2008年9月6日土曜日

自由とは束縛でもある

こんにちは

職場のテクニシャンの人からこんなメールをもらいました。

> デグー部屋の防音箱下の床が沈んでいる問題の件ですが、
> 9日に補強が完了しました。
> 相談に乗っていただきましてありがとうございました。
> とても助かりました。

嬉しいですねー。
自分のやったことが役に立ったことが嬉しい。
もちろん、ぼく一人で相談に乗ったわけじゃありません。
直接相談されたのはぼくですが、同じ課の建築担当の人と一緒に現地を見て、対策を考えたのです。
一人で考えることなんか限りがあります。
答えを持っている人を適切に選んで頼めるのも、技術者の腕だと思っています。

「自由」という言葉があります。
自由を、誰にも束縛されずに自分の好きなことができること、と誤解している若者が多いように思います。
実は、束縛のないところに自由はないんですよ。

ちょっと前、秋葉原で信じられないような事件がありました。
歩行者天国にトラックで突っ込み、ナイフで誰彼かまわず刺していった。
事件後の報道によると、この犯人は親からも見捨てられ、仕事からも排除され、恋人もいないという、よのなかとのつながりが切れてしまった人物のようです。
つまり、誰からの束縛もなかった。
でも、そこには自由もなかった。
彼に残された「自由」は、悲惨な事件を起こすようなことだけになってしまっていたんだと思います。

京都大学教授の中西輝政さんの本の受け売りなんですが、自由を意味するフリーの言語のゲルマン語「プリー」には「自ら属するもの」という意味があるそうです。
だから、「自由」というのは「帰属する集団」があって初めて成り立つものなんです。
自分が安心して身を置ける場所、人たちがいてこそ、自分の好きなこと、やりたいこともできる。
逆に言うと、自分の好きなこと、やりたいことをやるためには、自分の身の置き場が確実にあることが必要なんです。

でも、どんな人でも身の置き場があるかというと、そうじゃありません。
やっぱりその場、その集団に無くてはならない人、役に立つ人じゃないと認めてくれません。
それは一見「束縛」されることでもあるんです。

日垣隆『学校がアホらしいキミへ』大和書房\1200-にもこうありました。

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あらゆる動物がそうであるように、親から子は「自立」しなくてはいけないけれど、周囲の友人や知人や先輩たちには、逆にたくさん「依存」できる人が賢い。
役に立たない者や、おもしろくないやつは、長く依存させてもらえない。(29p)
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自立と依存は表裏一体のものなんですね。
同じく、自由と束縛も表裏一体のものなんだと思います。
何かの役に立つことが、自由への最短距離なんです。
役に立つことの中には、おもしろくてみんなを笑わせたり和ませたりすることも含まれます。
何らかの形で、集団に貢献することが必要なんです。

それができた人は、依存でき、多少の甘えたことだって許してもらえる。
同じことをやっても、あいつならしょうがないかー、なんて言ってもらえる。
多少羽目を外しても、笑って許される。
自分の好きなこと、やりたいこともやれるようになり、自由度が上がる。
それは常日頃、集団に貢献しているから許されるんだと思います。

間違ってもらっちゃ困るのは、貢献が先なんです。
よのなかに束縛されることが先なんです。
若い人にはちょっとうっとうしいことかもしれませんが、束縛の中でみんなのために貢献していき、少しずつ自分のクレジットレベル(信用度)を上げていく。
その積み重ねが、自分の好きなこと、やりたいことも認めてもらえるようになる。
これが自由への王道なんだと、ぼくは思っています。

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