2009年1月10日土曜日

いじめの定義をまちがえるな

こんにちは

最近、「いじめ」という言葉を間違って使っている人が多いんじゃないかって思います。
無定義に安易に使っているというか。
それが、いじめ問題を複雑にこんがらせている原因だと思います。

一度ちゃんと辞書を引いてみましょう。
辞書的な意味で「いじめ」とは、

 自分より弱い立場にある者を、肉体的・精神的に苦しめること(大辞林)

です。
これをあいまいに解釈する人が多すぎます。

たとえば、金銭を巻き上げられたときもそれを「いじめ」と言ってしまう。
学校で多いですね。
でも他人の金銭を巻き上げるのは「いじめ」の領域を越えています。
それは「犯罪」と言う方が正しい。
犯罪であるのにそれを「いじめ」と言ってしまうと、なんだか犯罪性が薄れてしまいます。
事実を矮小化しているように思える。
それが加害者側にある種の安心感を与えてしまうのではないか。

子どもには犯罪は犯罪だとはっきり言ってやった方が教育的だと思うのです。
「いじめ」なんて言っちゃうから、ことの深刻さが十分認識されないんじゃないか。
学校の先生は法律の訓練をあまりしていないのでしょうか、法に触れるような犯罪性の強いものでも、普通のいじめと同じように扱ってしまっているように思います。
刑法に触れるようなものには毅然と立ち向かい、それが例え学校内でなされたことでも警察に通報するくらいの強い決断が必要だと思います。

子どもの頃の犯罪は、罪に問われない、と誤解している人も多い。
子どもだろうと大人だろうと、同じことをすれば同じ罪なんです。
ただし、子どもの場合は判断力が不十分だとか将来があるからだとかの理由によって、罰は軽減される。
罪と罰を混同してはいけないんです。

もうひとつ、重要なことがあります。
辞書に書いてあったいじめの定義を思い出してください。
いじめは「弱いものいじめ」限定なんです。
田下昌明『一に抱っこ、二に抱っこ、三、四がなくて五に笑顔』高木書房¥1200-にこうありました。

###
いじめという言葉は、本来、弱い者いじめからきています。
私たちは子どもの頃、「弱い者いじめをしてはいけない」と習いました。
「いじめをしてはならない」とは習いませんでした。
つまり、強い者が弱い者に対して、精神的、肉体的な暴力を加えることをいじめといいます。
卑怯な行為ですので、それは許せないということです。
弱い者同士、強い者同士の場合は喧嘩です。
ですから、いじめの根本的な問題は、「弱い者いじめ」です。
このところをはっきりさせていないことが、いじめ問題を複雑にしています。
ですから、「自分は強いのか、弱いのか」、その判断ができるように、大人が子どもにその年代に応じて教えておく必要があります。
それが分かれば、自分はある点で強いそれなのに弱い者をいじめるとなると、それは卑怯だということが分かります。
例えば運動会で一等をとった者には、きちんと一等賞をやる。
そのことによって自分はその分野では強いということを認識できるようになります。
同時にそれをみんなも認めたことになります。
ここのところろをやらないと、いじめという言葉が一人歩きしてしまって、いじめの定義が発生しなくなり、いつまでもいじめがなくならないということになります。(132-133p)
###

そうなんです。
いけないこと、卑怯なことは「弱いものいじめ」なんです。
何でもかんでも「いじめ」としてしまうと、あらゆる諍いや暴力も否定してしまうことになります。
弱いもの同士、強いもの同士のけんかなら、子どものうちに大いにやるべきです。
弱いものが強いものへ挑んでいくなんてことだって、やるべき経験だと思います。
こういう「健全」な諍い、暴力も否定してしまうから、子どもが本来的に持つ攻撃性を発揮する場がなくなってしまうのです。
そのためその暴力性が潜伏し、陰湿ないじめへと変貌してしまうのだと思います。

弱いもの同士、強いもの同士のけんかや、弱いものが強いものへ挑んでいくことを通じて、自分がどこが強くてどこが弱いのかも分かってきます。
もちろん誰が弱いのかもわかり、その子にたいしても優しくなれる。
健全なけんかを通じて、卑怯ことはどういうことなのか、卑怯なのは誰なのかも分かってくるんだと思うのです。

0 件のコメント: