2013年1月31日木曜日

プロは学び続ける

技術士の先輩からこんな話を聞いた。

その人がプロかどうか、初回に会っただけでは分からないこともある。
プロだからって何でも知っている、分かっているわけではない。
クライアントから難しい質問をされる。
そのときにいい加減なことを言ってはいけない。
いい加減なことを言えば、必ず化けの皮ははがれるから、次はなくなる。
知らないことは知らない、分からないことは分からないと言えばよい。
その代わり、次にそのクライアントに会うときまでに勉強しておく。
次に会うときに、正しいことを説明できることが大事だ。

技術士などエンジニアには継続的に研鑽を積むことが求められている。
一回、遙か昔に資格試験に受かっただけでは、一流のエンジニアとは言えない。
腕が鈍らないように維持し、さらに磨きをかけることが必要なのだ。

それを公的に示すCPD制度がある。
見学に行ったり、講習を受けたり、自ら講師になって講演したりすると、その時間と内容に従ってポイントが貯まる。
見学参加、講習受講なら1時間1ポイントだ。
学会発表や講師を務めたときは1時間3ポイントだったかな。

で、年間50ポイントが最低ラインとなっている。
毎年これ以上は自己研鑽を継続する。
それでようやく資格の価値が下がらないのだ。

日常の仕事をやりくりし、毎年50時間以上の自己研鑽の時間を作り出す。
これがプロフェッショナルの条件なのだ。
のんべんだらりんと仕事をしているのでは、自己研鑽の時間は生み出せない。
残業、残業で仕事に追いまくられている人は、実はプロではないのである。
やるべきことを効率的にやっつけ、勉強する時間をつくる。
本を読み、人と会い、論文、原稿を書く。
そしてそれをまた自らの仕事に活かしていく。

そしてプロはこういう継続的な研鑽を自主的に行う。
誰かから強制されて研鑽するのではないのだ。
プロなら自分の仕事に関する本、雑誌を読み、学会発表も年1回は行う。
そのくらいしないと腕が落ちるのだ。

2013年1月30日水曜日

世界初、世界一を目指す理由

わが施設のコージェネレーション発電設備。
エネルギーの高度利用と節電に貢献、BCPとしても有効ということで、今年度のコージェネ大賞に受賞決定!
うれしいなー。
http://www.ace.or.jp/web/info_event/index.php?Kiji_Detail&kijiId=58

コージェネレーション設備とは、電力と熱、二つのエネルギーをつくり出す設備です。略してコジェネ。
燃料を燃やしてタービンを回し、発電する。
普通の火力発電所ではその排気ガスをそのまま大気に捨てています。
でも排気ガスはまだ600℃もの温度がある。
それを捨てちゃうのはもったいないよね。
で、ボイラーで熱回収して蒸気も作っているんです。
普通の火力発電所の熱効率は40%程度。
その上送電ロスもあるから、需要場所に届く時には熱効率35%にまで低下してしまう。
それに比べるとコジェネは70%以上、すごく高効率、節エネルギーなんです。

わがコジェネは、その電力と熱をスパコン「京」に送っています。
高い熱効率でエネルギーを使っているだけじゃなく、電力ピークの抑制や節電にも有効、そして無停電電源装置としても機能している。
そういったところが評価されました。
いい設備を設計してくれた設計者、いい設備に造り上げてくれた施工者、確かな運転をしてくれているわがスタッフに感謝ですね。
ユニークなコンセプトを思いついた俺もすごい!あはははは。

スパコン開発は、誰かさんから「一番じゃなくてもいい」「他国から買ってくればいいじゃないか」と言われた。
だが、一から作っていないものには限界があることを知らねばならない。

なぜ一番じゃなきゃダメなのか。
一番のものを作るためには、借り物ではできない。
一から作らなくちゃ,一番のものは作れないのだ。

たとえば、他国から買ってくるとしよう。
世界初、世界最高のものを作るには、膨大な費用と資源を使っての開発が必要だ。
だから開発した国は多くの実験データを持っている。
これまでの世の中にないものを作るわけだから、失敗もあるだろう。
試行錯誤もたくさん必要だ。
それがデータとなって残るのだ。

しかし、日本にはそのデータがない。
すると、設計通りに動かす分には問題はないが、何か新しいことをしようとすると、歴史のなさが重大な支障になる。

あるメーカーの技術者によれば、他国から買った技術をもとに改良を加えようとすると、逆に改悪になる場合が多いのだそうだ。
それは設計意図がわからないから。
基礎的データを持っていないから。
そういうことがわからないと,改良もできないのだ。
生半可な知識で改変すると改悪になるのだ。

買って、それを枠内で使うだけ。
それでは誰にでもできることしかできない。
イノベーションなんてできっこないのだ。

###
技術とは、お金では買えない時間と、これまたお金では絶対に買えない経験とが積み重なって初めて結実するものなんです。
by多田将『すごい実験』イースト・プレス¥1600-、p53
###

そして、世界初、世界一のものを造るには、それを支える膨大な周辺技術が必要だ。
ぼくらの造ったコジェネ設備は、世界初、世界一では当然無い。
でも、スパコンを効率的かつ安定に動かすために、コジェネはどうあるべきか、真剣に考えた。
これまでに存在したいろんな技術を組み合わせ、やはりこれまでにはなかったコジェネ設備を造ってきたのだ。
そういう自負がぼくにはあるんだ。

2013年1月25日金曜日

まず覚え、しかる後に考えよ

昨日も仕事の合間に若い技術者君たちに電験三種の勉強を教える。
夕方設備監視室に顔を出したら、若いスタッフから問題の解き方を質問されたのだ。
ぼくもシニアエンジニアのはしくれ、電験三種程度の問題なら、質問されてすぐ解説ができる。
もちろん、我が設備に絡めて説明する。
そうして、自分が動かしている設備を「見られる」ようにするのだ。
知識のない者は「あれども見えず」だからね。

電験三種に限らないが、登竜門的な資格試験は覚えることがやたら多い。
なぜなら、考えるためには覚えていないとダメだからだ。
基本的なことを記憶していないのに、考えることなんかできない。
だって、脳はメモリーベイスドアーキテクチャ(記憶を基にした構造)だからね。
この程度のことを覚えられないくせに、シニアエンジニアになりたいなんておこがましいぜ。
そう資格試験は言っているのだよ。

もちろん丸暗記だけの人も困る。
公式丸暗記では解けない問題が出題される。
公式など基本的な知識を覚えさせた上で、それを応用したり組み合わせたりしないと解けない問題なんだ。
そうやって、丸暗記だけのヤツを排除するんだね。

丸暗記にも限度がある。
いろいろたくさんある多くのものをすべて個別に丸暗記することはできない。
技術者として臨機応変な対応ができなくなってしまう。
だから、基礎的なことは覚えた上で、それを応用、組み合わせできるようにする。
そう自らを鍛えられる者だけが、シニアエンジニアへの門をくぐることができるのだ。
どんな技術者が欲しいのか、資格試験には思想が埋め込まれている。

考えるとは、基礎的知識を基にしてそれらを転用したり組み合わせたりすることなんだ。
転用したり組み合わせたりするときに必要な技能が「計算力」。
計算が素早く正確にできないといけない。
といっても中学校で習う計算程度だけどね。
計算は「論理」と言ってもいいね。
考えるためには、知識と論理の二つが必要なんだ。

学校で習うことはすべて、知識と論理、その二つだったんだよ。

2013年1月24日木曜日

プロは二流の中から生まれる

言われたことを言われたとおりにしかできないヤツは、所詮二流だ。
だが、言われたことを言われたとおりにもできないヤツは、二流どころか三流にさえなれない。

個性的と自己流を混同するな。
自己流でうまくいくことなんか絶対にない。
乾麺だって書いてあるとおりのゆで時間でゆでるのが一番旨いのだ。
まずはレシピ通り、マニュアル通りにやってみよ。

