2009年5月10日日曜日

お受験コトハジメ

こんにちは

今日、池袋西武百貨店で「私立小学校フェア」というのが開催されているっていうんで、晶ちゃんと二人で行ってみました。
とりあえず、我が家から通学可能な学校の資料をもらおうってことで。

会場に着くと、スーツ姿のご両親に連れられた、これまたスーツ姿のお子さま。
全くの普段着、ぼくなんかいつもの首タオルで行ってしまったぼくらは、ちょっと焦りましたよー。
会場入り口には、各校の制服の展示に引き続き、西武百貨店のお受験ルックコーナー。
お母様向けのスーツの展示の前で、晶ちゃんの目がキラリと光りました。
ひぇ~。

あるお受験塾が主催だったので、お子さま向けの教材コーナーもあったり、その教材の体験コーナーもあったり。
お受験クラスもあった進学塾の勤務経験があり、小学校受験はお受験塾に行って対策しても合否にはほとんど関係ないとわかっていても、こういう雰囲気に絡め取られちゃいそうでしたよ。

子どもはかわいければ受かるんです。
礼儀正しくて活発で快活であればね。
子どもはそうなんですが、親の方はちゃんとしてなくちゃならないらしい。
藤原和博他『笑える子ども。』ぴあ¥800-で、小山泰生(幼児教育者、小学校受験コンサルタント)さんはこう言っています。

  親の振る舞いにも「ほどほど」というのがやっぱりありまして、
  それぐらい名門の小学校になりますと面接がウルサイ(重要視される)んですが、
  その面接は変な親を取らないためにやってるんですね。
  変な親っていうのは何かっていうと、しょっちゅうやってきていろいろ学校に
  文句を言うような親は変な親ですから、「ほどほど」がわかっていない親なんですね。(23p)

  慶応幼稚舎なんか2000人も受けるというばかげた話になる。
  10倍を超えるという、15倍とかって15人に1人しか受からないわけですから、
  子どもにいくつかの質問をした程度で優劣を正確に選べるわけがないので、
  なら親を選ぶ方が早いという話です。(24p)

まー、子どもはまだ幼児ですからね。
未知数な部分が多いわけです。
数時間の試験時間だけで、その子の実力がすぐ分かるわけがない。
そもそも幼児はまだ実力なんか開発されていないのです。

なら、親を見た方が即分かっちゃうんです。
この親に育てられている子なら大丈夫だろう、とか、ダメじゃんとか。
そしてその一番の観点は「ほどほど」が分かっているかどうか。

一流私立だって完璧ではありません。
文句を言いたいことだってあるかもしれません。
でもそこで「モンスターペアレンツ」になってしまうような親じゃダメなんです。
自分の主張ばかり強行に言いつのると、反って教育効果を下げてしまうのです。
その子自身ばかりだけじゃなく、クラスメイトたちの教育効果も下げる。
そこが分かる親じゃなくちゃ、その子を入学させるわけにはいかないわけです。

「ほどほど」が分かる親かどうか。加減を知っている人間かどうか。
そういう親の子であれば、子どもだってそうなんですから。
それはお受験塾では対策できないことです。
普段からの「生き方」なんですよねー。
そういうのって、10分くらいの親の面接で分かっちゃうんですよねー。

何校かの資料をいただいてきました。
志望校を決めたら、この学校に子どもを通わせるにふさわしい親となるよう、ぼくも晶ちゃんも精進していこうと思いました。
それがお受験対策になるんだと思っています。

2009年5月9日土曜日

ペンは力なり

こんにちは

ぼくは毎朝のようにごみメールを書いていますが、仕事でも議事録を書いたりすることが好きです。
チャンスがあれば率先して書かせてもらっています。
それは、文章を書くのが好きだからというわけじゃなく、議事録を書くってことは力、パワーでもあると考えているからです。

議事録だって打ち合わせたことすべてを網羅して書くことは不可能です。
またすべてを書けたとしても、どうでもいい不必要な話もそこにはあって、記録として煩雑になってしまう。
だから必ず取捨選択が必要になるわけです。

その取捨選択の権利は、先ず議事録を書く人間に与えられるのです。
これは有利ですよー。
自分にとって都合のいい話はしっかりと書き、都合の悪い話はさらっと書くことだってできる。
もちろんウソにならない範囲でですがね。

