こんにちは
はっちゃん、九九をほぼ全部諳んじてしまったので、今日から100ます計算に挑戦です。
まずは、0~9までシーケンシャルに並べたものから。
最初に、100ます計算のやり方を説明。
すでに九九を覚えながらこの用紙を使っていたので、すぐ理解できました。
それから、100ますの計算時間の目安を説明しました。
・5分以内でできたら2年生レベル。
・4分以内なら3年生レベル。
・3分以内なら6年生と同じくらい。
・2分以内なら大人と同じだよ。
最初は遅くてもいいんだよ。
だんだん速くしていけばいい。
はっちゃんはとても集中してました。
結果はギリギリながら4分以内!
「スゴイ!もう3年生レベルになっちゃった!」とお母さんも激賞。
朝晩1枚ずつやれば、夏休み中に3分を切れるようになれそうです。
そうしたらランダム九九の100ますに挑戦です。
すきなことをトコトンやってほしい。
我が子たちにはそう願っています。
けれども、世の中徒手空拳では戦っていけません。
最低限の「武器」を子どもに持たせて、世の中に送り出したい。
それは、小学4年生までに習う読み書き計算と、何かに集中して取り組める力です。
基礎学力と集中力は、一生使え、役立つものです。
これさえあれば、何にだって挑戦していけるんです。
この二つを子どもに身に着けさせてやることは、親からの最高のプレゼントだ、と100ます計算の生みの親である岸本裕史さんはおっしゃっていました。
楽しく続けていきたいですね!
2012年8月20日月曜日
好きなことだけやればよい
こんにちは
先週末、加古川ウェルネスパーク図書館に呼ばれて、サイエンスカフェをやってきました。
事前受付はしないで、当日受付。
お盆休みにみなさん集まってくれるかどうか、ドキドキでした。
親子20組合計40人の予定でしたが、ちょいとオーバーしてもいいように、座席は48席用意。
お客さんの入りが悪いようだったら、館内放送もしてもらう予定でした。
ところが、開場前に行列ができ、開演10分前にはほぼ満席。
結局、用意した座席数を超える50人もの親子さんが集まってくれましたよ。
館内放送の必要もありませんでした。
嬉しー。
ぼくのサイエンスカフェでのメッセージはただひとつ。
「好きなことをとことんやろう!」です。
好きなことなら、どんどんやりたくなります。
別に努力する必要なんかない。
知らず知らずのうちに大量に勉強してしまうのです。
最も効率的な勉強ができるのです。
そして、好きなことをやっていれば心も満足します。
心が満足している人は、他人の足を引っぱったり、邪魔したり、いじめたりすることはない。
その必要がないんです。
性格もよくなり、人格も磨かれていきます。
さらに、好きで身に着けてきた技、芸は必ずや誰かの役に立ちます。
誰かを楽しませることができるんです。
自分でも楽しみ、他人も楽しませることができる。
嫌いなことをやっていたら、そんな状態には絶対になりませんよ。
好きなことをやり、誰かも喜んでくれる。
当然、味方も増えていきます。
こんなハッピーな人生はないですよね。
たとえ困難に出会っても、好きなことなら乗り越えていけるし、味方になってくれる人、助けてくれる人が必ずいます。
だから恐れることがない。
どんどんとチャレンジしていけるんです。
いわゆる「セキュアベース」ですね。
戦争では兵士たちが安心できる安全な<基地>があると、戦いは果敢に進められます。
危なくなったらそこへ戻ればいいから。
人生も同じです。
自分の「セキュアベース」をしっかりと持つこと。
そのためには、好きなことをとことんやって、誰にも負けない得意技を持ち、味方を増やしておくことです。
ぼくは「50歳を過ぎたら好きなことだけやる」と決めて40代を精進してきました。
これはまずまず実現しつつあります。
サイエンスカフェなども、ちゃんと出張扱いで会社から行かせてもらえる。
ありがたいことです。
でもね、もっと早くから好きなことに邁進してもよかったんじゃないかとも思うのです。
人生嫌いなこと、嫌なこともやらなくちゃいけない。
それは確かです。
でも、そう思い込みすぎるのも危険。
嫌い、嫌だと感じるのは、きっと「それはやっちゃいけないよ」と身体や心が言っているからなんですよ。
きっと、嫌いなこと、嫌なことの中にはたくさんの「やってはいけないこと」「やらなくてもいいこと」が含まれているんです。
だから嫌いなこと、嫌なことを優先しない方がいい。
あくまで好きなこと、やりたいことを優先する。
その中で、好きなことをやるために必要なこと、やりたいことを達成するためにやらざるを得ないことが出てきたら、それに対応すればいい。
そうすれば、必要最小限で嫌なことをやっつけられる。
無駄なことはしなくてもよくなるんです。
そして、好きなことをやる過程で乗り越えた、嫌いなこと、嫌なことは、自分の身になります。
それだけ自分の腕、技も高めることができるのです。
これはかなり美味しいことです。
だからぼくはカフェの中で、「好きなことをとことんやると、不思議なことに嫌いなことが減っていきます」と子どもたちに伝えるんです。
深く掘るためには広く掘れ、ですね。
好きなことをつきつめていくと、その周りの知識、知恵も身につけざるを得ない。
それが人間の幅を広げてくれ、さらに好きなことをやり続ける原資になるわけです。
逆に言えば、嫌いなことばっかりやっていると、好きなことはまるで増えないし、いつしか元々自分がやりたかったこと、夢もしぼんでいってしまうのです。
好きなことならどんな人でも自分の実力以上のことができます。
実力以上のことをやるから、実力は伸びるのです。
不得意なことを無理してやっても、せいぜい人並みになれるかどうかです。
人並みってことは、誰でもできる、他の人に代替え可能ってことですから、自分の存在理由は薄くなってしまい、自信にもつながりません。
そして嫌いなことばかりをやっている人は、味方より敵を増やします。
なぜなら、こういう人は常に「なんでおればっかりこんな嫌なことを!」と思っているからです。
そう思っていれば常に不機嫌になるのは当然でしょう。
不機嫌な人に寄りつく人はいませんよ。
さらに不機嫌な人は、それを他の人にまで伝染させてしまうのです。
「おればっかり嫌なことをしているのはズルイ!なぜおまえもやらないのだ!」って。
そうして自分の嫌なことを誰かに押しつけようとするんです。
無理矢理やらせようとするんです。強制的にやらせるんです。
それでも必要があってそれを強制するのならまだマシですが、必要もないことをただただ他人にも嫌なことをやらせようと押しつけてくる。
これで誰が味方になってくれますか?
好きなことをやっている人は、誰かにそれを強制することはありません。
夢中になっているので、他の人のことなんかあまり気にしないわけです。
楽しそうにやっていれば、必ず人が集まってきます。
誰かが「やりたい」と言ってきたら、どうぞどうぞとオススメする。
やり方も教えてあげる。
強制するなんてコトはないわけです。
楽しいことを教えてくれて、それをやらせてくれ、教えてくれる。
味方になってくれるのは当然ですよねー。
成毛眞『勉強上手』幻冬舎\952-にこうありました。
###
好きなことにのめり込んでいれば、他人はどうでもよくなる。
揺るがない自分の軸ができるのだ。
精神を健全に保ち、バランスよく生きる究極の健康法と言えるかもしれない。
###
事前受付はしないで、当日受付。
お盆休みにみなさん集まってくれるかどうか、ドキドキでした。
親子20組合計40人の予定でしたが、ちょいとオーバーしてもいいように、座席は48席用意。
お客さんの入りが悪いようだったら、館内放送もしてもらう予定でした。
ところが、開場前に行列ができ、開演10分前にはほぼ満席。
結局、用意した座席数を超える50人もの親子さんが集まってくれましたよ。
館内放送の必要もありませんでした。
嬉しー。
ぼくのサイエンスカフェでのメッセージはただひとつ。
「好きなことをとことんやろう!」です。
好きなことなら、どんどんやりたくなります。
別に努力する必要なんかない。
知らず知らずのうちに大量に勉強してしまうのです。
最も効率的な勉強ができるのです。
そして、好きなことをやっていれば心も満足します。
心が満足している人は、他人の足を引っぱったり、邪魔したり、いじめたりすることはない。
その必要がないんです。
性格もよくなり、人格も磨かれていきます。
さらに、好きで身に着けてきた技、芸は必ずや誰かの役に立ちます。
誰かを楽しませることができるんです。
自分でも楽しみ、他人も楽しませることができる。
嫌いなことをやっていたら、そんな状態には絶対になりませんよ。
好きなことをやり、誰かも喜んでくれる。
当然、味方も増えていきます。
こんなハッピーな人生はないですよね。
たとえ困難に出会っても、好きなことなら乗り越えていけるし、味方になってくれる人、助けてくれる人が必ずいます。
だから恐れることがない。
どんどんとチャレンジしていけるんです。
いわゆる「セキュアベース」ですね。
戦争では兵士たちが安心できる安全な<基地>があると、戦いは果敢に進められます。
危なくなったらそこへ戻ればいいから。
人生も同じです。
自分の「セキュアベース」をしっかりと持つこと。
そのためには、好きなことをとことんやって、誰にも負けない得意技を持ち、味方を増やしておくことです。
ぼくは「50歳を過ぎたら好きなことだけやる」と決めて40代を精進してきました。
これはまずまず実現しつつあります。
サイエンスカフェなども、ちゃんと出張扱いで会社から行かせてもらえる。
ありがたいことです。
でもね、もっと早くから好きなことに邁進してもよかったんじゃないかとも思うのです。
人生嫌いなこと、嫌なこともやらなくちゃいけない。
それは確かです。
でも、そう思い込みすぎるのも危険。
嫌い、嫌だと感じるのは、きっと「それはやっちゃいけないよ」と身体や心が言っているからなんですよ。
きっと、嫌いなこと、嫌なことの中にはたくさんの「やってはいけないこと」「やらなくてもいいこと」が含まれているんです。
だから嫌いなこと、嫌なことを優先しない方がいい。
あくまで好きなこと、やりたいことを優先する。
その中で、好きなことをやるために必要なこと、やりたいことを達成するためにやらざるを得ないことが出てきたら、それに対応すればいい。
そうすれば、必要最小限で嫌なことをやっつけられる。
無駄なことはしなくてもよくなるんです。
そして、好きなことをやる過程で乗り越えた、嫌いなこと、嫌なことは、自分の身になります。
それだけ自分の腕、技も高めることができるのです。
これはかなり美味しいことです。
だからぼくはカフェの中で、「好きなことをとことんやると、不思議なことに嫌いなことが減っていきます」と子どもたちに伝えるんです。
深く掘るためには広く掘れ、ですね。
好きなことをつきつめていくと、その周りの知識、知恵も身につけざるを得ない。
それが人間の幅を広げてくれ、さらに好きなことをやり続ける原資になるわけです。
逆に言えば、嫌いなことばっかりやっていると、好きなことはまるで増えないし、いつしか元々自分がやりたかったこと、夢もしぼんでいってしまうのです。
好きなことならどんな人でも自分の実力以上のことができます。
実力以上のことをやるから、実力は伸びるのです。
不得意なことを無理してやっても、せいぜい人並みになれるかどうかです。
人並みってことは、誰でもできる、他の人に代替え可能ってことですから、自分の存在理由は薄くなってしまい、自信にもつながりません。
そして嫌いなことばかりをやっている人は、味方より敵を増やします。
なぜなら、こういう人は常に「なんでおればっかりこんな嫌なことを!」と思っているからです。
そう思っていれば常に不機嫌になるのは当然でしょう。
不機嫌な人に寄りつく人はいませんよ。
さらに不機嫌な人は、それを他の人にまで伝染させてしまうのです。
「おればっかり嫌なことをしているのはズルイ!なぜおまえもやらないのだ!」って。
そうして自分の嫌なことを誰かに押しつけようとするんです。
無理矢理やらせようとするんです。強制的にやらせるんです。
それでも必要があってそれを強制するのならまだマシですが、必要もないことをただただ他人にも嫌なことをやらせようと押しつけてくる。
これで誰が味方になってくれますか?