個性的な人は、基準通り、マニュアル通りにもできるが、あえて異なることにチャレンジする。
だから、うまくいかない場合はすぐに基準通り、マニュアル通りに戻ることができる。
実害が少なくてすむ。
基準、マニュアルを知っているから、失敗したのはどこが悪かったのかも分かる。
何事も基準がないと判定、評価はできないのだ。
もちろんうまくいけばバンザイだ。
成功した理由も分かるので、次もうまくやれる。

実力のない人も、一見個性的なことをやる。
だがそれは、基準通り、マニュアル通りに実行する能力がないからだ。
気まぐれ、場当たりにすぎない。
時にそれがうまくいくこともあるが、偶然だ。長続きしない。
ほとんどの場合はうまくいかなく、それへの対処もできず、実害を与える。
さらに基準がないので、どこをどう間違ったのかも分からない。
失敗の経験を次に活かすこともできないのだ。
だから次も<超個性的>なことをやらかす。
困った存在。

ぼくはマニュアル主義者である。
スタッフたちにいつも口を酸っぱくして言う。
基準通りにやりなさい、マニュアル通りにやりなさい。
下手な工夫はしてはいけません。

一気に一流の人になろうなんて思っちゃいけない。
まずは二流を目指すんだ。
二流の上に一流は築かれる。

2013年1月23日水曜日

よい老人になるために

妬み、嫉みは人間の性だが、努力を辞めてしまった人間ほどひどくなる。

なぜ妬み、嫉みという感情を人間が普遍的に持っているかというと、それが向上心の元にもなり得るからである。
努力して向上すれば、生き残れる。
だから、妬み、嫉みは努力とペアにして有効性をはっきするのだ。
進化心理学はそう教える。

誰かを妬んだとしても、努力をしていれば多少なりとも向上するものだから、そ
いつに近づいていける実感を持てる。
それが自信へと繋がる。

ところが努力をやめてしまうと、妬んだやつとの差は永遠に縮まらず、相手は努力を続けているのでむしろ差は広がっていく。
劣等感にうちひしがれる。

努力を忘れた人に妬み、嫉みしか残らなくなるのはそういう理由である。
だから努力を辞めてしまった人間ほど,妬み、嫉みがひどくなってしまうのだ。
だから年を取るほどこういう輩が増えていく。

嫌なジジイにならないようにしたいものだ。

2013年1月22日火曜日

人事評価で遊べ

人事評価の季節だね。
おれは人事評価でも遊んじゃうよ。
どうせこれ以上出世もしないだろうし、したくもない。
悪い評価されたって、実害はほとんのどないのだからね。
怖いもんなしだ。

わが社の評価方法は、年度初めに決めた目標を達成したかどうかまず自己採点し、各項目について1~5点を付ける。
それを直属の上司が査定する方式だ。

おれは嫌な上司の時はわざと自己採点の点数をよくして提出する。
ほとんどオール5だ。
嫌な上司は当然おれを嫌っている。
オール5で出てきた採点表を見てムカつくはずだ。うひひ。

オール5なんて何を考えているんだアイツ、と思い、点数を切り下げていく上司。
すなわち悪い点数に変えていくわけだ。
そうすると、部下に悪い点数をつける自分は悪い奴、と思えてくるはず。
さらにむかつくはずだ。しめしめ。

しかもだな、オール5の点数をいくら切り下げても、オール1にはできまい。
点数を切り下げれば下げるほど、自分の悪さが際立ってくるように感じるはずだから。
せいぜい1点か2点、超ムカついても3点切り下げられる程度だろう。
結果としてまあまあの点数になるわけである。がはは。

逆に良い上司の時は3くらいの点数で提出する。
それを見たよい上司は、きっとおれのことを慎み深い謙虚なやつだと思うだろう。
もちろん誤解だけどね。うむ。

で、もうちょっといい点数にしてやろうと思うわけだ。
点数を上げれば上げるほど、自分が情け深い良い人間だと思えてくる。
もちろんこれも錯覚だ。ふふ。

部下の点数を上げれば上げるほど、気分は良くなってくる。
気分がいいので、つい甘く採点してしまうだろう。
結果として実態よりもいい評価になるって寸法。
良い上司をいい気分にさせ、おれのことも好いてもらい、かつ、よい評価を得られる。
めでたし、めでたし。

2013年1月17日木曜日

いじめに負けるな、勉強しろ!