なぜ議事録を書くかといえば、後々の利害関係のトラブルをなくすためです。
トラブルはたいてい「言った、言わない」だったりします。
口約束ほどあてにならないものはないですからね。
だから打ち合わせた内容を文書にして、お互い確認しておくわけです。
その時、議事録を書く側にイニシャティブがあるんですよ。
書くのが面倒なんて言っている人は、ビジネスに負けちゃいますぞ。

議事録のうちもっとも利害に関係するものは、「契約書」です。
ぼくも昔、契約書を作るのは業者さんの方、と思っていました。
契約書を作るのは技術と経験が必要だから、普通の人には作れないものです。
そもそも面倒くさい。
で、一般人は業者さんの作る契約書にそのままはんこを押してしまうのが普通でしょう。
でもそれは恐ろしいことでもあるんですよ。

ぼくの今勤めている理研は、国の出先機関みたいなところです。
何かを購入したり、工事を発注するときは、当然ながら業者さんと契約書を取り交わします。
で、理研に就職したばかりの時、ビックリしたんです。
業者さんではなく、理研側が契約書を作成しているんです。
発注者つまり、客の方が契約書を作るなんてめんどうな作業をしているわけです。
そんなの業者さんにやらせればいいのに、と思いました。

なぜわざわざ面倒なことをしているのか。
ぼく自身、仕事の中で契約書(設計図や仕様書)を作成しているうちに、分かりました。

もちろん契約専門の部署があって、技術と経験もあるからだということもあるでしょう。
でも何より、自分にとって「有利にコトを進められる」ってことが、発注者側が契約書を作る一番の理由なんだと分かりました。
相手任せの契約書では、損してしまうことだってありますからね。
そう考えると、やっぱり「書く側」がイニシャティブを握れることが、世の中多いって分かります。

森信三『新たなる人間の学』実践人の家\1800-にこうありました。

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文章が書けて、自分の考えを自由に発表できると言うことは、将来自分の道を開いてゆく上で、ひじょうに有力な一つの武器となる。(49p)
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ぼくは私生活でもそのことを意識しています。
自分の家を建てたとき、契約書自体は工務店さんが作ったものを使いました。
でも、それをざっと読んだだけでハンコを押すなんて、恐くてとてもできませんでした。数千万円の人生最大の買い物をするんですから。
契約書内容を吟味するために、一度全文を書き写して自分にとって不利な記載がないかどうかチェックしたんです。
書き写すと考えます。記憶にも残ります。
施工中も契約書の記載事項を思い出して、その範囲で施工者に必要な要求もしていけたと思います。
おかげでお金をかけた甲斐のある、いい家が建ちました。
ペンは力なり、なんですよねー。

2009年5月8日金曜日

余計にやるから暇になる

こんにちは

ぼくの仕事メールに「当選のお知らせ」なんてタイトルのメールが届きました。
わ、何が当たったんだろう!とワクワクしながら本文を読んだら、

 お仕事中失礼致します。
 本日、共済会選挙の開票を行った結果、皆様が当選されましたので、
 ご連絡申し上げます。
 お忙しいとは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

だって。
今度は職場の共済会の幹事に選ばれちゃいましたー。
当選してもあんまり嬉しくない!!
あはははは。
ま、これも職場の皆さんのため、もちろんぼく自身のためです。
ベストエフォートでやっていきたいと思います。

成功哲学の祖とも言わるナポレオン・ヒルは、成功のためには

 「目標の明確化」
 「余計に仕事をする習慣」
 「絶対にやる、絶対にできるという信念」

という三原則がある、と言っています。
確かに。
ぼくにとって特に重要なのは、二番目の「余計に仕事をする習慣」ですな。
だって、余計に仕事をすると反って余裕が生まれるんですよ。

勝間和代『年収10倍アップ時間投資法』ディスカバー\1500-にこんなことが書いてありました。

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さらに注意したいのは、上司は「どうせ全部はやらないのだから」という発想で、部下にはちょっと多めに仕事を出すということです。
つまり上司は、百二十、百三十頼んでおいて、百十くらいできればいいと考えるものなのです。(12p)
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うーん、思い当たるところありますねー。
デキナイ人に限って、とても忙しそう。
それはなぜか。