好きなことをやっている人は、誰かにそれを強制することはありません。
夢中になっているので、他の人のことなんかあまり気にしないわけです。
楽しそうにやっていれば、必ず人が集まってきます。
誰かが「やりたい」と言ってきたら、どうぞどうぞとオススメする。
やり方も教えてあげる。
強制するなんてコトはないわけです。
楽しいことを教えてくれて、それをやらせてくれ、教えてくれる。
味方になってくれるのは当然ですよねー。
成毛眞『勉強上手』幻冬舎\952-にこうありました。
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好きなことにのめり込んでいれば、他人はどうでもよくなる。
揺るがない自分の軸ができるのだ。
精神を健全に保ち、バランスよく生きる究極の健康法と言えるかもしれない。
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2012年8月17日金曜日
サイエンスカフェ加古川、明日!
加古川でのサイエンスカフェ、明日です!
お近くの方はぜひどうぞ!
お盆休み最後の土曜日、たくさんの人が来てくれるといいね。
わくわく!
さて、これから準備だー!!
http://t.co/nTRBX2UL
2012年8月16日木曜日
大学院がアブナイ。。。
こんにちは
知り合いの研究者(理系)からメールが届く。
1年ほど前に准教授として二流大学(ぼくが卒業した大学程度)に赴任した。
「学生にふりまわされて、自分の研究ができない」
おやおや。
日本の大学が,大学院重点化という政策に乗っかって久しくなる。
それ以来、日本の研究パフォーマンスは良くなったのだろうか。
否、あんまり。。。なのである。
なぜだ。
理系の大学での研究は、大学院生の(ただ)働きによって支えられている。
一流大学が研究成果をバンバン出せていたのは、もちろん教授も優秀なのであろうが、若くて優秀で体力もある大学院生がたくさんいたからだ。
理系の大学院生は、その意味で奴隷労働者だったのである。
だから、二流大学の教授があまり研究成果を出せなかったのは、教授自身がダメなのではなく、二流大学には大学院が設置されておらず、奴隷を使うことができなかったからなのだ。
二流大学の教授はこう願った。
「ああ、うちにも大学院生がいてくれたらいいのに」
もちろん、一流大学の教授だって願ったはずだ。
もっと奴隷が欲しい!
願いは叶った!国の施策として、大学院重点化が決まった。
二流大にも大学院が設置され、一流大の大学院の定員は2倍以上になった。
東京大学など、学部生より大学院生の方が多くなっちゃったのである。
教授たちも大学院生(という名の奴隷)獲得に励んだ。
どんどん大学院へ学生(実は奴隷にしたい人材)を入学させた。
先週学会で大阪大学に行ってたんだけど、阪大理学部卒の9割もの学生が大学院へ入学するようになってしまっているって。
それでも定員割れなので、他大学からも集めなくちゃならない。
もうそうなったら学生の取り合いなのである。
ところが困った。
奴隷であるはずの大学院生が、あまり、いやちっとも働かないのである。
それどころか、面倒ばかりかけるのだ。
いやいや、面倒をちゃんと見てくれと甘えまくってくるのだ。
それでいて、学位をくれ、と言うのだ。
いけしゃあしゃあと。
二流大学はもっと困った。
定員が増えた一流大学が、ちょいと優秀な学生を根こそぎ引っこ抜いていくからだ。
学生だって、二流大学でもらう学位より一流大学での学位の方が嬉しい。
かっこいいもんね。
学生だってうすうす感ずいているのだ。
二流大で学位を得たところで、未来はない。
実はこれは錯覚なんだけどね。
一流大だろうと二流大だろうと、きちんと研究能力を自分で鍛えたかどうかが重要で、どの大学で学位を得たかは関係ないのだ。
でも、研究したくて大学院に行くわけじゃない学生は、そんなことは思わないのだよ。
だいたい、売り手市場と買い手市場では、優位に立つ方が逆転する。
今や大学院に入学してくる学生は、完全なる売り手市場。
学生の方が立場が上。
教授が学生に過酷な労働を命ずることなんかできやしない。
こうして大学院生は増えた。
でも研究のためにその身を捧げてくれるような学生は増えなかった。
逆に、教授は大学院生の面倒に手間がかかるようになってしまった。
研究時間は返って減ってしまったのである。
阪大キャンパスをうろうろしたり、文科省科学技術政策研究所の以下のレポートを見たりして、今の大学院教育ってちゃんと機能していないよなあ、って思った次第。
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/mat213j/pdf/mat213j_1.pdf
余談ですが、我が子たちが大学院に進学したいと言ったら、こう言うことにします。
「日本のはダメだよ。外国に行きなさい。それなら許す」
1年ほど前に准教授として二流大学(ぼくが卒業した大学程度)に赴任した。
「学生にふりまわされて、自分の研究ができない」
おやおや。
日本の大学が,大学院重点化という政策に乗っかって久しくなる。
それ以来、日本の研究パフォーマンスは良くなったのだろうか。
否、あんまり。。。なのである。
なぜだ。
理系の大学での研究は、大学院生の(ただ)働きによって支えられている。
一流大学が研究成果をバンバン出せていたのは、もちろん教授も優秀なのであろうが、若くて優秀で体力もある大学院生がたくさんいたからだ。
理系の大学院生は、その意味で奴隷労働者だったのである。
だから、二流大学の教授があまり研究成果を出せなかったのは、教授自身がダメなのではなく、二流大学には大学院が設置されておらず、奴隷を使うことができなかったからなのだ。
二流大学の教授はこう願った。
「ああ、うちにも大学院生がいてくれたらいいのに」
もちろん、一流大学の教授だって願ったはずだ。
もっと奴隷が欲しい!
願いは叶った!国の施策として、大学院重点化が決まった。
二流大にも大学院が設置され、一流大の大学院の定員は2倍以上になった。
東京大学など、学部生より大学院生の方が多くなっちゃったのである。
教授たちも大学院生(という名の奴隷)獲得に励んだ。
どんどん大学院へ学生(実は奴隷にしたい人材)を入学させた。
先週学会で大阪大学に行ってたんだけど、阪大理学部卒の9割もの学生が大学院へ入学するようになってしまっているって。
それでも定員割れなので、他大学からも集めなくちゃならない。
もうそうなったら学生の取り合いなのである。
ところが困った。
奴隷であるはずの大学院生が、あまり、いやちっとも働かないのである。
それどころか、面倒ばかりかけるのだ。
いやいや、面倒をちゃんと見てくれと甘えまくってくるのだ。
それでいて、学位をくれ、と言うのだ。
いけしゃあしゃあと。
二流大学はもっと困った。
定員が増えた一流大学が、ちょいと優秀な学生を根こそぎ引っこ抜いていくからだ。
学生だって、二流大学でもらう学位より一流大学での学位の方が嬉しい。
かっこいいもんね。
学生だってうすうす感ずいているのだ。
二流大で学位を得たところで、未来はない。
実はこれは錯覚なんだけどね。
一流大だろうと二流大だろうと、きちんと研究能力を自分で鍛えたかどうかが重要で、どの大学で学位を得たかは関係ないのだ。
でも、研究したくて大学院に行くわけじゃない学生は、そんなことは思わないのだよ。
だいたい、売り手市場と買い手市場では、優位に立つ方が逆転する。
今や大学院に入学してくる学生は、完全なる売り手市場。
学生の方が立場が上。
教授が学生に過酷な労働を命ずることなんかできやしない。
こうして大学院生は増えた。
でも研究のためにその身を捧げてくれるような学生は増えなかった。
逆に、教授は大学院生の面倒に手間がかかるようになってしまった。
研究時間は返って減ってしまったのである。
阪大キャンパスをうろうろしたり、文科省科学技術政策研究所の以下のレポートを見たりして、今の大学院教育ってちゃんと機能していないよなあ、って思った次第。
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/mat213j/pdf/mat213j_1.pdf
余談ですが、我が子たちが大学院に進学したいと言ったら、こう言うことにします。
「日本のはダメだよ。外国に行きなさい。それなら許す」
自己教育力を上げよ!
こんにちは
はっちゃん小2の夏休みの宿題のひとつは「九九を全部唱えることができるようになる」です。
実を言うと、学校ではまだ九九は習っていないのです。
習っていないことを宿題に出す。
これってどういうこと??
公立小学校でこんな宿題を出したら、直ちにモンスターペアレンツが怒鳴り込んできそうですよ。
あはははは。
でもねー、ぼくが教師だったときも思っていたんですが、習っていないからできなくてもいい、という態度が嫌いなんです。
もちろんその通りですよ。習っていないんだからできなくてもいいのは確か。
でも、習っていないことだを拒否してしまうのもどうかと思うのです。
まだ習っていないことだからこそ、興味を持って欲しい。
社会人になってもそうなんです。
やったことのない仕事に対して拒否感の強い人がけっこういるんです。
ハナから、私にはできません、そんなこと、って言う。
でもそれってもったいない。
せっかくのチャンスを逃がしてしまうことになりますよ。
新しい仕事を覚えるチャンスなのに。
自分の技能が上がるチャンスなのに。
社会人の仕事能力はどうやって査定されるかご存じか。
もちろん、今現在の仕事力も大事です。
今現在の仕事力もないなら、今日の仕事も処理できなくなってしまいますからね。
そういう人は当然お払い箱です。
でもそれだけじゃないんだなあ。
「明日の仕事力」もちゃんと査定されているのです。
それはどこで見るか。
新たな仕事を割り振られたとき、面白そう、やってみたい、と思うかどうかなんですよ。
嫌々引き受けるような態度は、自らの能力評価を引き下げます。
もちろん、初めて取り組む仕事なんですから多少不備があっても仕方ない。
それは上司もお見通し。織り込み済みのはず。
不備があってもリカバーできるだけの余裕を持っているものなんです。持っていなかったら上司が無能なだけ。
ともかく、やったことのない仕事に対して、興味を持って取り組めるかどうかで、そしてその仕事をなんとかかんとかこなすことができるかどうかで、その人の仕事能力は測られるのです。
「能力」とはポテンシャルのことです。潜在能力ですね。
現に顕れた業務力のことを指しているのではなく、未だ顕れていない力を推定するものなんですから。
話を戻して、息子の夏休みの宿題。まだ学校で教えていない九九の練習をさせること。
このあたりに学校の見識を感じますね、ぼくは。
学校で習っていようが習っていまいが、必要なことは自分でやれ、という意志なんだと思うのです。
もちろん小2ですから、自分で、というより「家庭で」でしょう。
家庭の教育力を試しているんだとぼくは受け取りました。
これまた余談ですが、最近の日本人は悪者探しが好きです。
悪者を見つけて、そいつに責任を転嫁すれば、それでコトが終わったと誤解している人が多い。
それって間違いですよ。
たとえば、横断歩道で青信号で渡っているとき、信号無視してきた車に轢かれ怪我をした。
確かに車の運転手が悪い。この運転手の責任であることは間違いないです。
でもそこでお終いでしょうか。
いえいえ、こっちは怪我をしちゃったんです。
悪者が誰かはっきりしたからって、怪我が治るわけではありません。
確かに信号無視をしてきた運転手が悪いのですが、歩行者としてもそういうやつもたまにはいるかもしれないことを想定しておくことが必要。
だから、信号が変わって青になっても「右見て、左見て、もう一度右を見て」と子どもに教えるわけです。
車が横断歩道の前で停車しているかどうか、減速しないで突っ込んでくる車がいないかどうかを、必ず自分の目で確かめる必要があるのです。
学校の勉強だって同じなんですよ。
子どもの学力が低い。それは先生のせいだ。
その通りかもしれません。
でもそれが分かったからって、我が子の学力が上がるわけではありません。
先生がダメならダメでも、必要な勉強は自分でやらなくちゃいけないのです。だって、学力不足で将来損をするのは自分ですから。
かけざん九九をマスターすることは、学校で教えていようがいまいが、教え方が上手だろうが下手だろうが、担任の先生を子どもが好きだろうが嫌いだろうが、避けては通れない勉強なんです。
だから自分でしっかりやれ、家庭でしっかりやらせろ。
学校はそういうメッセージを伝えているんだとぼくは思ったんです。
さてさて、夏休みも前半が終わりました。
はっちゃんもほぼ九九全部をそらんじてしまいました。
これから、0~9までシーケンシャルの百マスに取り組ませようと思います。
九九の表をアタマにしっかり定着させるためです。
夏休み終了までに、100ます九九で5分を切るようにしたいですね。
で、10月頃までに2分を切る。
ランダム九九100ますで2分を切れれば、実用上まったく問題なしです。
そして子どもに自信を持たせるコツは「先取り学習」です。
つまり予習。
復習も大事ですが、復習だけでは子どもの性格は悪くなります。
予習をするから自信が持て、自信があるから性格もよくなるんです。
九九をマスターしたら、2年生のうちに3年生で習う桁数の多いかけ算、簡単な割り算まで教えてしまおうと思っています。
実を言うと、学校ではまだ九九は習っていないのです。
習っていないことを宿題に出す。
これってどういうこと??
公立小学校でこんな宿題を出したら、直ちにモンスターペアレンツが怒鳴り込んできそうですよ。
あはははは。
でもねー、ぼくが教師だったときも思っていたんですが、習っていないからできなくてもいい、という態度が嫌いなんです。
もちろんその通りですよ。習っていないんだからできなくてもいいのは確か。
でも、習っていないことだを拒否してしまうのもどうかと思うのです。
まだ習っていないことだからこそ、興味を持って欲しい。
社会人になってもそうなんです。
やったことのない仕事に対して拒否感の強い人がけっこういるんです。
ハナから、私にはできません、そんなこと、って言う。
でもそれってもったいない。
せっかくのチャンスを逃がしてしまうことになりますよ。
新しい仕事を覚えるチャンスなのに。
自分の技能が上がるチャンスなのに。
社会人の仕事能力はどうやって査定されるかご存じか。
もちろん、今現在の仕事力も大事です。
今現在の仕事力もないなら、今日の仕事も処理できなくなってしまいますからね。
そういう人は当然お払い箱です。
でもそれだけじゃないんだなあ。
「明日の仕事力」もちゃんと査定されているのです。
それはどこで見るか。
新たな仕事を割り振られたとき、面白そう、やってみたい、と思うかどうかなんですよ。
嫌々引き受けるような態度は、自らの能力評価を引き下げます。
もちろん、初めて取り組む仕事なんですから多少不備があっても仕方ない。
それは上司もお見通し。織り込み済みのはず。
不備があってもリカバーできるだけの余裕を持っているものなんです。持っていなかったら上司が無能なだけ。
ともかく、やったことのない仕事に対して、興味を持って取り組めるかどうかで、そしてその仕事をなんとかかんとかこなすことができるかどうかで、その人の仕事能力は測られるのです。
「能力」とはポテンシャルのことです。潜在能力ですね。
現に顕れた業務力のことを指しているのではなく、未だ顕れていない力を推定するものなんですから。
話を戻して、息子の夏休みの宿題。まだ学校で教えていない九九の練習をさせること。
このあたりに学校の見識を感じますね、ぼくは。
学校で習っていようが習っていまいが、必要なことは自分でやれ、という意志なんだと思うのです。
もちろん小2ですから、自分で、というより「家庭で」でしょう。
家庭の教育力を試しているんだとぼくは受け取りました。
これまた余談ですが、最近の日本人は悪者探しが好きです。
悪者を見つけて、そいつに責任を転嫁すれば、それでコトが終わったと誤解している人が多い。
それって間違いですよ。
たとえば、横断歩道で青信号で渡っているとき、信号無視してきた車に轢かれ怪我をした。
確かに車の運転手が悪い。この運転手の責任であることは間違いないです。
でもそこでお終いでしょうか。
いえいえ、こっちは怪我をしちゃったんです。
悪者が誰かはっきりしたからって、怪我が治るわけではありません。
確かに信号無視をしてきた運転手が悪いのですが、歩行者としてもそういうやつもたまにはいるかもしれないことを想定しておくことが必要。
だから、信号が変わって青になっても「右見て、左見て、もう一度右を見て」と子どもに教えるわけです。
車が横断歩道の前で停車しているかどうか、減速しないで突っ込んでくる車がいないかどうかを、必ず自分の目で確かめる必要があるのです。
学校の勉強だって同じなんですよ。
子どもの学力が低い。それは先生のせいだ。
その通りかもしれません。
でもそれが分かったからって、我が子の学力が上がるわけではありません。
先生がダメならダメでも、必要な勉強は自分でやらなくちゃいけないのです。だって、学力不足で将来損をするのは自分ですから。
かけざん九九をマスターすることは、学校で教えていようがいまいが、教え方が上手だろうが下手だろうが、担任の先生を子どもが好きだろうが嫌いだろうが、避けては通れない勉強なんです。
だから自分でしっかりやれ、家庭でしっかりやらせろ。
学校はそういうメッセージを伝えているんだとぼくは思ったんです。
さてさて、夏休みも前半が終わりました。
はっちゃんもほぼ九九全部をそらんじてしまいました。
これから、0~9までシーケンシャルの百マスに取り組ませようと思います。
九九の表をアタマにしっかり定着させるためです。
夏休み終了までに、100ます九九で5分を切るようにしたいですね。
で、10月頃までに2分を切る。
ランダム九九100ますで2分を切れれば、実用上まったく問題なしです。
そして子どもに自信を持たせるコツは「先取り学習」です。
つまり予習。
復習も大事ですが、復習だけでは子どもの性格は悪くなります。
予習をするから自信が持て、自信があるから性格もよくなるんです。
九九をマスターしたら、2年生のうちに3年生で習う桁数の多いかけ算、簡単な割り算まで教えてしまおうと思っています。
2012年8月13日月曜日
先生はエライ
こんにちは
伊藤真さんの講演を聴いて、こんなことを考えてみました。
憲法を学ぶと「先生は偉い」という命題が証明できます。
え?いったいどういうこと?
憲法を法律の親玉だと思っている人はいませんか?
実は憲法は、法律とはまったく違うものなのです。
法律は、その決まりによって国民の行動を制限しますよね。
交通違反を捕まえたり、税金を徴収したり。
つまりそれって、権力行使に他なりません。
では、法律を作るのは誰?
もちろん国会議員です。
つまり法律を作るって言うことは、国民に対して権力を行使する、ということなんです。
だから、国会議員は権力者です。
国会議員によって作られた法律を実行するのは誰?
たとえば道路交通法に従って、違反者を逮捕するのは警察官。
警察官は違反者を逮捕するだけの権力を与えられているわけです。
警察官は公務員です。
だから、公務員は権力者です。
そう言えば、国会議員も特別職公務員ですね。
警察官によって逮捕された人を裁くのは誰?
それは裁判官。
法を犯した人を裁判によって刑罰を決める。
罰金を命じたり、懲役を命じたり、死刑にしちゃったり。
つまり裁判官にはそれだけの権力が与えられているのです。
裁判官はその意味で権力者。
裁判官だって公務員でした。
まとめて言うと、司法、立法、行政の三権は「権力」であり、その権力はすべて公務員にそれぞれの職責に応じて与えられているんです。
ではその権力の源泉は何でしょうか?
公務員の権力は、主権者である国民が与えているのです。
それは憲法に書かれている通り。
つまり、国民はよりよい社会を作るために、あえて公務員に権力を付託しているのです。
自らの自由を制限するかもしれないのに、それでもあえてそうしている。
それが近代国家の原理なんですね。
だからといって,公務員に無制限に権力を与えているわけではありません。
それでは公務員がやりたい放題やり始めちゃったら,社会は成り立ちません。
それを縛るのが「憲法」。
憲法は公務員、すなわち権力者を制限するものなのです。
だから、法律とは働きがまったく逆なんです。
最近はそうでもないのかもしれませんが、総理大臣とか裁判長とか,偉い人だって思いますよね。
それは総理大臣も裁判長も公務員であり、国民が権力を与えているんですから、偉くて当たり前なんですよ。
だから、総理大臣も国民が与えた権力を上手に行使して、社会を良くしていかなくちゃいけない。
だって憲法にこう書いてありますから。
第13条
すべての国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政によって、最大の尊重を必要とする。
総理大臣たる者、いくら偉そうにしたっていんだけど、ぼくらの生命、自由及び幸福追求の権利は守らないといけないんです。
逆に言えば、ぼくらの生命、自由及び幸福追求の権利を守るためなら、どんどんと権力をふるって欲しいのですよ。
さてさて、ようやく本題。
公立校の先生も公務員ですよね。
これまでの議論どおり、学校の先生も「権力者」なんです。
だから、「先生は偉い」んですよ、構造的に。
「たかが先公(死語?)のくせに、エラソウにすんじゃねえよ!」なんてすごんでもダメですよ。
憲法で偉いことに決めちゃったんですから。
あえて言いますが、先生は偉いんです、偉いことにしとかなくちゃいけないんです。
先生ご本人だって、エラソウにしなくちゃいけないんです、無理にでも。
だってそれは、国民がそれだけの権力を付託しているんですから。
その代わり、先生にはぼくらの「生命、自由及び幸福追求の権利」を守ってもらわなくちゃ。
たとえば「いじめ」なんてのがクラスで発生したとする。
そのとき、もちろんいじめる奴が悪いですよ。
でもそれより、先生がちゃんと権力行使しないのが悪い。
だって、いじめられている生徒の「生命、自由及び幸福追求の権利」が犯されようとしているんです。
こんなときこそ、凜として強権を発動してもらいたい。
それが憲法が定めた公務員の義務なんですから。
昔のお父さん、お母さんは、よくこんなことを言って子どもを躾けたようです。
「おい、そんなことをするとおまわりさんに逮捕されるぞ」
だから子どもにとって、おまわりさんはコワイ存在でいてくれた方がいいんです。
同じく、こんなことも言っていたようです。
「そんなだらしないことをするなら、先生に言いつけるぞ!」
昔は子どもにとって、先生もコワイ存在だったんですね。
いや、コワイ存在ってことにしといたんです。
その方が教育上有利だから。
まあ最近はそんなわけにはいかないのかもしれませんが、でも先生って言うのは一定の権力を国民から負託された存在であることは忘れないでもらいたい。
フレンドリーな先生もいいんですが、いざというときはおっかない、そういう存在であってほしいなーって思うんですよ。
憲法を学ぶと「先生は偉い」という命題が証明できます。
え?いったいどういうこと?
憲法を法律の親玉だと思っている人はいませんか?
実は憲法は、法律とはまったく違うものなのです。
法律は、その決まりによって国民の行動を制限しますよね。
交通違反を捕まえたり、税金を徴収したり。
つまりそれって、権力行使に他なりません。
では、法律を作るのは誰?
もちろん国会議員です。
つまり法律を作るって言うことは、国民に対して権力を行使する、ということなんです。
だから、国会議員は権力者です。
国会議員によって作られた法律を実行するのは誰?
たとえば道路交通法に従って、違反者を逮捕するのは警察官。
警察官は違反者を逮捕するだけの権力を与えられているわけです。
警察官は公務員です。
だから、公務員は権力者です。
そう言えば、国会議員も特別職公務員ですね。
警察官によって逮捕された人を裁くのは誰?
それは裁判官。
法を犯した人を裁判によって刑罰を決める。
罰金を命じたり、懲役を命じたり、死刑にしちゃったり。
つまり裁判官にはそれだけの権力が与えられているのです。
裁判官はその意味で権力者。
裁判官だって公務員でした。
まとめて言うと、司法、立法、行政の三権は「権力」であり、その権力はすべて公務員にそれぞれの職責に応じて与えられているんです。
ではその権力の源泉は何でしょうか?
公務員の権力は、主権者である国民が与えているのです。
それは憲法に書かれている通り。
つまり、国民はよりよい社会を作るために、あえて公務員に権力を付託しているのです。
自らの自由を制限するかもしれないのに、それでもあえてそうしている。
それが近代国家の原理なんですね。
だからといって,公務員に無制限に権力を与えているわけではありません。
それでは公務員がやりたい放題やり始めちゃったら,社会は成り立ちません。
それを縛るのが「憲法」。
憲法は公務員、すなわち権力者を制限するものなのです。
だから、法律とは働きがまったく逆なんです。
最近はそうでもないのかもしれませんが、総理大臣とか裁判長とか,偉い人だって思いますよね。
それは総理大臣も裁判長も公務員であり、国民が権力を与えているんですから、偉くて当たり前なんですよ。
だから、総理大臣も国民が与えた権力を上手に行使して、社会を良くしていかなくちゃいけない。
だって憲法にこう書いてありますから。
第13条
すべての国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政によって、最大の尊重を必要とする。
総理大臣たる者、いくら偉そうにしたっていんだけど、ぼくらの生命、自由及び幸福追求の権利は守らないといけないんです。
逆に言えば、ぼくらの生命、自由及び幸福追求の権利を守るためなら、どんどんと権力をふるって欲しいのですよ。
さてさて、ようやく本題。
公立校の先生も公務員ですよね。
これまでの議論どおり、学校の先生も「権力者」なんです。
だから、「先生は偉い」んですよ、構造的に。
「たかが先公(死語?)のくせに、エラソウにすんじゃねえよ!」なんてすごんでもダメですよ。
憲法で偉いことに決めちゃったんですから。
あえて言いますが、先生は偉いんです、偉いことにしとかなくちゃいけないんです。
先生ご本人だって、エラソウにしなくちゃいけないんです、無理にでも。
だってそれは、国民がそれだけの権力を付託しているんですから。
その代わり、先生にはぼくらの「生命、自由及び幸福追求の権利」を守ってもらわなくちゃ。
たとえば「いじめ」なんてのがクラスで発生したとする。
そのとき、もちろんいじめる奴が悪いですよ。
でもそれより、先生がちゃんと権力行使しないのが悪い。
だって、いじめられている生徒の「生命、自由及び幸福追求の権利」が犯されようとしているんです。
こんなときこそ、凜として強権を発動してもらいたい。
それが憲法が定めた公務員の義務なんですから。
昔のお父さん、お母さんは、よくこんなことを言って子どもを躾けたようです。
「おい、そんなことをするとおまわりさんに逮捕されるぞ」
だから子どもにとって、おまわりさんはコワイ存在でいてくれた方がいいんです。
同じく、こんなことも言っていたようです。
「そんなだらしないことをするなら、先生に言いつけるぞ!」
昔は子どもにとって、先生もコワイ存在だったんですね。
いや、コワイ存在ってことにしといたんです。
その方が教育上有利だから。
まあ最近はそんなわけにはいかないのかもしれませんが、でも先生って言うのは一定の権力を国民から負託された存在であることは忘れないでもらいたい。
フレンドリーな先生もいいんですが、いざというときはおっかない、そういう存在であってほしいなーって思うんですよ。
2012年8月12日日曜日
週休二日の功罪
こんにちは
週休二日制が法制化されて20年近く経ちます。
どうでしょうか。
週休二日になってから、ゆとりが増えたでしょうか。
職場も学校も、返って余裕がなくなってしまったような気がしてなりません。
日本のGDP成長率は、1990年代、いわゆるバブル崩壊後にほぼゼロ(歳によってマイナス)に転じました。
そしてこれまでずっと「不況」が続いているわけです。
昨夜、小島寛之『算数の発想』という本を読みましたが、90年代にGDPが低下したことのほとんどは、完全週休二日の実施や祝日の増加で説明できちゃう、と書いてありました。
GDP国内総生産って、その年に生み出された生産物やサービスの総額です。
生産物やサービスを生み出しているのは、労働者による労働力に他なりません。
総労働力=労働者数×労働者の能力×労働時間、と分解できます。
週休二日制の導入や祝日増加で、90年代に労働時間は約10%も減ったんだそうです。
そうなれば、総労働力も10%減るのも当たり前だし、GDPも減少するのも当然なんです。
