ペンは力なり、なんですよねー。

2009年5月8日金曜日

余計にやるから暇になる

こんにちは

ぼくの仕事メールに「当選のお知らせ」なんてタイトルのメールが届きました。
わ、何が当たったんだろう!とワクワクしながら本文を読んだら、

 お仕事中失礼致します。
 本日、共済会選挙の開票を行った結果、皆様が当選されましたので、
 ご連絡申し上げます。
 お忙しいとは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

だって。
今度は職場の共済会の幹事に選ばれちゃいましたー。
当選してもあんまり嬉しくない!!
あはははは。
ま、これも職場の皆さんのため、もちろんぼく自身のためです。
ベストエフォートでやっていきたいと思います。

成功哲学の祖とも言わるナポレオン・ヒルは、成功のためには

 「目標の明確化」
 「余計に仕事をする習慣」
 「絶対にやる、絶対にできるという信念」

という三原則がある、と言っています。
確かに。
ぼくにとって特に重要なのは、二番目の「余計に仕事をする習慣」ですな。
だって、余計に仕事をすると反って余裕が生まれるんですよ。

勝間和代『年収10倍アップ時間投資法』ディスカバー\1500-にこんなことが書いてありました。

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さらに注意したいのは、上司は「どうせ全部はやらないのだから」という発想で、部下にはちょっと多めに仕事を出すということです。
つまり上司は、百二十、百三十頼んでおいて、百十くらいできればいいと考えるものなのです。(12p)
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うーん、思い当たるところありますねー。
デキナイ人に限って、とても忙しそう。
それはなぜか。

デキナイ部下に仕事を頼むとき、「歩留まり」を多めに見込むってことです。
実質的に必要な仕事量を終わらせてもらうために、多めに仕事を与える。
実質的な期日に間に合わせるために、締め切りを早めに設定する。

で、このデキナイ部下は上司からの指示をひーこら言ってこなす。
残業もたくさんしなければ追いつきません。
その結果、指示された期日に、指示された仕事量は終わらない。
当然上司から叱られます。
「まったくお前はダメだな!」なんて。

実は必要な仕事はそれでも完成していたりします。
上司は「やっぱりアイツには多めにやらせておいて正解だったな」なーんて、ほくそ笑んでいたり。
むちゃくちゃ働かされた結果、叱られて、無能呼ばわりされて、とっても損ですよね。

逆に、いつもちょっぴり余計に仕事をする部下ならどうでしょうか。
上司はその部下ならちゃんと必要量の仕事を期日までに仕上げてくれることが分かっています。
安心しているわけですね。
それなら変に歩留まりを見込む必要はない。
必要量の仕事を必要な期日で指示するわけです。

よって部下は余裕を持ってその仕事に取りかかることができる。
上司から無理させられることが少なくなります。
残業もそれほどしなくて済むでしょうし、叱られることはない。
余裕がでるので、またちょびっとオマケして余計に仕事をすることだってできる。
ますます信用されることになるわけです。

勝間さんも言っています。

 このとき、百三十頼まれないようにするためにも、
 断れるだけの実績を上げることが必要になってきます。(同12p)

いつもちょっぴり余計に仕事をする習慣があれば、上司だってそれに配慮してくれるようになります。
無理な仕事は頼まなくなりますし、きちんとした理由があれば断っても納得してくれます。
余計に仕事をする習慣があるから、時間的にも精神的にも余裕が生まれるんだと思っています。

2009年5月5日火曜日

楽しく学び続けること

こんにちは

ぼくは若い頃、中学受験のための進学塾で数年働いていたことがあります。
そのとき感じたのが、子どもに勉強させることばかりに熱心な親が多いな、ということ。
でも親自身はそれほど勉強していないし、勉強が好きでもない。
なのに高いお金を払って子どもの尻を叩いて勉強させている。
それだと子どもは勉強する気にならないんじゃないかって思ったのです。
やらされる勉強はとても効率悪いんです。

松村暢史さんの本によると、東大現役合格者の上位10%の学生の家庭は、

  親が読書をよくし、
  文章を自由に書き、
  しかも自己判断することの大切さを教え、
  そのうえ芸術などの情操教育の大切さを熟知している人たちであることなのです。
  (『中学入試国語選択問題ウラのウラ』25p)

なんだそうです。

東大など一流学校の上位10%の学生はやっぱりすごいですよ。
無理な受験勉強なんかしてこなかった。
余裕がある。
無理してなくて余裕があるから、大学に入ってもきちんと勉強します。
それも楽しくね。
だって、勉強の重要性も快楽性も分かっているんだから。
幼い頃から家庭の中で、それを実感しながら育ってきたんですから。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にこうありました。

