2009年4月22日水曜日

礼儀は吉

こんにちは

袋筋太郎『男子のための人生のルール』理論社\1200-にこうありました。

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最近、オレが息子に教えているのは、外で飯を食うときには「いただきます」、食べ終わったら「ごちそうさまでした」って言うとして、それとは別に、お店の人に「おいしかった」「また来ます」みたいに、必ずひと言を付け加えるようにしろ、ということ。
これはオレ自身、オレの親父から繰り返し教わっていたことだった。(23p)
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ぼくも我が子たちを連れてお菓子屋さんなどに行ったとき、レジでお金を支払ったあと必ず「ありがとうございます」と言わせるようにしています。
最近の若者は、何か買ったあとも「ありがとう」と言う人いませんよね。
きっと、お金を支払う客の方が偉いんだ、という意識なんでしょう。
だから客は「買ってやった」んだからお店の人がありがとうというのは当然だが、何で客がお礼を言わなきゃならないんだ、と思っているんでしょう。

それは経済の本質を知らなすぎです。
お店の人にとって、商品の価値<お金、だから買ってくれると嬉しい。
お客にとっては、商品の価値>お金、だから買えて嬉しいわけなんです。
どちらもありがとうと言って当然なんです。
Win-Winなんですから。

ありがとうと言わない客はだから、商品の価値<お金、と思っているわけです。
つまり、高い金を払って安物を買った、ということになります。
そういう損なことをしている。
だから不機嫌な顔で、お金を投げつけるように支払う。
そんなんなら買わなきゃいいのにね。
自分にとって価値のない品物にお金を使っているバカ者だということを、自らアピールしているわけです。

外食したとき「おいしかった」「また来ます」と言うことも同じですね。
料理の価値>お金、であったことを伝えているわけです。
お店の人にも自分にもね。
Win-Winです。
こういうお客さんだったら、お店の人もいっぱいサービスしたくなっちゃうでしょ!
あはははは。
こんなふうに、礼儀には「実利」が込められているんだとプラグマティストのぼくは思っています。

ぼくの同僚や一緒に仕事をしている人たちを観察して分かることがあります。
仕事が上手くいかない人は、かならずしも能力不足なわけではありません。
それよりも、礼儀を欠いている、のが上手くいかない原因みたいです。
挨拶をしない、約束を守らない、突然予定を変える、ありがとうを言わない。
ことごとく失礼なんですよね。
無視されるだけならまだしも、意地悪なことを言われたりやらされたり。
だって、そういう奴ってかわいくないもんねー。
とても損な人生だと思います。

たぶんこういう人は、ありがとうの意味を知らず、誰からも教えてもらえず、躾けられてこなかったんでしょう。
人生はたくさんありがとうを言い、どれだけありがとうを言われるかで、その価値が決まると思っています。
はっちゃん、とっちゃんも、礼儀正しく、そしてその本質が伝わるように育てていきたいと思います。
ありがとうをたくさん言い、ありがとうをいっぱいもらえる人生を創っていってもらいたいと思います。

2009年4月21日火曜日

学歴は吉

こんにちは

ぼくは「学歴は40才まで」と思っています。
社会人になって40才までいかに自分の仕事に打ち込んできたかで、その人の価値は決まると思います。
そこまで打ち込んできた人は、もはや学歴なんか関係なくなる。
どんな人とも対等につきあえる。
だからぼくは学歴無用論者であります。

とは言え、それは社会人になってからの話。
子どもにはしっかりとした学歴、学習歴が必要だと思っているのです。
社会人になってから仕事に打ち込むとしても、学生時代もその基礎となる勉強やコミュニケーション能力、体力をしっかりと身につける必要がある。
勉強、コミュニケーション能力、体力を適切に身につける装置として、学校というシステムは上手くできたものだと思うのです。
これを活用しないと損です。

ぼくの職場には高学歴、日本だけじゃなくハーバードやケンブリッジなど超一流大学卒の博士がごろごろいます。
もちろん、博士号を取得してから何の努力もしていないで、学位を無駄にしちゃっているような人もいないわけじゃない。
でも、そのほとんどの人はとんでもなく活躍している。それも楽しげに。
そういう人たちを観察していると、ああ絶対に追いつけないなー、って思っちゃうんです。
しっかりした基礎を身につけて、その上で社会人になっても仕事に打ち込んでいる人にはちょっとやそっとじゃ勝てないんです。