減った労働時間を補うにはどうすればよいか。
労働者数を増やすか、労働者個々人の能力を上げるしかありません。
労働者数を増やすために移民政策を進めろ、という声が聞かれるようになったのも、確か90年代以降でしょう。それと符合します。
労働者個々人の能力、生産性を上げるために、労働強化が図られたのもこの頃。
サービス残業なんて言葉も、90年以降に言われるようになったと記憶しています。
だいたい不思議でしょ。不況なのにたくさん残業しなけりゃならないって。
残業というのは需要に供給が追いつかない時、すなわち景気のいい時にする必要のあるものでしょう、本来。
不況=仕事がない状況のはず。
それなのにサービス残業を強いられる。
つまり仕事は減っていないんです。
減ったのは、総労働力だったんです。
成果主義、実力主義も90年代に始まったこと。
労働者個々人の能力、効率を上げないと、総労働力が上がらないからです。
人間は、能力を上げろ!と号令されて、すぐ能力を上げられるような存在ではありません。
無能の烙印を押されるのはイヤですから、無理をするしかなくなります。
サービス残業も会社からの指示で無理矢理やらせられることより、無能の烙印を押されるのが嫌なために、労働者自身が自主的にやってしまう例が多いのです。
短期的なら無理も利きます。
でも無理も長引けば破綻します。
身体を壊し、心を壊す。
うつ病が増えたのも、自殺者が年間3万人になったのも、90年代からです。
子どもの学習にとっても,土曜日登校は重要ですよね。
週休二日になってから、月曜日の祝日が増えてから、学習指導、生活指導の困難が増えたように思います。
土日二日間、土日月三日間の生活の乱れを立て直すのはとても大変です。
勉強だって,定着率は総授業時間に比例するのは当然なのです。
短い授業時数で学習内容を理解し、定着できるかどうかは、生徒個々人の能力によってしまう。
当然、生徒間の学力差が開き、授業成立の基盤が脆弱になってしまうわけです。
週休二日などで授業時数が減った分を補うのは、もはや学校の授業の中だけでは無理なんです。
結論:再び土曜日も働くことにしましょう。
土曜日も登校日にしましょう。
その方が返って「ゆとり」が生まれるように思いますが、どうでしょうか。
週休二日制が法制化されて20年近く経ちます。
どうでしょうか。
週休二日になってから、ゆとりが増えたでしょうか。
職場も学校も、返って余裕がなくなってしまったような気がしてなりません。
日本のGDP成長率は、1990年代、いわゆるバブル崩壊後にほぼゼロ(歳によってマイナス)に転じました。
そしてこれまでずっと「不況」が続いているわけです。
昨夜、小島寛之『算数の発想』という本を読みましたが、90年代にGDPが低下したことのほとんどは、完全週休二日の実施や祝日の増加で説明できちゃう、と書いてありました。
GDP国内総生産って、その年に生み出された生産物やサービスの総額です。
生産物やサービスを生み出しているのは、労働者による労働力に他なりません。
総労働力=労働者数×労働者の能力×労働時間、と分解できます。
週休二日制の導入や祝日増加で、90年代に労働時間は約10%も減ったんだそうです。
そうなれば、総労働力も10%減るのも当たり前だし、GDPも減少するのも当然なんです。
減った労働時間を補うにはどうすればよいか。
労働者数を増やすか、労働者個々人の能力を上げるしかありません。
労働者数を増やすために移民政策を進めろ、という声が聞かれるようになったのも、確か90年代以降でしょう。それと符合します。
労働者個々人の能力、生産性を上げるために、労働強化が図られたのもこの頃。
サービス残業なんて言葉も、90年以降に言われるようになったと記憶しています。
だいたい不思議でしょ。不況なのにたくさん残業しなけりゃならないって。
残業というのは需要に供給が追いつかない時、すなわち景気のいい時にする必要のあるものでしょう、本来。
不況=仕事がない状況のはず。
それなのにサービス残業を強いられる。
つまり仕事は減っていないんです。
減ったのは、総労働力だったんです。
成果主義、実力主義も90年代に始まったこと。
労働者個々人の能力、効率を上げないと、総労働力が上がらないからです。
人間は、能力を上げろ!と号令されて、すぐ能力を上げられるような存在ではありません。
無能の烙印を押されるのはイヤですから、無理をするしかなくなります。
サービス残業も会社からの指示で無理矢理やらせられることより、無能の烙印を押されるのが嫌なために、労働者自身が自主的にやってしまう例が多いのです。
短期的なら無理も利きます。
でも無理も長引けば破綻します。
身体を壊し、心を壊す。
うつ病が増えたのも、自殺者が年間3万人になったのも、90年代からです。
子どもの学習にとっても,土曜日登校は重要ですよね。
週休二日になってから、月曜日の祝日が増えてから、学習指導、生活指導の困難が増えたように思います。
土日二日間、土日月三日間の生活の乱れを立て直すのはとても大変です。
勉強だって,定着率は総授業時間に比例するのは当然なのです。
短い授業時数で学習内容を理解し、定着できるかどうかは、生徒個々人の能力によってしまう。
当然、生徒間の学力差が開き、授業成立の基盤が脆弱になってしまうわけです。
週休二日などで授業時数が減った分を補うのは、もはや学校の授業の中だけでは無理なんです。
結論:再び土曜日も働くことにしましょう。
土曜日も登校日にしましょう。
その方が返って「ゆとり」が生まれるように思いますが、どうでしょうか。
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