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子どもは「気分がいいこと」には敏感に反応する。
それが子どもたちのそれまでの「気分がいいこと」のリストに登録されていない種類の快感であっても、子どもたちは「気分がいいこと」にはすぐに反応する。
教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。
教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。
教育の本義は「子どもの欲望」を起動させることである。(150p)
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教育というと、「子どもに勉強させること」と誤解している人が多すぎです。
それでは子どもは本当に勉強好きにはならないと思うのです。
親や教師も楽しく学んでいる。
その雰囲気が子どもに伝わり、子どもも自ら勉強するようになるんだと思います。

教育とはインタラクトなんです。
双方向にいい影響を与え合うものなんです。
その「タネ」さえ植え付けられれば、子どもは自然と育っていく。
そう思って、ぼくも本をよく読み、文章も下手ながら書き続け、自分で判断することを心がけているつもりです。
あと足りないのは、芸術かなー。。。

2009年5月3日日曜日

レシピを創れ

こんにちは

ぼくは普段ほとんどテレビを見ませんが、出張に行くとホテルでボーッと見ることがあります。
ボーッと見てたら、グッチ裕三が出ていました。
グッチさんはコメディアンだと思っていたら、最近は料理人としても有名なんですね。
その番組でグッチさんが言うことには、

 料理作りが200を越えたとき、
  料理店で美味い料理を食べたら
   すぐそのレシピが想像できるようになった。
 どんな素材を使っているか、
  調味料は何をどれだけ使っているか。

なんだって。
さすがですねー。
やっぱり意図的に経験を積むと、料理の「原理」が見えてくるんですね。

ぼくの仕事のメインは、新しい研究施設や実験施設を造ることです。
その施設ごとにだいたい1年から3年のプロジェクトとなります。
プロジェクトごとに違う人たちとタッグを組んで仕事を進めます。
違った会社、違った経験を持つ人たちです。
その人たちとぼくは、1年から3年くらいつきあうことになるわけです。
一緒に仕事をして、プロの仕事ができる人とできない人がいることが分かります。

その人がプロかどうか見わける方法があります。
それは次のような質問をしてみることです。

 ・この仕事、いつまでに完成する?
 ・この仕事、いくらでできる?

この質問に即答できる人はプロの腕前を持っている人です。
検討します、とか、社に戻って上司と相談してきます、なんて言う人は失格。
たとえ名刺に「課長」とか「主任」とかの肩書きが書いてあっても、とてもその職位にふさわしいプロの仕事ができる人とは思えません。
プロの仕事ができる人は、上の質問に即答でき、さらにその仕事が完成してみると、ほぼ言ったとおりの期日に、言ったとおりの金額で、必要な品質のものができあがるのです。
つまり、プロの腕前とは、ひとことで言えば「概算=見積もりができること」なんです。

概算ができるためには、

1.どのような方法でやればよいかを知っている
2.それにいくらかかるか知っている
3.それがいつまでにできるか知っている

が必要です。
つまり、「仕事のレシピ」が作れるってことですね。

これらは互いに関連しています。
方法が決まらないと、コストと期日も決まりません。
また、コストが決まっているのなら、それによって適切な方法を選択する必要があり、コストと方法が決まれば期日も決まります。
期日が指定されているなら、そのためにかけられるコストを見込んで方法を選択しなければなりません。
おおよそプロの仕事とは、この三つについて知識と経験に裏打ちされているものだと思います。
だから上のような質問にも即答できるわけなのです。

プロの仕事ができる人と一緒に仕事をすると、ホントに気分いい。
何が気分いいかというと、手もどりが少ないのです。
手戻りとは、あるやり方で仕事を進めているときに途中でにっちもさっちも立ちゆかなくなって、方針転換して最初からやり直すこと。
手戻りがあると、コストがかかりすぎてしまって、このまま進めると予算オーバーになってしまう。
時間がかかりすぎてしまって、このままでは期日に終わらない、他の工程に影響が出過ぎてしまう。
やり直しが多い仕事ほど消耗するものはありません。
お金や時間ももったいないですが、今までの努力を無にしてしまうほど精神的ダメージが大きいものはありません。

では、プロの仕事を身につけるにはどうしたらいいでしょうか。
ぼくの尊敬する小学校教師、野口芳宏さんの言うとおり「意図的に経験を積む」ことだと思います。
ぼくはいつも、この仕事はどんな方法でやっつければいいか、いつまでに終わらせることができるか、いくらかかりそうか、を意識してきました。
つまり、仕事のレシピを自分でつくってみるんです。
そして、その予想を誰かに公言してしまう、約束してしまうようにしてきました。