苫米地英人『自伝ドクター苫米地』主婦と生活社¥1500-にこうありました。

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私自身を振り返ってみると、自分の会社を興してから、いろいろな人に騙されたことはいい勉強だと思っている。
思えばいわゆるお坊ちゃんで育ってきたわけで、政治家の家に生まれ、親は銀行のお偉いさんだったわけだからお金に不自由することもなかった。
学生時代でもある程度トップスクールに行けば、まともな人しかいない。
就職しても三菱地所にもいい人しかいなかった。
だから人を騙す人間がいるんだと、その存在を知ったのはジャストシステムに入ってから以降だ。(217p)
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基礎基本を学ぶためには、学びやすい環境の方がいいに決まっています。
苫米地さんの言うように「学生時代でもある程度トップスクールに行けば、まともな人しかいない」のは事実です。
学校とは何をする場なのか、そこに集う子どもも親もちゃんと理解し、最適行動ができる。
学校の中に勉強する雰囲気がなければ、いくらしっかりとした子どもだって勉強する気を削がれます。
学校の中に嘘や欺瞞が満ちあふれている中で、人を信じる習慣は生まれません。
生徒がたばこを吸うような学校で、健康を維持するのは無理な話です。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にはこうありました。

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どうしてそういう(自分を支えてくれたり励ましてくれたりする)ネットワークを形成できなかったかと言えば、それは彼らがコミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いているせいである。
人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。
コミュニケーションへの深い信頼を持つことのできないものは、それが男であれ、女であれ、組織的に社会的リソースの
分配機会を逸する。(203p)
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納得です。
人のもっとも大切な能力は、信じることができる、ということだと思います。
相手を信じ、社会を信じられるから、よいと思うことを行動に移すことができる。
そしてそれが相手を喜ばせ、社会をよくしていくから、皆から信頼される。
皆から信頼されれば、自分の価値を感じられ、より努力をしていこうと思える。

人を信じられない人ほど不幸なものはないと思います。
いつも他人を疑っていては、誰ともまともにつきあえません。
友人なんかできるわけがない。
できたとしても、最後は裏切ったり裏切られたりするような、悪い友だち=同類だけ。
それでは人生を長期的に安定して生きることはできません。

なので、学生時代にその基礎を身につけることが重要。
そのとき、いい学校で落ち着いた雰囲気の中でなかで育む必要がある。
いちいちクラスメイトを信用できるか信用できないのか疑ってかかる必要がない。
気の置けない友だちであることが、既に前提としてあれば、即コミュニケーションがとれます。
励ましたり励まされたりする経験を重ね、人とは基本的に信頼できるものなのだ、という観念を育てる。
自分も信頼されるに足る人間になろうと努力する。
勉強もしなくちゃならないし、健康でなければならない。
そしてその習慣を社会人になっても続けていくことができる。

なので我が家は「学歴主義」なのです。
我が子、はっちゃん、とっちゃんにはいい学校に入ってもらいたいのです。

2009年4月20日月曜日

学歴は40才まで

こんにちは

先日、以前ぼくの部下だったやつとちょこっと一緒に仕事をする機会がありました。
彼がぼやいていました。電気主任技術者免許がなかなか取得できないんだと。
彼が今いる部署は、研究施設や実験施設の設備機器を実際に運転・管理する部署です。

ぼくがいる部署、つまり彼がかつていた部署よりももっと電気主任技術者免許の必要な部署です。
ところがなかなか勉強がはかどらず、取得できないでいる。
彼は法学部卒なのに技術職をやっているという、ちょっと変わった経歴の持ち主。
「やっぱり学歴がないからなあ」なんてぼやいています。

電気主任技術者国家試験は、技術系の資格の中でも最も難しい部類の試験です。
一番下位の第三種電気主任技術者試験(通称;電験三種)でも、かなり難しい。
大学の電気工学科を卒業した人でも、根を詰めて勉強しないと合格しません。

教育学部卒のぼくは15年ほど前に合格しました。
教育の仕事から技術の仕事へと方向転換しようとしていた時期です。
合格した時の、とても嬉しく誇らしい気持ちを今でも思い出します。
あー、これで技術屋としても食っていける、まあまあ活躍できるはずだ、と。
その時、勉強というのは食っていくため、よりよい人生を送るためにも必要なものだと実感したのです。
電気主任技術者免許のおかげで、今の職場に転職することができました。