美輪明宏さんのヨイトマケの歌。
昨年末の紅白歌合戦で聞いて感動しました。

貧乏だ、土方の子どもだと学校でいじめられた子が、耐えきれず学校を飛び出す。
そこでそのいじめの原因だったお母さんの働く姿を見る。
男たちに混じって一生懸命働いているお母さんを見る。
それで子どもは改心するわけです。
いじめなんかに負けちゃいけない。
学校はサボっちゃダメだ。
勉強しなくちゃダメだ。
勉強してちゃんとした大人になって、お母さんに楽させたい。
そしてその子は勉強して、高校、大学を卒業し、エンジニアとして立派に働くようになる。

泣けますねえ。

たぶん、この歌詞の中のお母さんも常々子どもに「勉強しろ」「勉強しなくちゃダメだ」と言っていたんだと思うんですよ。
自分の土方の仕事に誇りを持っていたでしょうが、それでも息子にはもっといい仕事に就いてもらいたいという想いがあったはずです。
いい仕事に就くには学問がいる。
だから勉強しなくちゃダメなんだって、口をすっぱくして言っていたはずです。

でも子どもですからその意味が実感として分からなかった。
勉強は面倒なことですから、やりたくない。
お母さんからうるさく言われると反撥もする。
でもお母さんの泥と汗にまみれた仕事ぶりを見て、やっと本質が分かったんですね。
勉強しなくちゃダメだって。
いじめなんかに負けちゃダメだって。

いじめとは「人間関係」です。
人間関係より大事なものがこの世にはある。
それは「学問」。
学問することによって人間関係を乗り越え、いじめに打ち勝てる。
なぜならいじめは<好き嫌い>、学問は<正邪>だからね。

こう言うと、人間関係なんかどうでもいいのか、と反論されるかもしれません。
いえいえ、違います。
人間関係にもレベルがあるんだと思うのです。

いじめは往々にして劣った子が標的にされます。
体力的に劣る子、学力的に劣る子。
自分より体力の勝る子をいじめることはしにくい。
だって逆にやられちゃうからね。
同じように、自分より勉強のできる子もいじめにくいのです。

歌詞の中の子も、ひ弱で勉強のできない子だったんでしょう。
だからいじめられた。
それを克服しなくちゃいけないとわかって、勉強するようになったのです。
勉強ができるようになるにつれ、いじめも消滅していったんだと思います。

勉強ができる子はある意味尊敬もされます。
つまりその子を認める人が多くなってくる。
学級の子どももそうでしょうし、先生もそうでしょう。
尊敬される子をいじめることはむずかしい。

いじめられている子は、実はいじめている子と同じ人間関係の中で生きているのです。
そこしか生きる場所がないからです。
とろが勉強できるようになると勉用仲間ができます。
他のコミュニティに入ることができる。
いじめの人間関係から抜け出し、邪悪な人間関係を断ち切ることができるのです。

和田秀樹さんは著書の中でこう言います。
「いじめにあったら、不登校してもいい、ひきこもりになってもいい。でも学校へ行くのと同じ以上の勉強はしなくちゃダメだ」。
不登校、ひきこもりは一時の<避難>にしか過ぎません。
それだけではいじめの輪を断ち切ることはできないのです。

人間はひとりでは生きていけません。
不登校の子も、引きこもりの子も、いずれはそこから脱して、どこかの人間関係の中に身を置いて生きていかねばならないのです。
だから勉強するんです。
勉強して学力が身につけば、同じような学力レベルの子の輪に入ることができます。
つまり、人間関係の再構築がしやすくなるのです。

いじめのない、共に尊敬し合える人たちの中で生きる。
それができればハッピーですよね。
それには勉強し、学問し、自分を高めていく必要があるんです。