2009年8月25日火曜日

学校の役割

こんにちは

中学校や高校で習う勉強なんか意味がない。
本当の勉強は、自分がやりたいことをやるときにやればいい。
その時に始めればいいんだ。

そういう言説をよく聞きますよね。
確かにそういうこともできる。
事実ぼくも、今の仕事に直接つながるような技術の勉強は30歳を過ぎてから始めました。
それでも10年くらいコツコツと勉強を続けていたら、中堅技術者程度にはなれたと思います。

でも、それはある程度の「基礎」があったからできたことだと思うのです。
基礎もない人が、やりたくなったときにそれだけの勉強ができるのかどうか。
その基礎はどこで学んでおくべきなのか。
やはり学校で学んでおくのが、ロスが少なく効率的なんだと思います。

職業人として人生を楽しく生きていくために、最低限どの程度の基礎が必要かと言うと、

 小学生程度の読み書き計算
  +中学生程度の文系科目or理系科目のどちらかの分野
   +高校生程度の好きな科目

じゃないかと思います。
このくらいの基礎があると、将来好きなことができたとき不自由なくその分野に飛び込めますし、自分に不足する知識や技能があってもその都度必要な勉強を開始することができる。
たとえばぼくの職場にいる世界最先端を走っている物理学者の方がこう言いました。
「高校の物理が身に付いているなら、物理学者になれる」って。
全分野、全教科をまんべんなく勉強することもないと思いますが、自分の好きな分野、科目を作っておくととても役に立ちます。

中学や高校の勉強は役に立たないと言う人もいますが、ぼくはそれは違うと思っています。
役に立たないんじゃなくて、役に立たせることができないだけなんだと思うのです。
知識はinputするだけじゃだめで、outputしなくては役に立ちません。
学校ではinputばかり教えるので、だからそれだけでは役に立たないのです。
なぜ学校でoutputまで教えないかというと、outputは人それぞれだからでしょう。
そこまで学校が責任をとるものでもないし、実際outputまで教えられないことだと思います。
outputは自分で試行錯誤しながら身に着けるものだからです。
outputを学校で教えてくれないからといって、学校の勉強を全否定してしまうのはよろしくない。
少なくともinputはとても合理的に順序よく教えてくれる。
要は、学校の利用の仕方ですね。

『ドラゴン桜』15巻を読みました。
龍山高校では東大を目指す特別進学クラスの生徒だけではなく、一般のクラスの生徒たちも「大学に行こうかなー」と言いだしています。
一般クラスでは、大学入試に向けたような高度な授業をしているわけじゃなく、中学校レベルの基礎を教えているだけなんです。
それでも、授業がわかってきて基礎が身に付いてくると、勉強に無縁だった生徒たちも変わってくる。
まあこれはマンガの世界ですから現実はそうもならないかもしれません。
でも、真理も含んでいると思います。

桜木先生は言います。

###
成長を実感できれば学校へもちゃんと来る
教室にいても居場所がないというような違和感を持たなくなる
机に座って授業を受ける普通の高校生の姿に戻れる
生活の乱れも改善され、ケンカやトラブルが減る
学校の空気が平穏になる
ちょっと勉強させるだけでこんなに変わるってことだよ
###

さらに桜木先生は言います。

###
学力の基礎は中学までにほぼ完成される
だから中学レベルの問題を完全に理解できたならば相当の力はついている
大学入試でも中学レベルの学習内容を応用して解ける問題は意外と多い
だから大学受験をするからといって学習レベルを無理に変えなくとも狙いどころを間違えずにしっかり対策をとれば合格はそれほど難しいことではない
###

そしてこう締めくくります。

###
もはや我が校の生徒はそれほどバカじゃない
###

かっこいいですねー。

学校の仕事は、「畑を耕すこと」なんだと思っています。
そこにどんな種を蒔くかは、それぞれの生徒の勝手。
でも、いつでも種を蒔いて、水をやったり肥料をやったりと必要な世話をすればグングン成長できるだけの畑にしておく。
学校は、卒業したからすぐ希望の会社に就職できるとか、自分の好きなことができるというような、直接役に立つところではなくなってるのは確かです。
でもその役割は依然としてあるんだと思います。
それは畑を耕すこと。必要なinputをしていくことを通じて。
「我が校の生徒はそれほどバカじゃない」と言えるような学校であってほしいなと思っています。

0 件のコメント: