2011年7月28日木曜日

嫌な仕事から逃れる技術


こんにちは

50歳を過ぎたら好きなことしかしない、と決めているぼくですが、やっぱり嫌なやりたくない仕事もあります。
やらざるを得ない。
でも好きなこと、やりたいことをやるためには、嫌な仕事、やりたくない仕事もほどほどにこなしていくしかありません。
こういう仕事は別にそれでいい評価をもらおうなんて思っちゃいないので、とにかく「片付ける」って意識でやっています。
短時間で合格ギリギリでもね。
これも好きなことを存分にやるための「儀式」だと思っているわけです。

森博嗣『工学部水柿助教授の日常』幻冬舎¥800-にこうありました。

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嫌いだ、苦手である、が故にそれらが押し寄せてくる。
その人の周囲に溜まってしまう。
そればかりが集まってしまう。
お心当たりはないだろうか?
どうして、私の周りにだけ、こんな嫌なことがいっぱいなの?という疑問に対す
る答えがここにある、と思う水柿君である。(157p)
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嫌だ、やりたくない、とそれを避けてばかりいると、嫌な仕事、やりたくない仕事がどんどんストックされていきます。
自分という資源は有限ですから、ストックされていくものが溜まるにも限度があります。
自分の中に嫌なもの、やりたくないことばかりが溜り、パンパンに膨れ上がってしまうのです。
これでは、好きなこと、やりたいことをやるだけの余裕が生まれません。

嫌なこと、やりたくない仕事は、たいてい誰にとってもそう。
他の人はそれでも、そういう仕事をちょっとずつでも片付け、好きなこと、やりたい仕事ができるようにちまちまと努力しているのです。
そのちまちました努力を見ずに、好きなことをやっている姿を見ると、「どうして自分ばかり嫌な仕事をしているんだろう」と思うようになるのです。

嫌なこと、やりたくないような仕事は、たいてい誰にとっても、会社全体にとってもそうなんです。
あまり価値はないけど、やらざるを得ないことなんです。
だから「こなす」ことが一番重要。
そこでよい仕事をしようと思わなくていい類のものなんです。
だって、価値はないんですから。

自分ばかり嫌な仕事、やりたくない仕事がやってくるとぼやいている人は、そこを考えて欲しい。
もしかすると、あまり価値のない仕事にも労力をかけすぎていないかどうか。
仕事というのはたいてい、これで終わり、という到達点はないのです。
だから続けようと思ったらいつまででも続いてしまう。
どこかで妥協して終わらせないと、終わらないものなんです。
仕事にあるのは、不合格範囲と合格範囲だけ。
合格範囲に入ったな、と思ったらそこで止めていい。
特に価値の低い仕事は、合格範囲に入ったら止めなくちゃいけないんです。

嫌な仕事から逃れるには、嫌な仕事から逃れてはいけないんです。
迎え撃つ。
バッサバッサと切り捨てる。
そして自分のやりたいこと、楽しい仕事、価値のある仕事にた~ぷり時間と心を傾けるんです。

2011年7月27日水曜日

フレンドリーな空間のつくり方


こんにちは

ぼくも多くのスタッフを抱える立場になりました。
スタッフたちにいかにゴキゲンに仕事をしてもらい、その能力を100%発揮してもらい、さらに腕を磨いて欲しいと思っているのです。