ところで電気主任技術者免許を得るには、試験で合格する方法の他にもうひとつルートがあります。
電気科など電気工学に関する学校を卒業した人は、一定の期間実務経験を積むことによって、申請により免許がもらえるのです。
彼が下請けで使っている業者さんの若い電気技術者君が、申請で電験免許を取得しました。電気科卒だったんですね。
それを見て、彼はよけいにクサっていたようなのです。
学歴さえあれば、オレだって十分実務で頑張ってきたんだから、申請でもらえるはずなのに!と。
でもぼくも彼も電気工学に関する学歴がありません。
だから、試験で合格するしか免許を得る方法がないんです。

ぼくは彼に言いました。

 学歴がなくてよかったじゃないか。
 学歴もないのに合格すれば、世間の人はスゴイと思ってくれるんだ。
 たとえば一番難しい試験と言われている司法試験。
 東大や慶応の法学部卒の人が合格しても、ふーん、でお終い。
 たとえものすごい努力をしたとしても、ふーん、なんだよ。
 大平光代さんって知ってる?
 中卒で元極妻で司法試験に合格して、今は弁護士をやっている人。
 大平さんは中卒で元極妻だから、こんなに今世の中で認められているんだ。
 もし大平さんが法学部卒だったら、こんなにも注目されないはずだ。
 逆に言えば、学歴がないんだから合格しなくてもあんまり恥ずかしくない。
 学歴があるのに合格しない方がすごくみっともない。
 あいつ、学歴は十分なのに合格しないということは、ロクでもないヤツなんだな。
 そう世間は見るわけ。
 だから、学歴がないからこそ、がんばり甲斐があるってもんなんだよ。

森信三『人生二度なし』致知出版¥1600-から引用します。

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「学歴は四十才まで」という言葉は、なるほど深い現実の真理をふくんではいますが、しかしそれには、一つの大事な但し書きがついているということです。
ではその但し書きは何かというに、それは「但し人間が真剣になって一つのことと取り組んだら」という条件がその前提になっているということです。
つまり誰でもただ四十才くらいになれば、学歴のかせから免れることができるんだ---というような安易なことでは断じてないということです。(167p)
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社会人になって、確かに最初は学歴は有効です。
入社の時に有利だったり、社内に同窓生がいたり、学閥があったり。
もちろん学生時代に勉強した量と質でもアドバンテージがある。
でもその神通力が通用するのはせいぜい5年くらいだと思います。

それ以降は、いかに自分の仕事に打ち込むか、でしょう。
目の前の仕事に真剣に向き合い、自分に足りない知識を学び続け、そしてまた意図的な経験を積む。
それを15年続けると、プロとして恥ずかしくない専門家になれるんです。
そしてそのとき、40才くらいになっているんですね。

40才を過ぎプロになっているなら、もう学歴なんか関係ありません。
どんな高学歴の人とも対等につきあえるんだと思います。
だから、40才を過ぎても自分の学歴に対して卑下したり、逆に自慢したりするのはみっともない。
そういう人は、真剣になってひとつの仕事に打ち込んでこなかったんだと思います。
卑下する人は自分の実力のなさのエクスキューズを学歴に求め、自慢する人は学歴以外に自分に誇れるものがないということなんです。

40才というのは、大卒くらいの年齢から努力を初めて、プロになれる年齢という意味です。
だから別に40才の時点でプロでなければダメ、ということではない。
自分の進むべき道を見つけ、努力を始めてから15年なんです。
何才になっても、そういう道を着実確実に歩んでいるならば、たとえその時点ではまだプロにはなっていなくても、自信を持つことができる。

さて、ぼくの元部下にもそれが伝わったでしょうか。

2009年4月18日土曜日

錯覚は吉

こんにちは

前便で、ぼくはノーベル賞の半分も価値がある、なーんて書きました。
これを読んで、「そんなわけないでしょ。関口ってアホじゃないの?勘違いしてるよねー!」と思ったかもしれません。
そうなんです、ぼくはアホなんです、勘違いしまくってるんですよー。

野口悠紀雄『超発想法』講談社文庫\560-から引用します。

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創造的活動を行うのに、高い知的能力が必要とされるのだろうか?
これに関して、つぎのような話がある。
ある出版社の社長が、創造性がない社員がいることを心配して、心理学者に調査を依頼した。
一年間社員を綿密に調査した結果、創造性のある人々とない人々との間には、たった一つの差異しかないことが発見された。
それは、

  創造的な人々は自分が創造的だと思っており、
  創造的でない人々は自分が創造的でないと思っている

ということだった。
このエピソードは、きわめて示唆的である。
「創造性がない」とは、単に、「自分は創造性がないと思いこんでいること」なのだ。
あるいは、「自分は創造的だと思えば、創造的な活動ができるのだ」とも言える。
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ぼくは教員時代から、子どもが勉強できるとかできないとかいうことは「錯覚」であると考えています。
頭の善し悪しで勉強ができたりできなかったるするのではないと思います。
特に小学生や中学生はそうであると、経験上思います。
自分が勉強できると「錯覚」している子が勉強できるようになり、自分は勉強できないんだと「錯覚」している子は勉強ができるようにならない。
だから、子どもに学力を付けるコツは<自分は勉強ができるんだ、頭がいいんだ>と錯覚させてやることなんだ、と考えています。
積極的に子どもたちに「オレってグレート!」と思わせるようにしていました。

たとえば百マス計算。
速く計算できるようになった子は「自分は算数が得意なんだ」と錯覚するようになります。
単純な四則計算に習熟しただけなんですが。
でも劇的に変わります。
算数が得意だと錯覚しているから、難しい思考力を必要とする鶴亀算などの問題にもチャレンジするんですね。
錯覚していない子は、最初から自分には解けないものだと思いこんでチャレンジしないんです。
で、錯覚している子は本当に解いてしまったりします。
錯覚していると、あきらめないんです。
自分は算数が得意なんだから絶対に解けるはずだ、という思いこみがあるのです。

こういうプライドは大事ですよね。
東大の先生である上野千鶴子さんは著書の中でこんなことを言っています。

 東大生は自分がアタマがいいと錯覚しているから、できるようになる

笑っちゃうけど事実ですね。
ぼくの職場にも東大や京大など一流大卒の博士がごろごろいます。
その人たちを見ていると、知的にタフなんです。
解決するまであきらめないんです。
ずっと考え続けたり、調べ続けたり、実験し続ける。
そして「結果」を出しちゃうんですよ。

だから子どもを「バカだ」と言って育てちゃダメなんですよ。
バカだバカだと言って育てると、ホントにバカに育っちゃうんです。
ほめるネタを探して、あるいはうまくできるようにさせて、ほめてやる。
そうやって育てると、自分はデキル人間だ、と錯覚するようになる。
錯覚しちゃうと、徐々にデキル人間に育っていくんです。

大人だって同じだと思います。
仕事ができると自分で錯覚している人の方が、ホントに仕事ができるんですよ。
できないと思っていると、何にせよ腰が引けてしまいます。
腰が引けている限り、結果は出せません。
できないと思っているから、できるための努力をするより、できない理由を先に考えてしまいます。
それじゃーできるわけがないよね。
そしてそういう人に協力してくれる人もいません。
できると思っていれば、できるための方策を考えたり、調べたり、行動を起こします。
そういう「熱」は他の人へも感染するんですよ。
協力したり助けてくれる人が必ず現れます。
その結果、けっこうできちゃうんですよ、これが。

だから錯覚でも「オレにはできる!」と思った方が得なんです。
ただし、常に結果や現実をフィードバックできなくちゃいけません。
そうじゃないと、錯覚だけの困ったオヤジになってしまいます。
現実に根を下ろして、かつ錯覚して難しい仕事にもチャレンジする。
それが楽しい人生だって思っています。

先々週、X線自由電子レーザー施設制御の試験をしてきました。
XFEL建屋のコンセプトは「建屋もマシンの重要な一部」です。
なので、電源設備や空調冷却設備も、マシン制御系と一体に制御できるように作りました。
研究者や施工スタッフのみなさんの努力で、無事完了させることができましたよー。
まー、最初からうまく行くと思ってたけどねー。
で、マシン制御系を取り仕切っている研究者が、この成果を国際学会で発表するって。
その論文の共著者にぼくも入れてくれるって。
おーーー、スバラシイ!
ぼくもとうとう国際学会デビューです!
って、ぼくもかなり錯覚してるね!
あはははは。

2009年4月15日水曜日

お金持ちになろう!

こんにちは

昨日のメールで、人生お金だけじゃない、なんて書いておいて何なんですが、こんな話題を。

ぼくの妹が学位を取ってイギリス留学を終えて帰ってきました。
ところがこの不況、働き口を見つけるのが大変です。
調べてみたら、我が社でも契約事務職員や研究室スタッフなどを募集していたので、紹介しました。
それに応募しているようですので、採用されるといいですね。

そのついでに、我が社はどのくらい給料をくれるのか調べてみたりしました。
大きいところで、トップである理事長の年俸から。
理事長は皆様ご存じノーベル化学賞を受賞したすごい人。
その方の年俸はというと・・・あれれ、ぼくの2倍くらいだー。
と言うことは、ぼくってノーベル賞取る人の半分もの価値があるってこと?
ぼくってすごーい!
とってもハッピーな気持ちになれましたよ。

ぼくはいわゆる人材バンクにも登録しています。万が一に備えて。
時々、ぼくの技能と経歴にあった仕事の紹介が届きます。
紹介される仕事の年俸は、今ぼくがいただいている年俸の8割くらい。
2年くらい前までは7割くらいでしたから、この数年でちょびっとアップしてますね。
ということは、ぼくの社会的価値もちょびっと上がったということでしょうか。
それとも、社内の評価が下がったのか??あはははは。

ともかく、転職した場合の年俸より今は2割も多くいただいている、ということになります。
それは、我が社がぼくに給料を過払いしているのかもしれません。
確かに、ちょっともらいすぎかもしれませんよ。
だって、ノーベル賞の半分だもん。うははははは。

自分自身でも、こんなに楽しい仕事をのびのびやらせてもらって、かつお給料ももらえちゃって、感謝感激です。
実際のぼくの価値よりも過払いになっているとも言えますが、ぼくはそれを「我が社はぼくを2割増しで買ってくれている」と勝手に解釈しています。
我が社、ぼくを買ってくれてありがとー!もっと楽しくがんばるぞー!
そう思うと、ますますハッピーです。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ\1600-にこうありました。

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「お金持ち」とは、ある人の定義によるならば「金のことで心を煩わされない人間」のことである。
私は「自分の不幸はおもに金がないせいであるというふうに考えない人間」という定義をこれに付け加えたいと思う。(114p)
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なるほどー。
その意味では、ホリエモンなんか何百億円も稼いでいたとしても、まるでお金持ちだったわけじゃなく、貧乏人だったというわけですね。
小室哲哉もヒット曲を何曲も作りながら、金持ちにはなれず、あんな詐欺事件まで起こしてしまった。
持っている金額の絶対量じゃないんですよ、金持ち、貧乏って。

もちろん、あまりに貧乏で今日の晩飯を食う金もない、家賃も払えなくて大家から追い出されそう、借金取りから毎日毎晩電話がかかってくる、というのも困りますよ。
それだといつもお金のことを気にして生きなくてはいけない。
目先のことばかりに捕らわれてしまいます。
これはホンモノの貧乏。

だから、ある程度はお金は必要だということも事実。
ある程度のお金を稼げるだけのスキルは必要です。
生活を維持する程度のお金さえ稼げたら、あとはお金のことを気にせずにいかにハッピーに生きられるか。
それがホンモノのお金持ちになる方法なんだと思います。

2009年4月14日火曜日

お金だけじゃない

こんにちは

昨日のメールで、「仕事のやりがいは給料だけじゃない」ってことを書きました。
やりがいのある仕事をしている人は、たいてい給料のことには無頓着。文句も言わない。
やりがいのない仕事をしている人に限って、自分の給料に不満を持ち、いつも誰かさんのもらっている給料と比べては、へこんだり怒ったりしている。
やりがいのあるなしは、実は自分自身の気持ちの持ちようでもあること。
どんな仕事にもやりがいを見つけ、楽しみを見いだし、自分のスキルや経験を上げようとする。
それが仕事を面白くし、周りの評価も得ることができ、だんだんともっと面白い仕事にも恵まれるようになる。
やりがいのないつまらない仕事だと思いこんでだらだらとやっていると、スキルや経験値はちっともあがらず、従って誰からも評価されず、面白くやりがいのある仕事は絶対に巡ってこないんです。

日本も、年功序列がくずれて実力主義人事制度になってきました。
賃金も実力主義になりつつあるんですが、どうも形式的にボーナス時にちょびっと差を付ける程度でお茶をにごしている企業が多いようです。
でも、賃金による格差は、反って労働者のモラルを下げ、会社の生産性を下げると、ぼくは思っています。
収入をちょびっと下げられた方は、もっと頑張って収入を上げようと思うより、「どうせオレの働きは悪いんだよ」と開き直ってますます働かなくなる可能性が大きい。
収入をちょびっと上げられた方が、ありがたい、もっと頑張ろうと思うより、「オレのやった仕事の評価がたったこれだけかよ」と思って、やる気を削がれる可能性が大きい。
仕事のやりがいを給料だけで評価すると、こういうデメリットもあるんです。

その点、居酒屋ワタミの経営は参考になりますよ。
渡邉美樹『前略・・・。』東洋経済新報社\1500-から引用します。

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アルバイトの人に喜んで働いてもらうには、給料を上げればいいのかというと、決してそうではありません。
彼らの多くは、お金に困っているわけではないですから。
ちなみに、和民の時給は、他社チェーンに比べて200円安くなっています。
これはどうしてかというと、実は3年くらい前になりますが、当時いた3000人のアルバイト全員にアンケートをとったことがあるのです。
「あなたはなぜ和民で働いていますか?」という質問をしたところ、最も多かったのが
「自分自身の存在感があるから」でした。
やりがいということでしょう。
次は「仲間がいるから」でした。
3番目が「楽しい」・「仲間がいて、自分の存在感があって、そこに行くのが楽しい」から働いているというわけです。
「お金のため」はその次、4番目でした。(70p)
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さすがワタミの社長です。
人が動く法則を知っている。
人はお金だけで動くんじゃない。
人間のインセンティブは、お金、社会、道徳の三つなんですね。
人が楽しく働くには、「何をするか」よりも「どこで」「誰と」働くかの方が重要なんです。
たぶんワタミでは、先輩アルバイターが楽しそうに働いていて、後輩に仕事のやりがいを伝えているんだと思います。
それによって若者たちは、スキルや経験値を上げることができ、自分自身の存在感を実感できるのだと思うのです。
支え合う仲間がいて楽しい職場なので、ちょっとくらい時給が低くても一生懸命働くってわけ。

もちろんお金も大事で賃金をケチってはいけないけど、労働者の社会性、道徳心を満たすことも大事なんです。
お金、社会、道徳のベストミックスですね。
三つのインセンティブを上手く組み合わせて実現すれば、コストを節減することもできる。
それがワタミの経営上の強さにもなっているんですね。

給料だけで労働者を働かせよう、というケチな考えは反って労働者の意欲を削ぎ、雇用者の利益を損ないます。
というわけで、ぼくは形ばかりのみみっちい実力主義賃金格差には反対なのです。

2009年4月13日月曜日

自分の価値を高める働き方

こんにちは

ぼくの職場には、忙しいけど楽しそうに仕事をしている人がたくさんいます。
その意味で、いい職場だと思います。
なぜ楽しく仕事ができるかと言えば、「自分の存在価値を実感できる仕事」をしているからなんだと思います。

流れてくる仕事をただこなすだけの、流れ作業のような仕事はおもしろくありません。
自分がやらなくても、誰でも代わりができるような仕事では、自分の価値を見いだせません。
チャップリンの「モダンタイムス」を思い出しちゃいます。
こういうパッシブな仕事は、肉体的に非常に疲れますし、全然頭は使っていないのにも関わらず精神的にも疲れます。
早く終業のベルが鳴るのを待つようになってしまいます。

自分で仕事を創り出したり、流れてくる仕事でも流れを変えたり、強力に押し流したり、そんな「自分にしか出来ない仕事」なら充実感が得られます。
こういう仕事なら、脳をフル回転していても精神的な疲労は少ないし、ちょっとやそっとの残業でもへこたれません。
肉体的に疲れても、家に帰ってバタンキューと眠れば、翌朝にはスッキリ回復します。

斎藤孝さんの講演で聴いたことです。

 人間はエネルギーを使えば使うほどエネルギーが沸いてくるものだ
 エネルギーを出し惜しみするからエネルギーが枯れてしまうのだ

まったくその通りだと思いました。

キャメル・ヤマモト『ムダな時間の充電力、バカな時間の開放力』講談社+α新書\880-から引用します。

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給与についてはいくらもらうかも大事だが、それと同じくらいどう稼ぐか、という稼ぎ方も重要だ。(略)
同じ月給をもらっていたも、それがどういう稼ぎ方でもらっているかで、価値が異なると考える。
まず、自分が持っている力(能力や体力)をすり減らすように稼いでいる場合を「消費的な稼ぎ方」という。いわば寿命を縮める稼ぎ方だ。
消費的稼ぎ方だと年収600万円は、あなたが体力と能力と時間を消費したことに対する対価である。
この場合、あなたの側に残るのはお金と疲労である。
年収600万円は、文字どおり600万円の価値しか持たない。
もう一つは「投資的な稼ぎ方」で、寿命を延ばす報酬だ。
こっちはちょっと込み入っているので説明しよう。
たとえばある成果を出す際に、その成果を生み出す場面以外でも使えるような仕組みを考えたり、あとでも使えるスキルを身につけるように努力する。
投資的稼ぎ方で年収600万円を稼ぐと、あなたは600万円を手にすることに加え、それ以上の価値を得る。
年収600万円以外に、自分がつくった「仕組み」や「スキル」や「知識・経験」といった知的資産が残るからだ。
人脈という資産もできるかもしれない。
こうした知的資産は、特許のような形を取る場合もあるが、多くの場合は目に見えない資産である。
それ自体、多くの人にとっては「精神的な報酬」だろう。
投資的稼ぎ方で仕事を続けると、あなたは現金収入を得ながら、同時に知的資産と精神的資産を蓄財し、資産家になれるかもしれない。(略)
目に見えない知的資産については、仮に、企業からそのぶん払われなくても、あなたの知(血)となり肉となるので、いずれにしてもおいしい稼ぎ方だろう。
(143-145p)
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概して、誰でもできるような簡単な仕事をしている人に限って、自分の給料に不満を持っていたりします。
同じ金額をもらっていたとしても、不満なんです。
そこには「精神的な報酬」がないからなんですね。
ただただ自分を消費し、消耗していくだけだからです。
だから、「オレはこんなに疲れるまで仕事をしているのに、これっぽっちの給料なのか!」と思ってしまうわけです。