デキナイ部下に仕事を頼むとき、「歩留まり」を多めに見込むってことです。
実質的に必要な仕事量を終わらせてもらうために、多めに仕事を与える。
実質的な期日に間に合わせるために、締め切りを早めに設定する。

で、このデキナイ部下は上司からの指示をひーこら言ってこなす。
残業もたくさんしなければ追いつきません。
その結果、指示された期日に、指示された仕事量は終わらない。
当然上司から叱られます。
「まったくお前はダメだな!」なんて。

実は必要な仕事はそれでも完成していたりします。
上司は「やっぱりアイツには多めにやらせておいて正解だったな」なーんて、ほくそ笑んでいたり。
むちゃくちゃ働かされた結果、叱られて、無能呼ばわりされて、とっても損ですよね。

逆に、いつもちょっぴり余計に仕事をする部下ならどうでしょうか。
上司はその部下ならちゃんと必要量の仕事を期日までに仕上げてくれることが分かっています。
安心しているわけですね。
それなら変に歩留まりを見込む必要はない。
必要量の仕事を必要な期日で指示するわけです。

よって部下は余裕を持ってその仕事に取りかかることができる。
上司から無理させられることが少なくなります。
残業もそれほどしなくて済むでしょうし、叱られることはない。
余裕がでるので、またちょびっとオマケして余計に仕事をすることだってできる。
ますます信用されることになるわけです。

勝間さんも言っています。

 このとき、百三十頼まれないようにするためにも、
 断れるだけの実績を上げることが必要になってきます。(同12p)

いつもちょっぴり余計に仕事をする習慣があれば、上司だってそれに配慮してくれるようになります。
無理な仕事は頼まなくなりますし、きちんとした理由があれば断っても納得してくれます。
余計に仕事をする習慣があるから、時間的にも精神的にも余裕が生まれるんだと思っています。

2009年5月5日火曜日

楽しく学び続けること

こんにちは

ぼくは若い頃、中学受験のための進学塾で数年働いていたことがあります。
そのとき感じたのが、子どもに勉強させることばかりに熱心な親が多いな、ということ。
でも親自身はそれほど勉強していないし、勉強が好きでもない。
なのに高いお金を払って子どもの尻を叩いて勉強させている。
それだと子どもは勉強する気にならないんじゃないかって思ったのです。
やらされる勉強はとても効率悪いんです。

松村暢史さんの本によると、東大現役合格者の上位10%の学生の家庭は、

  親が読書をよくし、
  文章を自由に書き、
  しかも自己判断することの大切さを教え、
  そのうえ芸術などの情操教育の大切さを熟知している人たちであることなのです。
  (『中学入試国語選択問題ウラのウラ』25p)

なんだそうです。

東大など一流学校の上位10%の学生はやっぱりすごいですよ。
無理な受験勉強なんかしてこなかった。
余裕がある。
無理してなくて余裕があるから、大学に入ってもきちんと勉強します。
それも楽しくね。
だって、勉強の重要性も快楽性も分かっているんだから。
幼い頃から家庭の中で、それを実感しながら育ってきたんですから。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にこうありました。

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子どもは「気分がいいこと」には敏感に反応する。
それが子どもたちのそれまでの「気分がいいこと」のリストに登録されていない種類の快感であっても、子どもたちは「気分がいいこと」にはすぐに反応する。
教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。
教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。
教育の本義は「子どもの欲望」を起動させることである。(150p)
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教育というと、「子どもに勉強させること」と誤解している人が多すぎです。
それでは子どもは本当に勉強好きにはならないと思うのです。
親や教師も楽しく学んでいる。
その雰囲気が子どもに伝わり、子どもも自ら勉強するようになるんだと思います。

教育とはインタラクトなんです。
双方向にいい影響を与え合うものなんです。
その「タネ」さえ植え付けられれば、子どもは自然と育っていく。
そう思って、ぼくも本をよく読み、文章も下手ながら書き続け、自分で判断することを心がけているつもりです。
あと足りないのは、芸術かなー。。。

2009年5月3日日曜日

レシピを創れ

こんにちは

ぼくは普段ほとんどテレビを見ませんが、出張に行くとホテルでボーッと見ることがあります。
ボーッと見てたら、グッチ裕三が出ていました。
グッチさんはコメディアンだと思っていたら、最近は料理人としても有名なんですね。
その番組でグッチさんが言うことには、