内田樹『最終講義』技術評論社¥1580-にこうありました。

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学会でも若い人を励ますようなコメントを聞く機会はまずないです。
権威者が、若い研究者をがみがみ叱り飛ばす。
でも、若い研究者が人前で喋ったら、だいたいボロを出すに決まっているんです。
いいじゃないですか。
みんなで「よし、頑張った!」と言って励ましてあげればいいのに。
学会がほんとうに研究共同体であれば、そうなるはずなんです。
気が遠くなるほど広大な研究対象が現に目の前に広がっているなら、みんんで手分けしてやるしかない。
「猫の手も借りたい」と思っていたら、若い人を叱り飛ばして、「もうやめちまえ」みたいなことを言うはずがない。
だから、査定して、格付けして、能力のない人間を追い出すということをやっている学会って、要するに「猫の手も借りたい」わけじゃない、ということですよね。
「人手は足りてます」ってことですよね。
それどころか、今いる研究者だけでも多すぎるってことですよね。
じゃあ、それって、「気が遠くなるほど広大な研究対象が目の前に広がって」はいないということでしょう。
自分が寝食を忘れて一生涯研究しても究め切れないかもしれないと思うからこそ、「後事を託す」ために若い研究者を育てるわけじゃないですか。
世代を超えた協力がなければ、絶対に果たせないほどの研究対象の奥行きと深みを実感していたら、研究共同体はフレンドリーな空間になるはずなんですよ。(286p)
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なるほど、なるほど。
学会、研究者について書いてありますが、そのまま職場、スタッフに読み替えることができますね。

職場でも若い人を励ますようなコメントを聞く機会はまずないです。
管理職が、若いスタッフをがみがみ叱り飛ばす。
でも、若いスタッフが新しい仕事をやれば、だいたいボロを出すに決まっているんです。
いいじゃないですか。
みんなで「よし、頑張った!」と言って励ましてあげればいいのに。
職場がほんとうに仕事共同体であれば、そうなるはずなんです。
気が遠くなるほど広大な仕事が現に目の前に広がっているなら、みんんで手分けしてやるしかない。
「猫の手も借りたい」と思っていたら、若い人を叱り飛ばして、「もうやめちまえ」みたいなことを言うはずがない。
だから、査定して、格付けして、能力のない人間を追い出すということをやっている職場って、要するに「猫の手も借りたい」わけじゃない、ということですよね。
「人手は足りてます」ってことですよね。
それどころか、今いる職員だけでも多すぎるってことですよね。
じゃあ、それって、「気が遠くなるほど広大な仕事が目の前に広がって」はいないということでしょう。
自分が寝食を忘れて一生涯仕事をしてもやり切れないかもしれないと思うからこそ、「後事を託す」ために若いスタッフを育てるわけじゃないですか。
世代を超えた協力がなければ、絶対に果たせないほどの仕事の奥行きと深みを実感していたら、職場はフレンドリーな空間になるはずなんですよ。

てな具合ですな。
意味もなく若いスタッフをガミガミ怒ってばかりいる管理職は、実はヒマなんですよ。
仕事を進めるために怒っているのではなく、「オレのほうが偉いんだ」って示したいだけ、それだけのために怒っている。
そんなくだらないことをしていても、仕事に支障はないということは、イコール暇なだけなんです。
その部署は廃止、あるいは縮小してしまえばいい。

同様に、学校、教師に読み替えてもいいですね。

教室でも生徒を励ますようなコメントを聞く機会はまずないです。
教師が、生徒をがみがみ叱り飛ばす。
でも、生徒は初めて学ぶんですから、だいたいボロを出すに決まっているんです。
いいじゃないですか。
みんなで「よし、頑張った!」と言って励ましてあげればいいのに。
学校がほんとうに学習共同体であれば、そうなるはずなんです。
気が遠くなるほど広大な教えるべき事柄が現に目の前に広がっているなら、がみがみ叱り飛ばしている時間なんかない。
しっかりと教えようと思っていたら、生徒を叱り飛ばして、「もうやめちまえ」みたいなことを言うはずがない。
だから、査定して、格付けして、能力のない人間を追い出すということをやっている学校って、要するに「教えたい」わけじゃない、ということですよね。
「教えることはない」ってことですよね。
それどころか、教える気なんかないってことですよね。
じゃあ、それって、「気が遠くなるほど膨大な教えるべき事柄が目の前に広がって」はいないということでしょう。
自分が寝食を忘れて一生涯勉強しても勉強し切れないかもしれないと思うからこそ、「後事を託す」ために生徒たちを育てるわけじゃないですか。
世代を超えた継続がなければ、絶対に社会の発展はないほどの学習すべき事柄の奥行きと深みを実感していたら、教室はフレンドリーな空間になるはずなんですよ。

いかがですか。

2011年7月25日月曜日

よい評価を与えられる教師こそよい教師である


こんにちは

1学期が終わりました。
溌貴君は初めての遠距離通学でしたが、1日も休みませんでした。
ずいぶんと体力も付きました。
としきくんもお休みは1日だけ、まずまず健康でしたね。

終業式、溌貴君はこれまた初めての通信簿をいただいてきました。
おお、いい成績です!
ほとんど全部が「とてもよい」ですからね。
スバラシイ!