反対に楽しい仕事をしている人は、あんがい給料に満足しています。文句はない。
それはお金以外に「精神的な報酬」を得られるからなんです。
スキルが上がる、知識・経験を得ることができる、あるいは誰かから「ありがとう」と言ってもらえる。
自分の価値が実感できれば、不満もなく笑顔でいられます。
「こんなに楽しくて、おまけにお金ももらえちゃって、嬉しいなー」なのです。

仕事には、寿命を延ばす仕事と縮める仕事があるんだってこと。
もちろん仕事のほとんどは、クリエイティブなわくわくするようなものではなく、流れてくるのをこなすだけのルーチンワークなのかもしれません。
でも、そんな仕事をするときでも、その仕事をすることを通じて将来も使えるスキルを得ること、何か自分のためになることを見つけることが、楽しく仕事をするコツなんだと思いました。
そしてそういうネタは、どんな仕事の中にも見つけられる。
それができるなら、自らの価値を高めていけ、楽しく仕事をしていけるんだと思っています。

2009年4月11日土曜日

プロになるには15年

こんにちは

先日、筑波大付属盲学校の先生である間々田さんと晩飯を一緒に食べました。
理科教育仲間です。
間々田さんはぼくより5才年上です(年上だからってメシもおごってもらっちゃいました。さんきゅー)。
大学院卒後ずっと付属盲学校に勤務しているといいますから、25年くらい勤務してるってことでしょうか。

付属盲学校へは、全国からいい教育を受けたい優秀な生徒さんたちが集まってきます。
もちろん各県にも盲学校はあるんです。
でも、いい教育を受けるには筑波大付属じゃないとだめなんだって。

なぜなら、各県の盲学校の先生には異動があるのです。
先生たちの希望も考慮に入れてはくれるそうですが、ある年限がきたら異動せざるを得ない。
そして、異動して普通の学校の先生に戻ってしまうのだそうです。
そして反対に、盲教育の専門性の少ない先生、時には盲教育に興味のない先生までも、異動によって普通の学校から盲学校へと配置されてしまう。
それに対して、筑波大付属は異動がない。
希望しなければ、ずっと付属盲学校の先生として勤務することになるのです。

間々田さんは言いました。

 点字を覚えるくらいなら1年か2年でできる。
 でも、全盲の生徒が分かりやすい点字を書けるようになるには10年かかる。
 そして、いい教材を開発できるようになるには15年はかかる。

数年で異動してしまうということは、専門性を身につける前に異動しちゃうってことです。
各県の盲学校は、だからいい先生が育たず、いい教育ができないのです。

筑波大付属盲学校の先生には異動がありません。
それは、しんどいことでもある。
逃げ道がないからです。
そのしんどい中で、10年から15年精進を続けて、プロになっていくわけなんです。
だから、いい先生になれ、いい教育ができるってことなんです。

技術者も同じだな、とストンと腑に落ちました。
ぼくも、プロになるには10年から15年はひとつの仕事に精進しなければならないと思っています。
10年から15年、意図的に経験を積み上げ、経験を下支えする理論、知識を身につけていく。
そうやって自らをプロに育てていくものだと思い、実践してきました。

どんな仕事でも同じなんだと思います。
10年から15年はひとつ事に打ち込む。
その間はえり好みしないで、どんな仕事にでも積極的に関わっていく。
そうしないとプロにはなれない。