 料理作りが200を越えたとき、
  料理店で美味い料理を食べたら
   すぐそのレシピが想像できるようになった。
 どんな素材を使っているか、
  調味料は何をどれだけ使っているか。

なんだって。
さすがですねー。
やっぱり意図的に経験を積むと、料理の「原理」が見えてくるんですね。

ぼくの仕事のメインは、新しい研究施設や実験施設を造ることです。
その施設ごとにだいたい1年から3年のプロジェクトとなります。
プロジェクトごとに違う人たちとタッグを組んで仕事を進めます。
違った会社、違った経験を持つ人たちです。
その人たちとぼくは、1年から3年くらいつきあうことになるわけです。
一緒に仕事をして、プロの仕事ができる人とできない人がいることが分かります。

その人がプロかどうか見わける方法があります。
それは次のような質問をしてみることです。

 ・この仕事、いつまでに完成する?
 ・この仕事、いくらでできる?

この質問に即答できる人はプロの腕前を持っている人です。
検討します、とか、社に戻って上司と相談してきます、なんて言う人は失格。
たとえ名刺に「課長」とか「主任」とかの肩書きが書いてあっても、とてもその職位にふさわしいプロの仕事ができる人とは思えません。
プロの仕事ができる人は、上の質問に即答でき、さらにその仕事が完成してみると、ほぼ言ったとおりの期日に、言ったとおりの金額で、必要な品質のものができあがるのです。
つまり、プロの腕前とは、ひとことで言えば「概算=見積もりができること」なんです。

概算ができるためには、

1.どのような方法でやればよいかを知っている
2.それにいくらかかるか知っている
3.それがいつまでにできるか知っている

が必要です。
つまり、「仕事のレシピ」が作れるってことですね。

これらは互いに関連しています。
方法が決まらないと、コストと期日も決まりません。
また、コストが決まっているのなら、それによって適切な方法を選択する必要があり、コストと方法が決まれば期日も決まります。
期日が指定されているなら、そのためにかけられるコストを見込んで方法を選択しなければなりません。
おおよそプロの仕事とは、この三つについて知識と経験に裏打ちされているものだと思います。
だから上のような質問にも即答できるわけなのです。

プロの仕事ができる人と一緒に仕事をすると、ホントに気分いい。
何が気分いいかというと、手もどりが少ないのです。
手戻りとは、あるやり方で仕事を進めているときに途中でにっちもさっちも立ちゆかなくなって、方針転換して最初からやり直すこと。
手戻りがあると、コストがかかりすぎてしまって、このまま進めると予算オーバーになってしまう。
時間がかかりすぎてしまって、このままでは期日に終わらない、他の工程に影響が出過ぎてしまう。
やり直しが多い仕事ほど消耗するものはありません。
お金や時間ももったいないですが、今までの努力を無にしてしまうほど精神的ダメージが大きいものはありません。

では、プロの仕事を身につけるにはどうしたらいいでしょうか。
ぼくの尊敬する小学校教師、野口芳宏さんの言うとおり「意図的に経験を積む」ことだと思います。
ぼくはいつも、この仕事はどんな方法でやっつければいいか、いつまでに終わらせることができるか、いくらかかりそうか、を意識してきました。
つまり、仕事のレシピを自分でつくってみるんです。
そして、その予想を誰かに公言してしまう、約束してしまうようにしてきました。

時には予想が外れてしまうこともありました。
失敗のリカバーに手間取ることもあった。
恥をかくこともなかったとは言えません。
でも、だんだん「言った通り」にできるようになってきたと思います。

こういうことを15年ほど繰り返してきた結果、ぼくも見積もりができるようになりました。
できあがった建物や設備を見ても、だいたいどのくらいの時間がかかったのか、どのくらいの費用がかかったのか、つくった人の腕はどのくらいか、見えるようになってきたんです。
愉快、愉快。

2009年5月2日土曜日

善意の強制

こんにちは

ぼくの尊敬する小学校教師野口芳宏さんは言います。

 教育とは強制である

教育とは、放っておいたら絶対身に着かないことを強制的にでも子どもに身に着けさせることだ、というのです。
ただし、どうでもいいくだらないことは押しつけてはいけない。
本当に子どもの将来に益するものだけを教える。
それを野口さんは「善意の強制」と言います。
だから、子どもの好みに任せた教育、子どもが最初から喜ぶような教育は、本物の教育ではないと言うのです。

