2008年9月10日水曜日

なぜ勉強し続けるのか

こんにちは

先日X線自由電子レーザー推進本部の事務室に立ち寄ったら、作業机の上に「安全評価委員会資料」というのが置いてありました。
その日に行われる放射線の安全に関する委員会の資料でした。
パラパラと読んでみました。
安全性を評価するための難しい計算式がズラズラと書いてあります。
ところが意外や意外、スラスラと読み進めることができました。
嬉しいですねー。

ぼくは今年も第1種放射線主任者国家試験を受験しようと思っています。
昼休みに脳センターや仁科センターの友人たちと勉強会を継続しています。
もちろん、暇を見つけては毎日(土日を除く)30分でもいいから自学もしています。

資料をスラスラ読み進めることができて、ぼくのこの分野の基礎も大分身についてきたと実感しました。
もしかしたら今年は合格できるかも!

さてさて、福田和也『岐路に立つ君へ--価値ある人生のために』小学館文庫\476-にこんなことが書いてありました。
ちょっと長いけど引用しますね。

###
どんな人間を投資価値があると、会社は思うか。
それは「能力がある人間だ」と一般には考えられるね。
では、会社にとって、「能力」というのは何だろう。
そういうと、これは学生だけでなくて、大学の先生方もおかしがちな間違いなんだけれど、すぐに、具体的な能力、つまりは「資格」とか「スキル(技量、熟練)」とかを頭に浮かべがちだ。
ところが、ことはさほど単純ではない。
たとえば、簿記の一級とか英検の一級というような資格は、就職に際して有利だと云われているし、実際そうであるらしい。
では、このような資格は、なぜ有利なのか。どこを企業側は評価しているのか。
そんなのは、簿記や英語ができるということにきまっているだろう、と君は云うかもしれない。
でも、そうじゃないんだね。
いや、もちろん簿記や英語ができることも大事だろうが、そんなことは会社の都合にとっては小さいものにすぎない。
英語なんて、今時いくらでも使い手が余っているんだからね、必要なら、人材会社からの派遣でいくらでも雇えるんだ。
社員の採用という、数億円規模の投資を、そんな安い能力のために左右させたりはしない。
では、何が問題なのか。
それは「習得能力」なんだね。
つまり会社が英検や簿記の資格を評価するというのは、その資格取得者が、そういった試験に向けてこつこつと勉強をし、努力を重ね、困難な試験を通る、スキルと試験技術にかかわる高い習得能力をもっているということを意味している。
そういった高い習得能力を持った人間は、会社が要求する、さまざまな分野にかかわる知識、技術をすみやかかつ確実に習得しうるであろう、と期待を抱かせるわけだ。
だから、帰国子女が英検一級をとっていても、それほど高くは評価されない。
それはこつこつ机の前で勉強して獲得したものである、とは受け取られないからだ。
これは、学歴の問題も同じだね。
偏差値の高い大学の、よい成績の学生を企業がますます好む傾向にあるのも、業務での新しい知識の習得が加速度的に必要になるにつれて、受験勉強のような、長期的で、困難な知識・技術の習得を勝ち抜いてきた学生には相応の習得能力がある、と考えているからだね。
つまり、企業が評価するのは、学生が、現在、即戦力としてもっている能力よりも、むしろ潜在的な能力、ポテンシャルとしての「習得能力」であるということだ。(p82-85)
###

資格試験や受験の勉強は、それ自体が役に立つだけではなく、新しいことへのチャレンジ精神、新しいことを習得する能力、地道な努力を継続できる能力といった<内部ポテンシャル>を伸ばすためにも有効なんですね。
そして、難度の高い資格試験に合格したり、難関学校に入学できたということを、社会や世間が評価してくれるのは、その内部ポテンシャルが高いことを認めてくれるってことなんです。
<<帰国子女が英検一級をとっていても、それほど高くは評価されない>>っていうのが面白いですね。
英語圏で育った人なら、特に努力しなくても英検1級くらい合格できるからね。
それでは内部ポテンシャルが高いとは認めてくれないわけです。

ぼくもこれまでたくさんの資格試験に挑戦してきました。
もちろんその資格が今の仕事にも役立っています。
それに増して、ぼく自身の内部ポテンシャルを上げてくれたと自負しています。

これからも勉強をし続けていきたいと思っています。
まー、勉強することは楽しいことだしねー。

0 件のコメント: