2009年5月19日火曜日

喜んでくれる人がいるからこそプロ

こんにちは

最近、プロって何だろうなー、って考えることがよくあります。
その仕事で給料をもらっていれば、誰もがプロのはずです。
でも、こいつとてもプロとは呼べないな、と思う人もたくさんいます。
プロらしい人とそうじゃない人、その違いは何なのでしょうか。

写真家の秋山庄太郎さんはこう言っていたそうですす。

 女であれ、花であれ、山であれ、小枝であっても
 カメラのファインダーをのぞいて
 「ああきれいだ」と思った瞬間にシャッターを切る

美的感覚があって、美しい瞬間を逃さないだけの「技術」がある。
それがプロ。
でもそんなの当たり前ですね。
ここからがすごいんです。
秋山さんはさらにこう言います。

 これをカメラに収めて写真にしたら、
 これを見る人も、ああきれいだ、と
 思ってくれるだろう

つまり、常に「誰か」を意識して仕事をしているんですね。
写真を見てくれる人が喜んでくれるかどうか。
秋山さんが写真家としてプロでいられるのは、秋山さんの写真を楽しんでくれる人、喜んでくれる人が存在するからなんです。
そこが自己満足で終わるアマチュアとは違う。

給料をもらっていなくたって、家事だって育児だって介護だってプロであるべきです。
そう考えると、プロの仕事には「対象」がある。
それは、お客さんだったり、家族だったり、子どもだったり、老人だったり。

自分がすることに対して、喜んでくれる人がいる。
喜んでもらうにはどうしたらいいか常に意識して、自分の行動を律する。
お客さんが喜んでくれるにはどうしたらよいか。
家族が幸せに暮らすために、自分は何をすべきか。
子どもが真っ当に育つために、どうしていくのがよいか。
老人が快適に過ごすために、今何をしたらよいか。
いつもそういう誰かのことを考えて行動できる人がプロなんだと思います。

老人介護なんか顕著だと思いますが、下手な人に介護されると不快で不快で仕方ないと言います。
お世話されていても、ああ早く終わってくれないかな、と思う。
次は別の担当さんが来てくれないかな、とも思う。
口に出して言わないかもしれませんが、下手な介護につき合わされる老人はそう思うのだそうです。
下手な介護をする人は、相手のことを考えずに、自分のやらなきゃならないことだけを機械的にこなす。
相手の反応を確かめつつ、自分の仕事をしていくという態度に欠けているんですね。
そういう介護をされると、自分がモノ扱いされているようでとても不快になります。

喜んでくれれば、必ず「報酬」も着いてきます。
お金であったり、次の面白い仕事であったり、感謝の言葉であったり、報酬はいろいろでしょうが、必ず自分に返ってくるものがある。
そしてそれがまた、もっと喜んでもらうにはどうしたらいいか、という自分を成長させる原動力になっていく。

同じ金額のお金だって、ちっともよくないけど契約書に書いてある金額を渋々支払われるのと、ありがとうの言葉と一緒にいただけるお金では、その価値はまったく違うものだと思います。
その時は同額だったかもしれませんが、ちっともよくなければ次は減額、あるいはそこで縁が切れてしまうかもしれません。
喜んでもらえば、次もあるし、もしかしたら増額契約してくれるかもしれませんし、他の人に紹介してもらえる可能性もある。
ご縁が続いていきます。
つまり、プロの仕事は未来に向けてひろがっていく可能性を持っている。

ロケット博士の糸川英夫さんは、そのことをこう言います。

 プロは「相手」の信認の上に成り立つ
  (糸川英夫『モーツァルトと量子力学』PHP文庫)

相手に喜んでもらう。
それを常に意識して自分のやることを律していく。
そうすれば相手からの信認を得られ、プロに育っていけるんだと思っています。


秋山さんの言葉も糸川英夫『モーツァルトと量子力学』からの孫引きです。

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