溌貴君ももちろん素晴らしいと思いますが、先生も素晴らしいです。
よい成績を堂々と付けるだけの度量がありますからね。
あるいは、よい成績を付けても誰からも後ろ指さされないだけの豪腕さ。
だってねー、小学1年生に悪い成績を付けて、いいことなんか何もないからね。
子どもと親のやる気を奪うだけですから。

実力のない先生ほど、平気で悪い評価を付ける。
「だってこの子、ちっともできませんから」なーんて言う。
おいおい、できるようにならないのはあなたの教え方が悪いからだろう。
子どもの通信簿は教師の通信簿でもあるんです。
子どもに悪い評価を与えるということは、自らの教え方が悪かったと表明することでもあるんです。
だから、たとえ悪い評価を付けなければならないとしても、泣く泣く付ける。
オレが悪かった、オレのせいでこんな点数しか付けられなくてゴメン。
そのくらいの先生じゃないといけませんよ。

内田樹/成瀬雅春『身体で考える。』マキノ出版¥1400-から引用します。

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内田 レベルの低い先生というのは潰しにかかる傾向があるんですよね。
技量の低い先生は、弟子がすぐにできるようになるので、自分がすぐに追い越されてしまう。
そうなるのは困るわけです。
そのため、あれこれと厳しく指導したりする。
教えるほうは弟子の成長を願ってやっているのだという言い分があるのかもしれないけど、どんなに努力しても、「ダメだ、ダメだ」と言うばかりで、精神的に追い込む先生は多いですね。(121p)
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子どもは褒めて育てた方がいいんです。
ダメだダメだ、と言って育てれば、本物のダメ人間になります。
バカだバカだ、と言って育てれば、本物のバカになる。
人間とはそういうものなんです。

自信のない教師は狭量になりがちです。
自分よりかしこい子どもに嫉妬をする。
かしこい子にバカにされるのが恐いんですな。
だから、少しでも悪いところを見つけて、ダメだ、ダメだと言ってしまうんです。

だからよい教師ほど、子どものいいところを見つけて褒めます。
もちろんまだ子どもですから、できないこと、悪いところもあって当たり前。
悪いところを見つけて、指摘するのは誰でもできます。
悪いところは、よっぽど反社会的なことでない限り、見て見ぬふりすればいいんです。
悪いところは、いいとも悪いとも言わないで、無視するのが一番いい。
あえて悪いところは評価しない方がいいんですよ。

そしていいところだけ褒める。
悪いところだらけの子どもの、いいところを見つけるのが本物のプロ教師です。
そういうところを褒め続ける。
とんちんかんなほめ方はいけませんよ、当然。
事実に基づかないほめ方は、子どもに伝わりませんし、返って反感を買います。

実は子どもって、どういうところが自分のいいところなのか、自覚していないものなんです。
そういうところを見つけてやる。
ああここが自分のいいところなんだ、と気付かせてやる。
そうなると、子どもは自分のいいところを自ら育てるようになるんです。

褒められて嫌な気がする子どもはいません。
褒められればゴキゲンになります。
ゴキゲンであれば、自然にもっとよくなろうとします。
そうやって育てた子どもは、素晴らしい先生を超えて、さらに素晴らしい人間に育っていく。
生徒が自分より素晴らしい人物になることほど、教師冥利に尽きることはないはずです。
自分が追い越されるのが嫌、なんて狭く小さいプライドなんか要らないのです。
それが人を育てる教師の仕事なんだと思うのですよ。

いい先生に恵まれてよかったね。

2011年7月22日金曜日

教員採用に関する一試案


こんにちは

国家公務員試験を実施している人事院のホームページを見てみました。
http://www.jinji.go.jp/top.htm
これまでの試験枠、Ⅰ種、Ⅱ種、Ⅲ種という区分は来年からなくなるんですね。
その代わり、総合職、一般職という区分になる。
これまではごくわずかなⅠ種採用の人だけがキャリア官僚として偉くなっていく制度でした。
Ⅱ種、Ⅲ種の人は採用時点から偉くなれないのが分かっている、偉くなれないなら一生懸命働かない、という弊害もあった。
Ⅰ種の人にも、何もしなくても偉くなれるんだから一生懸命働かない、という人もいたのかもしれません。
なので総合職採用の人は誰もが偉くなる可能性があるってことにして、公務員全体としての効率を上げようってことですね。
なるほど、なるほど。
来年から試験制度が変わっても、総合職合格者は3年間の採用名簿登録という仕組みは残るようです。
よかった、よかった。

この制度、ぜひ教員採用試験でもやってほしいと思っています。
教員採用試験も合格即採用ではなく、名簿登録なんです。
この登録有効期限は1年間しかない。
これを3年間にしたらいいんじゃないか。
そうすれば、国家公務員と同じく研究者目指して修士課程に進学する人も、自分が研究者に向いていないと思って教職に就く人が増えると思うんですよ。

教育って、受ける側(子ども)と授ける側(大人)との間に、圧倒的な知識の落差があったほうが効果が高まるんです。
休み時間や放課後はフレンドリーに友だちのような先生でもいいけど、授業中は「この先生にはかなわない」と生徒に思わせる。
そのくらいの迫力がある先生のほうが、生徒も習う気になるもんなのです。
友だちのような先生もいいんですが、授業における圧倒的な知識の落差がないと、やがては生徒からばかにされてしまうのです。
誰もバカから学ぼうとはしません。
授業が崩壊するメカニズムは、先生が生徒にばかにされているからなんですよ。

おまけに親。
親も教師をばかにし始めている。モンスターペアレンツですね。
親のほうも「先生ったってたいした学歴もないじゃないか」って思っている。
もしかすると「この先生より自分のほうがうまく教えられる」と思っていたりして。
事実、授業参観に行っても、パッとしない授業をしているし、子どもたちも真面目に授業を受けていない。
これじゃだめだ、塾に通わせなくちゃ、なんてね。

だからぼくは、学校の先生も修士卒くらいの人のほうがいいんじゃないかって思うんです。
2年間集中して研究をした経験を持つ。
それも先端的な学問をやった経験。
そういう先生なら、教職についても論文誌を購読し、読み続けるでしょう。
先端の研究をフォローし、楽しめるだけの学力が身についていますから。
自分の研究も継続して、学会発表なんかもし続けるかもしれませんね。
研究への情熱を少しでも持ち続ける。
それが子どもへ伝わるんだと思います。

都道府県教育委員会のみなさん。
教員採用試験でも3年間の登録留保って制度、やってくれませんか。

2011年7月21日木曜日

キャリア官僚の採用試験


こんにちは

空調学会から連絡がありました。
9月の全国大会の全体会で、学会賞を受賞したSACLAについて講演してほしいって。
おお!嬉しいですねー。光栄です!
がんばろっと。

ぼくの今の夢は、今の職場を卒業するまでに学位「博士号」を取ること。
以前は教育学で博士を取ろうと思っていましたが、いろいろ調べてみると非常にハードルが高い。
ぼくの理科教育での大先輩も学位を得ようとしばらく大学に通っていましたが、果たせないでいるようです。
教育学だけでなく、文系の学位は取るのが大変のようです。
エジプトピラミッド探検で有名な考古学者吉村作治さんも、考古学(文学部に所属)ではなく、工学博士です。
吉村さんは考古学博士号も持ってはいますが、ジョークでディプロミル(お金で買える学位)だそうです。

で、狙いはやっぱり工学での博士号です。
これならなんとか取れそうな気がしています。
今のぼくの直属の上司は工学博士で、大学の特任教授も兼務しています。
非常なる変わり者ですが、とても楽しげにあちこち飛び回っています。
上司から学位をどうやって取ったのかを教えてもらいました。
仕事をしながら博士課程に入学し、土日はフルに大学に通い、3年間で学位を取ってしまったとのこと。
すごいですねー、さすが我が上司、変わり者面目躍如!
身近にロールモデルとなる人がいるってのも心強いです。アドバイスもらえますしね。
ぼくもやれそうな気がしてきましたよー。

学位を取るには、大学院に入学して取る方法と、論文を学位授与機構に提出して取る方法とがあります。
社会人はこれまで論文で取る論文博士が一般的でした。
でも最近は論文博士のハードルが高くなっていて、一筋縄では難しいようなんです。
論文博士でもちゃんと指導してくれる大学の先生を見つけて取り組まないと無理なようです。
大学院に入学して取る課程博士の方が一般的だし、学位を取るまでの年限もある程度はっきりしている。

ぼくは工学系の教育を受けていないので、修士から始めなくちゃならないかなと思いました。
webで調べてみると、工学系博士課程の入学資格に「修士同等の能力を持つ者」とあり、その例として特許取得、学会発表、学会誌に主著者として論文掲載などがありました。
これならぼくも直接博士課程に入学できそうです。
ここ数年、電気設備学会、空調学会、加速器学会で研究発表してきましたし、いくつかの賞もいただいていますし、資格十分でしょ!
ますますやれそうな気がしてきましたよー。
何事も、やれると思ったらできる、無理だと思ったら無理なんです。

ところで、スパコンやXFELの仕事をするようになってから、キャリア官僚の人たちと仕事をする機会が多くなりました。
旧科学技術庁系の官僚の人たちですね。
この方たち、理学系や工学系の修士卒がとても多いんです。
どうしてなのかなーって思って、調べてみました。

キャリア官僚の採用は、人事院の実施するⅠ種国家公務員試験によります。
国家公務員採用試験は、試験に受かっても即採用ではありません。
人事院は合格者を、登録名簿に載せるだけなんです。
名簿に登録されてから、各人が行きたい省庁を訪問し、面談したりしていく。
各省庁も名簿からめぼしい人材を見つけて、採用していく。

で、Ⅰ種公務員試験の名簿登録の期間は3年間なんです。
国家公務員試験に合格すれば、3年間はその合格実績がキープされるんですね。
で、修士卒の官僚はほぼこの制度を利用しているそうなんです。

大学院は当然ながら研究者を養成する場所です。
でも大学院修士課程に入学する大学4年生の段階で、自分が研究者に向いているかどうかははっきりしていない。
自分が研究者に向いているかどうかは、修士課程でがむしゃらに研究をしてみて初めて分かってくるものです。
でも修士課程はたったの2年間。
もし研究者に向いていないとしたら就職しないとなりませんが、就職活動する時間が必要です。
就職活動なんかしていたら、2年間のうち1年間は研究に没頭できなくなります。
すると自分が研究者に向いているかどうか、はっきりわからなくなってしまうのです。

修士課程2年間、がむしゃらに研究に専念するにはどうしたらいいでしょうか。
学部4年生の時にⅠ種公務員試験に合格しておく。
そして修士課程2年間、採用を保留してもらうよう申請しておくのです。
こうして2年間研究に没頭できる条件を整えるんですね。
2年間やるだけやって、研究者としてやっていけそうだと思えたら、登録名簿から抹消してもらい、博士課程に進めばいい。
無理そうだったら、公務員になればいい。

なかなかいい制度ですよね。
たとえ研究者に向いていない人でも、2年間研究に集中した経験を持つ人材なら、役人としても能力を発揮できる可能性が高いです。
採用する側、採用される側、双方にとってメリットのある制度だと思います。

