2008年9月26日金曜日

疲れと怠さを峻別せよ

こんにちは

GW明けから何となく体調が優れず、そのため頭も今ひとつ冴えません。
ちょっと風邪気味。
GWにゆっくりしすぎたようです。
人間は、ラクしすぎても体調が悪くなるんですよね。
まーたまに風邪を引くのも体にとっていいことなんだそうですから、気にせずに徐々に治しつつ、エンジン再スタートです。

ところで「疲れ」と「だるさ」は、似たような状態ですよね。
どこがどう違うのでしょうか。

「だるい」をワープロで漢字に変換してみると、「怠い」です。
ああ、こういう漢字を当てるのか、と思いました。
ちょっとした発見。

<怠>という漢字を使った言葉を辞書で調べると、怠る(おこたる)、怠ける(なまける)、倦怠(けんたい)、怠業(たいぎょう)、怠状(たいじょう)、怠慢(たいまん)、倦怠感(けんたいかん)などがありました。
「怠ける」に代表されるようにどちらかというと何もしないでだらだらした状態を指しているようです。

これで分かりました。
「だるい」という状態は、何もせずだらだらすごして体と精神が鈍った状態なのです。GWをダラダラ過ごしたぼくのように。
それに対して「疲れる」は、自分のキャパシティを超えて体や精神を酷使た結果、不調になるということ。
どちらも肉体的にも精神的にも似たいような感覚をもたらしますが、原因は正反対なものなのです。

「だるい」は、体内のエネルギーが十分発散できずに体内に滞ってしまった状態。
「疲れる」は、体内のエネルギーを出しすぎて枯渇した状態。

エネルギーを出さなくても出しすぎても、人は不調になるようです。
体内のエネルギーを程良く出し切ったとき、疲れたとしても爽快な気分になるのはそういうわけなのでしょう。

斎藤孝『くんずほぐれつ』文芸春秋\1000-から引用します。

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自分の経験で言えば、中学三年の頃、急にだるさを感じるようになった。
いつも「かったるい」気がしていた。
「めんどくせー」、「カンケイねーだろ」が口癖のようになっていた。
現在の中高生にとっても、「かったるい」「たりぃ」は、ベーシックターム(基本用語)のままである。
ずっと一つの疑問が解けないままだった。
「最もエネルギーにあふれているはずの自分のからだが、なぜこんなにもだるく疲れているのだろうか」
二十代のある日、野口晴哉の本の一節を読んだとき、ひっかかっていたこの問題が氷解した。
私の記憶に残る一節の趣旨は、こういうことだ。
だるい状態とは、エネルギーがなくて疲れている状態ではなく、むしろ逆にエネルギーが過剰な状態である。
私たちは、しばしば、だるさと疲れを混同してしまっているが、両者は正反対の状態なのだ。
疲労しているならば休む必要があるが、だるいときは動く必要がある。
これを読んだときに、なぜ中学以来あれほど「かったるかった」かが理解できた。

あれは、疲労感ではなく、エネルギーを注ぐ場所を見いだすことができずに、エネルギーが滞留した不快感だったのだ。
いわば、きちんと疲労することができないでいる状態が、あのかったるい身体であった。
だるい身体は、心地好く疲れる場所を探していたのだ。(85-86p)
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確かに中学生くらいの子どものは、しばしば「だるい」と言います。
それは、自分の中に湧き出てくるエネルギーを、どこにどう発散していけばいいのか分からず、それが体の中に澱のように溜まってしまうからだったんですね。
エネルギーは小学生の頃よりも断然増えてきたにも関わらず、小学生の頃にやったようなことにエネルギーを注ぐのはあまりに幼稚すぎる。
かといって大人と同じことはできない。
そういうジレンマがあって、人間的にも社会的にも中途半端な自分をどう動かしたらいいのかが分からない時期なんでしょう。
中学生である自分にふさわしいエネルギーの注ぎ先が見つからないから、だるくなってしまうのだと思います。

適切にエネルギー収支を管理すること、すなわち「がんばりすぎず、ラクしすぎず」が、体と心に必要な生き方なんだと思いました。

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