2010年8月31日火曜日

バカスキャンのススメ

こんにちは

「バカになれる男が勝つ」と言っても、本当のバカでは困りますよ。
”なれる”と言うところがミソで、時にはバカになってもやるべきことをやる勇気と技術が必要だ、ということです。
年がら年中バカではいけないんです。
それはバカに”なれる”のではなく、ただのバカってことですからね。

悪口を言う人がいます。
誰が悪い、あいつが悪い、こいつもヒドイ。
さっき悪口を言っていたその本人に、今度は他の人の悪口を言ったりしていてね。
するってーと何かい、君の周りは悪人だらけなのかい?
そう聞きたくなっちゃいます。

始末書が好きなおじさんがいます。
あの業者が下手こいた、それ始末書だ。
この業者がまた下手こいた、始末書を書け。
なぜかそのおじさんばかり始末書が貯まっていきます。
どうしておじさんの関係する業者さんは不始末ばかり起こすのかなー。

内田樹『ためらいの倫理学』冬弓舎\2000-にこうありました。

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私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。
そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。(17p)
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みんなの悪口を言い、みんなを悪者にしたい人は、自分は間違っていないと信じているんでしょう。
周りの人みーんな悪人で、自分だけが正しい。
そんなことってあるのでしょうか。
端から見れば、悪いのはお前じゃん、でしょう。

始末書を取りたがるおじさんは、失敗したのは自分ではないと思いこんでいるんでしょう。
失敗するのは業者さんで、なぜかオレが担当するとトラブルばかりだ、運が悪い。
そんなことってあるのでしょうか。
端から見れば、失敗の根本原因はおじさんなんじゃん、でしょう。

内田さんはこうも言います。

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私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。
自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることがで
きているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。
自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。(32p)
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つまり、バカな人ほど自分はバカじゃない、間違っていない、正しいんだと思っているんですよね。
あ~、恐。。。

自分の行動パターンが変わらなければ、対人関係も変わりません。
ある人とつきあって上手く行かなかったとき、それは相手が悪いからだと思ってしまえば、自分は変わるわけがありません。
行動パターンが変わらないから、新たな人間関係においてもまた上手く行かないのは当然。
上手く行かないのは他人のせいだと思っていますから、その人の悪口を言うことになる。
相変わらず自分は間違っていないと思い込んでいるから、また次の新たな人間関係も上手く行かない。
そしてまた悪口を言う。
悪口ばっかりの人はその悪循環にはまっているんですよ。

始末書おじさんも同じですね。
確かにトラブルを実際に起こしたのは業者さんです。
でも自分にも何かその原因があったのではないかと反省するかどうか。
たとえば指示が悪かったとかね。
自分への反省がなく、100%悪いのは業者さんだと思ってしまえば、自分は変わりません。
当然のように、別の業者さんに対しても、指示が悪いまま仕事をしてしまう。
よってまたトラブルが発生する。
悪循環です。

逆説的だけど、頭のよい人っていうのは、もしかしたら自分はバカかもしれない、間違っているかもしれないと常に考えている人なんです。
いつも自分のバカモードをスキャンして、バカなところを発見したらデバグしている。
だからますます頭がよくなるってわけです。
有能は人は「反省の塊」なんですよ。
反省し、改善するから、変わっていける。

バカな人は、自分が正しいと思っているから、デバグされることがない。
その結果、ずっとバカのままに留まってしまうのです。
反省しないからね。

反省とは、決して謝ったり、懺悔したりすることじゃないんです。
謝ったり、懺悔したりしてお終いにしちゃいけない。
自分を変えていくことが本当の反省なんですよ。
それには常に自分のバカモードをスキャンすること。
バカモードを発見したら、即デバグすることなんです。

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