2012年2月28日火曜日

知識は風船のごとく


こんにちは

  傲慢の7割は無知にもたらされる。

宋文洲氏はそう言う。
(ちなみに、残り3割は成功によってもたらされる。)
確かに、傲慢な人は不勉強なのである。
不勉強なのに、自分は何でも知っている、とでも思っているかのようである。
そして、自分の知らないことは全て否定するのである。

自分の知らないことを話す奴は悪。
自分が理解出来ないのは、説明が悪いから。
そういう輩がけっこう権力を持っていたりするので、やっかいだ。
何を説明しても、わからん、というからね。
でもその人にイエスと言ってもらわないと先に進めない場合が多々ある。

イエスと言ってもらうために、その人の頭の中と程度をなんとか想像し、その人が理解できそうな言葉、理解できそうな論理で説明しなければならない。
すると本来やるべきことが、その過程でどんどんとねじ曲がっていってしまうのだ。
イエスと言ってもらった段階で、非常に矮小化してしまうことがしばしばなのである。
狭い知識、狭い経験、狭い論理の枠内に押し込まれるからだ。

もちろん、分かりやすい説明は大切だ。
でも、分かりにくい、分からないからダメなものだと安直に否定してしまうのも、どうかと思う。
分かろうとする態度がないのだ。
それで「良きこと」ができるのだろうか。

学力は、好奇心×知識、である。
学力の不足している人ほど、好奇心も少ない。
好奇心がなければ、自ら理解したいと思えないのだ。
知識が少ない場合も、理解できる範囲が狭まる。
ならば傲慢になるのも必然である。

それに対して、学力が高い人に謙虚な人が多い。
それはなぜか。知識はしばしば「風船」に例えられる。
世の中のすべての事象は広々とした空間に漂っている。
その中に個々人は風船を浮かべていて、風船の中に知識や経験を詰め込んでいっている。
すなわち、風船の表面が既知と未知の境界面となっている。

学力の足りない人の持つ風船は小さい。
だから、未知と接する面積が小さい。
つまりは、自分が知らないことはあまりない、という認識になってしまうのだ。

ところが知識と経験が増えてくるにつれ風船は膨らみ、未知の領域が既知へと入ってくる。
すると、未知と接する表面積は拡大していくのだ。
逆説的ではあるが、知識が増えれば増えるほど知らないことが多くなってくるわけである。

それは自分を謙虚にさせる。
自分にはまだまだ知らないことがある、この世の中にはたくさん知らないことがあるのだ、という認識が生まれる。
そして、その未知を既知に変えるための努力を怠らないようになるのである。

少年期の子どもは意外と質問などしないものだ。
幼児期は盛んに、これなあに、どうしてと聞きまくるのだが、小学校高学年くらいになると、そういう無方向、無限定な質問はしなくなる。
子どもが質問しなくなるのは、幼児期のあれなに、これなにに十分付き合ってやらないからだ、という説もある。

が、ぼくはそうは思わない。
幼児期にあれなに、これなにに十分対応したとしても、少年期になると質問しなくなるのは自然なことだと思っている。
それは、子どもの知識の風船はまだ小さいからである。
知識の風船が小さいので、まともに質問ができないのである。

だから子どもにはきちんとした知識を注入してやる必要があるのだ。
知識なしに好奇心は生まれない。
知識が風船の中に充満し、好奇心がみなぎってくると、どんどん質問できるようになるのだ。

ぼくはプロとアマを区別する方法として、質問ができるかどうかを用いている。
プロは何でも知っていて質問などしないと思ったら大違い。
ホンモノのプロほどよく質問するするものなのだ。

風船の境界面が広がってくると、いろいろな部分で未知と接してくる。
その未知と接した既知も多くなってくるわけである。
未知を既知に取り込むチャンスが増えてくる。
未知を既知に取り込む原動力が好奇心なのであり、その方法が質問なのである。

自分の好きな勉強を3000時間こなすと、周りの人たちにもそれがなんとなく伝わっていく、と書いた。
それは質問ができるようになるからである。
的確な質問ができるかどうかが、その仕事をうまくこなせるかどうかの試金石になるのだ。

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