2009年1月27日火曜日

友だちなんか一人いればいい

こんにちは

またも出張中の晶ちゃんからのメール。

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ゆうべ、寝る前、電気を消した後、はっちゃんが
「今日ね、幼稚園で、かなしいことがあったの。」
というので、聞いてみると、
「お外で遊んでいたら、みんないなくなっちゃったの。
みんな、はっちゃんのこと、だいっきらいなんだって。」
私は「?」と思ったけれど、
「そんなの信じられなーい。ママははっちゃんのこと
大好きだよー。よっちゃんもとっちゃんもおじいちゃまも
おばあちゃまも、はっちゃんのことが大好きだよー。」
と言ったら
「ありがと。」
と言って、その後、すーっと眠りました。
私はその後、気になってなかなか眠れなかったのですが、
「きらい、と言われると悲しい気持ちになる」ということを
感じるようになったのは、ひとつの成長かな、と思うことに
しました。しかも、ちゃんと母親に打ち明けるところが
かわいいですね。すごくうれしかったです。
この間の「死んじゃうのいやだー」といい、このことといい、
なんだか、はっちゃん、急成長していますね。
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面白いですねー。
誰もいなくなっちゃったのは、きっとお片付けの時間にはっちゃんだけ気がつかなかったのかもね。
だってはっちゃん、集中するとお漏らししちゃうくらいだもんね。
自分だけ気がつかなくて、ふと周りを見ると誰もいなくなっていたなーんてこと、ありそうです。

ぼくが帰宅してからもはっちゃんは同じことをぼくにも言いました。
けっこう、あっけらかんとした顔で。
だから、それほど意味はなくて、こういうことを言うのがブーム、ボキャブラリが増えて言ってみたくなっただけなのかもね。
様子は見つつ、見守っていきたいと思います。

そもそもぼくは、特に男の子は、みんなと、すべての人と仲良くする必要なんかない、と思っています。
男子たるもの、時には一定数の人から嫌われても、世のため人のために自ら思うことをやらなきゃいけないときもある。
多少の悪口、いじめにも耐えられなくちゃね。
だから、友だちもたくさんはいらないんです。
心の支えになる友だちが一人いれば十分。
それは、クラスメイトでもいいし、近所の子でもいいし、兄弟、家族でもいいし、おじさんおばさんでもいい。
孔子様など過去の偉人だっていいんです(あ、孔子様を友だち扱いしちゃうのは、ちょっとおこがましいか。。。)。

押井守『凡人として生きるということ』幻冬社新書\760-にこうありました。

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ある広告会社の調査によれば、「あなたは何人の友達がいますか?」と子供に聞くと、現在は昔よりかなり友達が増えているという。
少子化で自分の周囲にいる子供の数は相当減っているのに、友達の数は逆に増えている。
この珍現象はつまり、現在は動機なくして友人を作る時代になったということの表れなのだろう。
友達を作るのは何かを生み出したいからではなく、友達を作ることそのものに、若者が価値を置き始めているからなのだ。
手段が目的になったということである。
だから、友達を作ったからといって、その友達と何かを成し遂げようと考えているわけではない。
友達が多い人、というふうに周囲から見られることだけが自己目的化している、というわけだ。(131-132p)
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ぼくは、みんな仲良し教育が蔓延してしまったために、いじめも多くなったという仮説を持っています。
みんな仲良くするためには、異端者の存在は邪魔になってしまうから。
ちょっと変わった子は排除されがちになってしまう。
なので、排除されずに友だち仲間に入ったとしても、表面的なうわっつらの底の浅い友だちばかりになっている。
そんなの、本当の友だちじゃないって思うんです。
友だちは数じゃなくて、質、深みなんですよ。

押井さんはこうも言います。

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僕には友人と呼べる人はひとりもいない。
けれど、仕事仲間ならたくさんいる。
友人などほしいとも思わない。
仕事仲間がいれば、それで十分だ。(125p)
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すごいですねー。
友だちというと、公私の別なく長い関係を築くもの、という固定観念もありますよね。
そうじゃなく、そのときどき、時代によって、住む場所や仕事、自分のレベルによって、友だちだって入れ替わっていってもいいんじゃないか。
それが押井さんの言う「仕事仲間」なんだと思います。

ともかく、何らかの形で誰かと強いつながりは必要です。
誰ともつながっていないのは、寂しい人生です。
たぶん、耐えられない。
たとえ本の中の人物でもいいから、誰かと強く絆を持てる。
はっちゃんととっちゃんにも、そういう人間に育っていってほしいと思います。

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