時には予想が外れてしまうこともありました。
失敗のリカバーに手間取ることもあった。
恥をかくこともなかったとは言えません。
でも、だんだん「言った通り」にできるようになってきたと思います。

こういうことを15年ほど繰り返してきた結果、ぼくも見積もりができるようになりました。
できあがった建物や設備を見ても、だいたいどのくらいの時間がかかったのか、どのくらいの費用がかかったのか、つくった人の腕はどのくらいか、見えるようになってきたんです。
愉快、愉快。

2009年5月2日土曜日

善意の強制

こんにちは

ぼくの尊敬する小学校教師野口芳宏さんは言います。

 教育とは強制である

教育とは、放っておいたら絶対身に着かないことを強制的にでも子どもに身に着けさせることだ、というのです。
ただし、どうでもいいくだらないことは押しつけてはいけない。
本当に子どもの将来に益するものだけを教える。
それを野口さんは「善意の強制」と言います。
だから、子どもの好みに任せた教育、子どもが最初から喜ぶような教育は、本物の教育ではないと言うのです。

確かに勉強というものを最初から好きな子どもなんかめったにいません。
子どもの好き嫌いに任せていたら、子どもは勉強なんか絶対にやらないですよ。
最初から子どもが好きな勉強は、そもそも何もハードルのない安易なものなのです。
そもそも最初から子どもが好きなものだったら、わざわざ学校で教える必要なんかないんです。
好きなら勝手にやるからです。

学校は、始めは嫌々だったことでも、そのハードルを乗り越えさせ、「結果として」子どもが喜ぶことを教える場所だと思います。
それによって勉強が好きになる、多少苦しくても努力して自分が向上するのが嬉しくなる、学校はそういう子どもを育てる場所なんだと思うのです。

ですから、子どもが嫌がることはするべきじゃない、という言説は間違っていると思います。
嫌がることでも、それが子どもの将来に益することであり、乗り越えることが子どもの成長に役立つことなら、嫌がろうが何だろうが教える。
ただし、途中で放棄してはいけない。乗り越えるまで引っ張っていく、サポートを続ける。
努力して苦しさを乗り越えて、その結果自分がかしこくなったことを実感できるまで、やりとげる。
これが本物の教育だと思うのです。

さて、教育にはお金もかかります。
小学校から高校まで、一人年間100万円程度はかかってしまうのです。
公立学校ならほぼ全額が税金からまかなわれます。
私立でも4割くらいは税金から助成されています。
だから私立の授業料は年間60万円程度なんです。
私立に通う生徒だって「公民」として育てるために、社会がその教育費を負担するのは当然である、という考えなのです。

このように、教育費は税金でまかなわれています。
ところで、親の支払っている税額はどのくらいでしょうか。
普通のサラリーマンなら所得税、住民税合わせても年収の20%くらいだと思います。
小学生を持つ親世代、30代のサラリーマンの平均的な年収は500万円程度でしょうか。
すると税額は500万円×20%=100万円です。
学齢期の子どもが二人いるとすると、税金でまかなわれる教育費は200万円ですから、親が支払う税額を超えています。
もちろん消費税も支払っているので、もう少しは税負担していると思います。
でも支払った税金がすべて教育予算に回っているわけではありませんから、親が支払う税額よりもたくさん自分の子どもの教育のために税金が使われていることは確かです。
つまり、会社の法人税、学齢期の子どものいない人、独身者や子どものいない人や子育ての終わった世代の人びとの税金が、自分の子どもの教育のために使われているのです。

なぜ、納税者は自分の子どものためではなく、他人の子どもの教育のために税金を使うことを許容しているのでしょうか。
それは「外部経済効果」に期待しているからだ、と言えます。

他人の子どもでもよりよく教育を受けさせれば、それによって将来の社会が発展し、安定します。
その子が将来立派な人になり、スゴイ発明をしてくれたり、ビジネスで外貨を稼いでくれるかもしれません。
もちろん大多数の子どもはそれほど大活躍するようになるわけじゃいでしょうが、自分の食い扶持くらいはちゃんと自分で稼いで、社会に多少なりとも貢献してほしいわけです。
少なくとも、社会の側から保護が必要な人にはならないでほしい。
そうして将来の社会が発展すれば、その恩恵を自分の子どもや老後の自分が受けることができます。
これを、「外部経済効果」と言います。
だから、自分の支払った税金が他人の子どもの教育費に使われても、納得できるわけです。
回り回って自分のためにもなるからです。

小塩隆士『教育を経済学で考える』日本評論社\1800-から引用します。

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「放課後に『お残り』させてむりやり勉強させるなんて、人権無視だ」と言い出す親が最近ではいるそうだが、学校はそういう親から子どもを強制的に引き放さなければならない。
公教育は国民の税金で運営されている。
そして、納税者は、教育の外部経済効果に期待している。学校は納税者の期待を満足させなければならない。(219p)
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外部経済効果を考えても、教育は子どもの好き嫌いに合わせてはいけないことが分かります。
特に初等中等教育は、納税者の負託に応える義務があるのです。
教師は親と子どもだけ見ていてはいけません。
社会から負託を受けて仕事をしていることを忘れてはいけないのです。
また、親は自分の子どもなんだからどう育てようと勝手だろう、なんて考えてはいけないのです。
自らが支払っている税金よりもたくさんのお金が、我が子の教育のために税金から支払われているからです。
私立に通わせているから関係ないということもありません。
だって金銭的に4割は社会からの負託を受けているわけですから。
善意の強制は、社会の側からも教育に求められていることなんだと思います。
関口

2009年5月1日金曜日

こだわらない・よく笑う・いじけない

こんにちは

知り合いの小学校の先生から、校内で行われた授業研修会の記録を送ってもらいました。
研修会の講師は、ぼくの尊敬する野口芳宏さん。
野口さんは元小学校の先生で、退官後も全国の学校に研修会の講師として飛び回っています。
記録の中にこんなことが書いてありました。

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(5)間違いを正されたことを喜べる子どもを育てること!
自分のミスに気づき,そこを直してもらったことで自分が向上できたことを喜べるような子どもを育てていくのが教育。
校内の研究会も同じ。お互いを高めていくために,直すことを歯に衣着せずいう。
そして,そのことで自分の技量が高まると感謝できる教師であれ。
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いいですねー。間違いを正されて喜べる子ども。
大人だって、社会人だって同じだと思います。
ぼくの職場にもいるんですよ、間違いを指摘されるとクサルおじさん。
そりゃあ人間ですから、間違いを指摘されたら誰だっていい気分はしないのは当然です。

でも、それでふてくされちゃって間違いを認めようとしない。
認めないから変わらない。
変わらないからまた同じような間違いを繰り返すんです。

それはどうも、少しでも間違いを指摘されると全人格を否定された、と感じちゃうからですね。
つまり自分は完璧であるべきだ、という誤ったプライドを持っている。
それは裏返せば自信のなさなんでしょう。
別に誰も全人格なんて否定していないんです。
「ここがおかしいよ」と、その部分だけを言っているだけなのに。
過剰反応してしまうんです。

ぼくが進学塾や予備校で小中学生や高校生に勉強を教えていたときも、過剰反応する生徒がいました。
勉強のできない子はすぐ「どうせオレはバカだよ」みたいなことを言う。
君をバカと言ってるんじゃなくて、ここをこう考えるようにすれば正解にたどりつけるんだよ、と言っているだけだよと、言ってもだめ。
そこであきらめちゃう。
自分はバカなんだって自己規定しちゃって努力を放棄しちゃう。

人はうすうすでも自分の欠点を知っているものです。
自分でも欠点を否定しているものなんです。
それを隠そう、隠そうとして生きているものなんです。
でもそれを他人から言われたくない。
自ら否定している欠点を他人から指摘されるととても傷つくわけです。
傷つきたくないから、妙なプライドを持つことによって自分を守っているわけ。
心がひ弱なんですね。
そして暗い顔をして生きる。

それに比べて自信のある子は、たとえバカと言われても平気。
むしろバカと言われて喜んじゃうようなお調子者もいました。
バカと言われても上機嫌なんですよ。へらへら笑っていたりしてね。
こういう子は実はものすごく勉強もできるし、行動もしっかりしている。
なぜバカと呼ばれても平気かというと、自分がバカじゃないのが分かっているし、たとえバカだとしてもバカなのはこの部分だけなんだ、と分かっているから。
この部分を直せば、自分はまたさらにかしこくなる、というのが分かっている。
努力の方向を間違えず、また努力の効率がいいんです。
強い心の持ち主なんだと思いました。

こういう強い心は一朝一夕には育たないでしょう。
子どもの頃からの小さな成功体験の積み重ねが必要なんだと思います。
小さな成功体験が自信を生む。
成功体験があるから自分の今の実力も正確に把握できるので、へんてこなプライドも持たなくてすむ。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にこうありました。

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コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。(181p)
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というわけで研修会での野口さんの言葉を読んで、子どもの頃の教育は大切だな、って再認識しました。
我が子たちにも小さな成功体験を積み重ねて自信のある強い心の持ち主に育ってもらいたいと思いました。
親であるぼく自身もそれを背中で教えられるよう、くだらないことにはこだわらず、よく笑い笑わせて、毎日をゴキゲンに生きていきたいって思っています。