普通の役所や会社は数年ごとに異動があります。
それではプロは育たないということになります。
確かに、15年を過ぎて40才くらいになっても、とてもプロらしい仕事をする人はめったにいませんよね。
なので、専門家としてのプロを育てるには、あまりよいシステムではないと思います。

でもその中でも、プロらしい仕事をする人だっています。
どこが違うのでしょうか。
それはたとえ異動してまったく違う分野の部署に配属されたとしても、仕事の原理を意識している。
種々雑多な仕事の中に共通する原理があるんですよね。
それを抽出できるかどうか。
それができる人が、ゼネラリストとしてのプロになっていくんでしょうね。
そういう人だって、10年から15年、意図的に経験を積み上げ、それを裏打ちする理論、知識を身につけてきたからなんでしょう。
一般的に会社というところでは10年から15年くらい経験した人をマネージャーに抜擢しますが、それは理にかなっていることなんですね。

ぼくは専門家としてのプロを目指してきました。
おかげさまでこれまで異動もなく(引き取り手がない?)、丸14年同じ部署で仕事をしています。
もう一踏ん張りして、一人前のプロになっていきたいと思っています。

2009年4月6日月曜日

人の喜ぶことをやれ!

こんにちは

先日、旧建設業務室のOBのみなさんをできあがったばかりのXFEL棟にご案内しました。
建設業務室とは、SPring8キャンパスを最初に造ったとき、現地での建設作業を統括していた部署です。
平成9年にSPring8が完成したとき、建設業務室も解散しました。
ぼくは平成7年に理研に入りましたから、SPring8の建設も半分くらいだった時期。
電気に関する免許は持っていましたが、建設工事の実務経験はゼロ。
建設業務室の方々にはたくさん教えてもらいましたよ。

とくに電気担当だった増田さんは、ぼくの師匠なんです。
施工者との打ち合わせの仕方、現場を巡回するときの視点。
勉強になりましたねー。
それに建設業務室には建設工事の基本的な本が揃っていたんです。
出張に行くたびに、それらの本の題名をメモしていき、本屋で買って読みました。

なので増田さんから、旧建設業務室のメンバーでXFEL棟を見学したい、というオファーがあったとき、即okしました。
少しでも恩返しができたらと思ったわけです。

ぼくのSPring8出張に合わせて日程を組み、旧建設業務室の方たちのちょっとした同窓会みたいになりました。
10年ぶりにSPring8に来る方もいらっしゃいました。
ほとんどの皆さんは現役を退いていましたが、さすが元上級技術者の方々、矍鑠としていました。
長さ800mもあるXFEL棟を歩いて案内しましたが、へっちゃらなんです。
約3時間、たっぷり見学してもらいました。

増田師匠からこういうメールをもらいました。

 昨日は歴代の方々と見学ができ楽しい時間を過ごすことができました。
 (疲れた人はいないようです。)
 引き続き宴会も大いに盛り上がり十数年前に戻ったようで、これも関口さんの
 おかげです。8時前には解散しましたが大変満足でしました。
 是非、神戸もお願いしますよ!ありがとう!感謝、感謝!です。

皆さんに喜んでいただけて、ぼくも大変嬉しいです。
ほんのちょびっとですが、ご恩返しもできたかな。

田下昌明/野口芳宏『家族を考える』モラロジー研究所¥900-にこうありました。

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「人に迷惑をかけない」と言いますが、人に迷惑をかけない人は本当にいるのでしょうか。
私が誰かに何かをしたとします。
その行為がその人にとって迷惑かどうかは、行為をされた人が決めるのであった、私が決めるのではありません。
もし行為を行った側が決めるのならば、この人の迷惑にならないと思ってやるのであれば、何をやってもよいということになります。
ですから、「人に迷惑をかけない人になれ」という一見いいような言葉は、よく考えてみると、何をやってもよいということになります。
「思った通りに勝手なことをやれ」と言っているのと違わないのです。(田下、123p)
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確かに「人に迷惑をかけない」というのは当たり前なんですが、ちょっとネガティブな考え方ですよね。
田下さんの言うように、それだと何をやってもよい、と思うバカ者も出てくるでしょう。
あるいは、「人に迷惑さえかけないなら何やってもいい」と、変な解釈をしてしまうかもしれません。
または、迷惑をかけないために何もしなくなる引きこもり君を生んでしまうかもしれませんね。
だってねー、人が生きていれば必ず迷惑かけたりかけられたりするんですよ。
それはお互い様。

だからぼくは、「人が喜ぶことをしよう」と思っています。
誰かが喜ぶ姿を想像して、それを目指して行動を起こす。
その方がポジティブだし、心もハッピーになれますからね。