確かに勉強というものを最初から好きな子どもなんかめったにいません。
子どもの好き嫌いに任せていたら、子どもは勉強なんか絶対にやらないですよ。
最初から子どもが好きな勉強は、そもそも何もハードルのない安易なものなのです。
そもそも最初から子どもが好きなものだったら、わざわざ学校で教える必要なんかないんです。
好きなら勝手にやるからです。

学校は、始めは嫌々だったことでも、そのハードルを乗り越えさせ、「結果として」子どもが喜ぶことを教える場所だと思います。
それによって勉強が好きになる、多少苦しくても努力して自分が向上するのが嬉しくなる、学校はそういう子どもを育てる場所なんだと思うのです。

ですから、子どもが嫌がることはするべきじゃない、という言説は間違っていると思います。
嫌がることでも、それが子どもの将来に益することであり、乗り越えることが子どもの成長に役立つことなら、嫌がろうが何だろうが教える。
ただし、途中で放棄してはいけない。乗り越えるまで引っ張っていく、サポートを続ける。
努力して苦しさを乗り越えて、その結果自分がかしこくなったことを実感できるまで、やりとげる。
これが本物の教育だと思うのです。

さて、教育にはお金もかかります。
小学校から高校まで、一人年間100万円程度はかかってしまうのです。
公立学校ならほぼ全額が税金からまかなわれます。
私立でも4割くらいは税金から助成されています。
だから私立の授業料は年間60万円程度なんです。
私立に通う生徒だって「公民」として育てるために、社会がその教育費を負担するのは当然である、という考えなのです。

このように、教育費は税金でまかなわれています。
ところで、親の支払っている税額はどのくらいでしょうか。
普通のサラリーマンなら所得税、住民税合わせても年収の20%くらいだと思います。
小学生を持つ親世代、30代のサラリーマンの平均的な年収は500万円程度でしょうか。
すると税額は500万円×20%=100万円です。
学齢期の子どもが二人いるとすると、税金でまかなわれる教育費は200万円ですから、親が支払う税額を超えています。
もちろん消費税も支払っているので、もう少しは税負担していると思います。
でも支払った税金がすべて教育予算に回っているわけではありませんから、親が支払う税額よりもたくさん自分の子どもの教育のために税金が使われていることは確かです。
つまり、会社の法人税、学齢期の子どものいない人、独身者や子どものいない人や子育ての終わった世代の人びとの税金が、自分の子どもの教育のために使われているのです。

なぜ、納税者は自分の子どものためではなく、他人の子どもの教育のために税金を使うことを許容しているのでしょうか。
それは「外部経済効果」に期待しているからだ、と言えます。

他人の子どもでもよりよく教育を受けさせれば、それによって将来の社会が発展し、安定します。
その子が将来立派な人になり、スゴイ発明をしてくれたり、ビジネスで外貨を稼いでくれるかもしれません。
もちろん大多数の子どもはそれほど大活躍するようになるわけじゃいでしょうが、自分の食い扶持くらいはちゃんと自分で稼いで、社会に多少なりとも貢献してほしいわけです。
少なくとも、社会の側から保護が必要な人にはならないでほしい。
そうして将来の社会が発展すれば、その恩恵を自分の子どもや老後の自分が受けることができます。
これを、「外部経済効果」と言います。
だから、自分の支払った税金が他人の子どもの教育費に使われても、納得できるわけです。
回り回って自分のためにもなるからです。

小塩隆士『教育を経済学で考える』日本評論社\1800-から引用します。

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「放課後に『お残り』させてむりやり勉強させるなんて、人権無視だ」と言い出す親が最近ではいるそうだが、学校はそういう親から子どもを強制的に引き放さなければならない。
公教育は国民の税金で運営されている。
そして、納税者は、教育の外部経済効果に期待している。学校は納税者の期待を満足させなければならない。(219p)
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外部経済効果を考えても、教育は子どもの好き嫌いに合わせてはいけないことが分かります。
特に初等中等教育は、納税者の負託に応える義務があるのです。
教師は親と子どもだけ見ていてはいけません。
社会から負託を受けて仕事をしていることを忘れてはいけないのです。
また、親は自分の子どもなんだからどう育てようと勝手だろう、なんて考えてはいけないのです。
自らが支払っている税金よりもたくさんのお金が、我が子の教育のために税金から支払われているからです。
私立に通わせているから関係ないということもありません。
だって金銭的に4割は社会からの負託を受けているわけですから。
善意の強制は、社会の側からも教育に求められていることなんだと思います。
関口

2009年5月1日金曜日

こだわらない・よく笑う・いじけない

こんにちは

知り合いの小学校の先生から、校内で行われた授業研修会の記録を送ってもらいました。
研修会の講師は、ぼくの尊敬する野口芳宏さん。
野口さんは元小学校の先生で、退官後も全国の学校に研修会の講師として飛び回っています。
記録の中にこんなことが書いてありました。

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(5)間違いを正されたことを喜べる子どもを育てること!
自分のミスに気づき,そこを直してもらったことで自分が向上できたことを喜べるような子どもを育てていくのが教育。
校内の研究会も同じ。お互いを高めていくために,直すことを歯に衣着せずいう。
そして,そのことで自分の技量が高まると感謝できる教師であれ。
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いいですねー。間違いを正されて喜べる子ども。
大人だって、社会人だって同じだと思います。
ぼくの職場にもいるんですよ、間違いを指摘されるとクサルおじさん。
そりゃあ人間ですから、間違いを指摘されたら誰だっていい気分はしないのは当然です。

でも、それでふてくされちゃって間違いを認めようとしない。
認めないから変わらない。
変わらないからまた同じような間違いを繰り返すんです。

それはどうも、少しでも間違いを指摘されると全人格を否定された、と感じちゃうからですね。
つまり自分は完璧であるべきだ、という誤ったプライドを持っている。
それは裏返せば自信のなさなんでしょう。
別に誰も全人格なんて否定していないんです。
「ここがおかしいよ」と、その部分だけを言っているだけなのに。
過剰反応してしまうんです。

ぼくが進学塾や予備校で小中学生や高校生に勉強を教えていたときも、過剰反応する生徒がいました。
勉強のできない子はすぐ「どうせオレはバカだよ」みたいなことを言う。
君をバカと言ってるんじゃなくて、ここをこう考えるようにすれば正解にたどりつけるんだよ、と言っているだけだよと、言ってもだめ。
そこであきらめちゃう。
自分はバカなんだって自己規定しちゃって努力を放棄しちゃう。

人はうすうすでも自分の欠点を知っているものです。
自分でも欠点を否定しているものなんです。
それを隠そう、隠そうとして生きているものなんです。
でもそれを他人から言われたくない。
自ら否定している欠点を他人から指摘されるととても傷つくわけです。
傷つきたくないから、妙なプライドを持つことによって自分を守っているわけ。
心がひ弱なんですね。
そして暗い顔をして生きる。

それに比べて自信のある子は、たとえバカと言われても平気。
むしろバカと言われて喜んじゃうようなお調子者もいました。
バカと言われても上機嫌なんですよ。へらへら笑っていたりしてね。
こういう子は実はものすごく勉強もできるし、行動もしっかりしている。
なぜバカと呼ばれても平気かというと、自分がバカじゃないのが分かっているし、たとえバカだとしてもバカなのはこの部分だけなんだ、と分かっているから。
この部分を直せば、自分はまたさらにかしこくなる、というのが分かっている。
努力の方向を間違えず、また努力の効率がいいんです。
強い心の持ち主なんだと思いました。

こういう強い心は一朝一夕には育たないでしょう。
子どもの頃からの小さな成功体験の積み重ねが必要なんだと思います。
小さな成功体験が自信を生む。
成功体験があるから自分の今の実力も正確に把握できるので、へんてこなプライドも持たなくてすむ。

内田樹『こんな日本でよかったね』バジリコ¥1600-にこうありました。

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コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。(181p)
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というわけで研修会での野口さんの言葉を読んで、子どもの頃の教育は大切だな、って再認識しました。
我が子たちにも小さな成功体験を積み重ねて自信のある強い心の持ち主に育ってもらいたいと思いました。
親であるぼく自身もそれを背中で教えられるよう、くだらないことにはこだわらず、よく笑い笑わせて、毎日をゴキゲンに生きていきたいって思っています。