実はぼくも大学生の時、研究者になろうかどうか迷った時期があります。
当時の指導教官にも「関口君は研究者に向いているかもよ」と言っていただいたこともありました。
でも踏ん切れなかったんですよ。
ぼくは教員養成系大学に通っていたので、国家公務員になる級友、先輩もおらず、こういう情報がなかったんです。
そのとき、この公務員試験の制度を知っていたら、人生違っていたかもしれません。
まーもっとも、Ⅰ種公務員試験に合格できるかどうか定かではなかったわけですがねー。

2011年7月19日火曜日

人生のプロ


こんにちは

我が子たちに「自らを限る者」になってほしくありません。
やるからにはトコトンやって、一流を目指してほしい。
もちろん一流にはなれないかもしれないけれど、それに近づくことはできる。
最初から二流でいいや、と思っていると二流にさえなれないんです。

ぼく自身、子どもの頃、若い頃は「自らを限る者」だったように思います。
ぼくの能力ではこのくらいかな、って限界を自分で作っていた。
ほどほどならいいやって。
だから努力の仕方もほどほど、結果としてほどほどの人物にもなれなかった。
ちょっと損しちゃったなー。

最近はあまり限ってませんよ。
50を過ぎたら好きなことしかしない、ですからー。
やってみると、おっ、オレこんなこともできちゃうんだー、って思うこと度々だもん。
あはははは。

内田樹/成瀬雅春『身体で考える。』マキノ出版¥1400-にこうありました。

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内田 やる以上は名人・達人になりたいと思って稽古しなくちゃ意味が無い。
「自分みたいな運動神経のない人間はうまくなりようがない」とか、「忙しいサラリーマンで、週に一回しか稽古できないんだから、せいぜいこの程度」というようなことを自分で言っていると、自分で自分の限界を作ってしまう。
可能性の芽を自分で摘んでしまう。(42p)
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最初に「言い訳」をしちゃうとダメなんですよね。
ネガティブ要因をたくさんカウントして、それでやっぱりやれない、ってやる前に決めちゃう。
それよりも、ポジティブなことを少しでもたくさんカウントする。
おおっ、ここまでできそうだ!って思って取り組んだ方がいいんです。
内田さんはこうも言います。

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内田 「自分みたいに才能のない人間は、うまくなるはずがないと思います」という言葉をいったん口にしてしまうと、自分が言った言葉そのものに自分が呪縛されてしまう。
「自分はうまくなるはずがない」という未来予測が正しかったことを「絶対にうまくならない」ことによって身をもって証明してしまおうとする。
これ、証明するの簡単ですからね(笑)。間違った稽古をすればいい。
先生が「やりなさい」と言ったことをやらないで、「やってはいけません」と言ったことをやる。
ほんとうにそうなんですよ。(42p)
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ネガティブなことを言うと、自分で自分の言葉に絡め取られちゃうんですよね。
だからそんなことを言ってはいけないんです。
ポジティブなことを言う。
そうすると行動もポジティブになる。
うまく行く確率が上がるんです。

もちろんそれでもうまく行かない場合もありますよ。
運もありますしね。
それでもポジティブにしていれば、確実に勝率は上がるんです。
ネガティブな人は、1回でもうまく行かないと、ほらやっぱりダメだった、ってあきらめちゃう。
あきらめ早すぎ。
ポジティブな人はしぶといですよー。
何回かうまく行かなくてもあまりめげない。
うまく行かない要因を調べて、リトライする、あるいは別のことにチャレンジする。

だってね、プロの野球選手だって毎回ヒットを打つことなんかないじゃないですか。
打率3割なら大打者ですよね。
それは7割は打ててないってことです。
人生だって3割くらい思い通りになったなら、それはすごいことなんですよ。
人生の3割打者、すなわちプロ中のプロってことですから。

我が子たちにもそうなってほしいですねー。
もちろんぼく自身の生き方でも示していきたいと思います。

2011年7月18日月曜日

自らを限るなかれ


こんにちは

溌貴君は学校で足し算を習い始めました。
家でも少し練習しています。
ちゃんと指を使って計算しています。
どこで習ったのかなと思って、溌貴君の学校のホームページを見てみました。
1年生の算数の時間の様子が写真に写っていて、ほとんどの子が指を使っているようなんです。
スバラシイですねー。

やっぱり計算の基本は「指」なんです。
10進数を人間が採用したのは、たまたま指が10本だったからです。
数を認識し始めた大昔の人類も、指を使って計算していたに違いない。
個体発生は系統発生を繰り返すわけですから、計算を習い始めの子どもは、きちんと指を使って計算した方がいいんです。
このとき、格好悪いからって指を使わせないでいると、計算力が伸びません。
存分に指を使わせていれば、半年もすれば卒業して、指を使わなくても計算できるようになっちゃうんですから。
それは脳の中に指が10本刻まれたってことですね。

内田樹/成瀬雅春『身体で考える。』マキノ出版¥1400-を読んでいたら、こう書いてありました。

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内田 僕は長年、教師として教壇に立ってきたので、学校という枠の中での話になるんですけれども、伸びる子供というのは、自分で自分の限界を作らないんです。
伸びる、伸びないの違いには、もともとの学力や才能はあまり関係ないんです。
「自分はここまでの人間だ」と思っていればそこで止まるし、自分の可能性に関して、どこまでが可能性かよくわからないと思っている人は素質が爆発的に開花する可能性がある。
自分の成長に制約をつけるかどうか、そのマインド・セットの違いによって、そのあとの進む道が全然違ってくる。(27p)
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孔子様が言ったように、なんじ限る事なかれ、ですね。
野口悠紀雄さんも、自分は才能があると思っている人ほど才能を発揮できる、と言っています。
たとえ錯覚でも、自分はできる、と思った方がいいんですよ。
特に伸びしろの大きい子どもには、自分はできるんだ、という意識を持たせた方がいいんです。

計算でも、指を使ったって計算ができた方が、自分はできるんだという意識が定着するんです。
指を使わせないで、なかなか計算に上達できなければ、自分は算数が得意じゃない、と早々と思い込んでしまう。
自分はできると思っていれば、どんどんトライしますから、結果的にたくさん勉強するようになります。
できないと思っていたら、心は萎縮してしまい、練習量も少なくなります。

実を言うと、高校くらいまでに習う基礎的な勉強って、あまり頭の善し悪しには関係ないんです。
どちらかというと、どれだけ大量に勉強したかどうかなんですよ。
自分はできると思っている子は、自然と大量に勉強しちゃうんです。
だって、どんどん解けて、どんどん先へ進めば楽しいですからね。
だから勉強がよくできる。

そして、自信が着くといい意味でのプライドもできてきます。
ぼくならこんな問題だって解けるはずだって。
算数、数学の難問も、自分は解けると思っていれば必ず解けちゃうんです。
自分には解けないと思っていれば、解き始めさえしないから、解けないのは当然です。

指を使った計算をたっぷりやったあと、算数の次のステップは、「絵を描くこと」です。
文章題を読んで、それを絵に描いてみる。
算数のできない子は、文章題の問題を読んでいきなり式を書いてしまう。
問題文の中にある数字をやみくもに、あるいは機械的に前から順に、式に当てはめてしまう。
だから解けない。
式を書く前に絵を描くんです。
絵を描くと量関係がはっきり目に見えます。
量関係が分かれば、間違えずに立式できるわけです。

算数、数学は文系に進むにせよ理系に進むにせよ、しっかり身に着けると有利です。
我が子たちも、自分は算数が得意なんだ、という錯覚を持ってもらいたいですね。
それで結果的に大量に勉強ちゃう。
大量に勉強すれば得意になっちゃうんですから。


はっちゃんの学校で盆踊りが開催されました。
盆踊りの基本は見よう見まね。
自分はうまく踊れないから、と躊躇しているといつまでも踊れない。
楽しく踊っているうちに、踊れるようになるんです。